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不埒な女の正体

掌編「La Maja」

北方の山脈の向こう、隣国で勃発した革命の気配が流れ込み始めている危機的な時世、夫である国王陛下が改革派の国務大臣を左遷した。次いで、相対する派閥、生粋の大貴族である公爵をその任に就けたけれども、公爵は何ら有効な手立てを打てず、しばらくして失脚した。代わりに国務大臣に任じられたのは、若干二十五歳の青年である。平民出身、十七の時分に近衛隊に入隊している。陛下に進言し、推挙したのはわたくしである。青年はわたくしの気に入りだった。五年前の話だ。

ますます危うげな雰囲気へと移り変わりながらも仮初めの平穏にたゆたっている世紀末、青年の時を過ぎたその男には、執心の女ができていた。わたくしの寵愛には目もくれず、彼は足繁く女のもとへと通っている。わたくしは知っている。女はいつも彼の屋敷にいる。彼の、美術の部屋のなかに。

女に名はない。少なくともわたくしは知らない。よって、素性も判然としない。口さがない者は男の数年来の愛人によく似ていると語るが、わたくしはあの忌々しい女狐を思い出すだけで不愉快である。あの女狐に比べれば、不詳の女は幾ばくか許せようというものだ。何せ、この国の者とは到底考えられない容姿なのだから。大理石の如き、滑らかな乳白の皮膚をしているのだ。青みがかってすらいる。石膏の像と見まごうこともある。暗がりで、蝋燭の火だけに照らして見れば、幽鬼の類いに見えなくもなかろう。

女は、美貌ではないが、目を逸らせない姿をしている。

常時、女は、白い羽毛座布団の敷かれた暗緑の寝台に寝そべっている。しどけなく纏う一枚の衣もなく、女は裸体で、淫らである。過去の女神たちさながらに、豊満な肢体を惜しげもなく晒しているのだった。

うおの腹のような、きゅっと絞まった脹ら脛から、なだらかに丸みを帯びた太腿、腰。贅肉を持たない腹から、特徴的な胸部をなぞり、見る者の目は女の顔へと辿り着く。頭部で腕を組んだ黒髪の女は、ほほ笑んでいる。頬を染め、気怠げに眸を細め。それは挑発的な笑いだ。わたくしはあのほほ笑みにぶつかるたび、負かされたのだと口惜しくなる。わたくしは――否、恐らく女へ対峙する者は誰しも、その術中に嵌まっている。足の細い爪先から目を逸らすことができないまま、女をつぶさに眺めてしまうという、その術中に。

嫌らしい、不埒な女だ。人の眼差しを奪う。
男の執心の女。

わたくしは、女を「マハ」と呼んでいる。当然、口に出したことはない。胸中で嘲っている。

彼は、女について、よい出来だろうと親しい者たちに自慢するのだそうだ。本来は描かざるべき裸体の女。手掛けたのは、陛下とこのわたくしも目を掛けている、主席宮廷画家である。画家は、宮廷画家以前、庶民の生活を主題にしたカルトンを得意としていた。わたくしの友人である女公爵がマンティーリャを着ている肖像画を描いたこともある。あれの筆が生み出した女なのだから、わたくしは女を「マハ」と呼ぶ。粋な女という意味だが、所詮は、身持ちの悪い奔放な女に当てられる、庶民の言い回しである。

わたくしの愛情に素知らぬふりを続けるわたくしの男を虜にする、「マハ」。されどもわたくしは、「マハ」に嫉妬などしてはならない。陛下を窘めることさえ許される、わたくしは国一番の女である。

うっすらと陽に焼けた健康的な肌は、夜毎、侍女らに丁寧に磨かせている。年老いても艶を失わないよう、自慢の黒髪には薔薇の精油を垂らす。隣国で流行した意匠で仕立てさせた高級衣装を身につけ、華やかな化粧を施し、わたくしは扇のうちで悠然とほほ笑む。

男は「マハ」に惚れている。

屋敷の奥、わたくしが差し上げた数ある美術品のそのなかで、官能的な女の魅力に取り憑かれている。

わたくしはそれを冷ややかに嘲る。
女を見る目のない、つまらない男だこと、と。

時勢は、動乱へと向かっていく。

革命で戦功を上げ、名声を得た隣国の血統を持たない野蛮な皇帝に追従し、男はやがて国務大臣としての道を誤る。戦争の誘因となって失脚し、隣国へと移送された後、次代の王には忌避されて外国で没した。六年に及ぶ戦争の後、「マハ」は猥褻であるとして異端審問所に押収され、その後数十年、行方知れずとなっている。


掌編「La Maja」
初出 2013年2月6日(※本作品は、史実を元にしたフィクションです)


解説・考察

近代以前のヨーロッパにおいて、「裸婦」は、神話や歴史の限られた主題の中でのみ描かれることが許されていたことをご存じの方は多いだろう。そしてその伝統を打ち破ったのが、フランスの画家エドゥアール・マネ(1832-1883年)が描いた《オランピア(Olympia)》(1863年)であることも、よく知られたことだと思う。

だが、マネが《オランピア》を描くより以前に、伝統的な主題を逸脱し描かれた「裸婦」像がある。スペインの画家フランシスコ・ゴヤ(1746-1828年)の手による《裸のマハ(La maja desnuda)》(1795-1800年)である。


《裸のマハ》が、近代的な裸婦像の先駆として取り上げられることはほぼない。どのような経緯があって作品が制作されたのかという文脈が抜け落ちていること、ゴヤのパトロンであり、恐らくは本作品の依頼主であったと目されている国務長官のマヌエル・ゴドイ(1767-1851年)が失脚した後に作品が異端審問に掛けられ、長きに渡りプラド美術館の地下に眠っていたこと――そしてその間にマネは《オランピア》を発表している――、そもそも画中の女性は何を表現しているのかがわからないこと、などが、恐らくはその理由だと私は考えている。

マネの《オランピア》が表現するものは、タイトルからして明白である。「オランピア」とは十九世紀当時の娼婦の通称であるし、清潔な寝台の上に寝そべる女性は裸体ではあるが装飾品をまとって着飾り、後ろには花束を持った黒人の召使が立っている。澄ました表情をしている《オランピア》の女性は、それまでのヨーロッパ美術で描かれてきた神話画のヴィーナスや、歴史画に現れる婦人たちとは、明らかに一線を画している。

一方で、《裸のマハ》は、物語(あるいは素性)が判然としない。画中に背景はなく、深緑色の寝台に白いクッションを置き、その上に白く滑らかな裸体の女性が寝そべっている「だけ」という構図なのである。

また、現題名には「マハ(La maja)」、つまり「娼婦」とあるのだが、当初この作品は「ヌード(desnuda)」とだけ記されていた記録があり、どのような女性を描いた作品なのかは、真実明らかにはなっていない。ゴドイの愛人であったペピータ・トゥドーがモデルであろうというのが有力な説だが裏付けるものはなく、画中の物語性が欠落しているがゆえに、生身の人間の描写と言い切ることができない。

このような側面から、ゴヤの《裸のマハ》は、マネの《オランピア》とは全く事情が異なっている。《オランピア》よりも早く制作されているにも関わらず、《裸のマハ》が近代的「裸婦」像の先駆として挙げられることがない背景には、以上のような経緯が関係しているのかもしれない。


厳格なカトリシズムが根づいていたスペインには、神話画・歴史画も含め、他のヨーロッパ諸国と比して「裸婦」の豊かな伝統がない。そのような中で、ゴヤが《裸のマハ》という作品を描いている事実は、私には長年興味深い事柄で、考察に限界があるという理由からかつて修士論文の研究対象にはできなかったのだが、今もなお関心がある作品の一つである。

以前《裸のマハ》を調べていて一等私の興味を引いたのは、本作品の女性が「画面向かって左側を爪先にして、右側に顔がある」ように描かれている構図の特徴だった。人間の目線は左から右へ動くので、画中の女性の身体を追っていると自然と官能性を帯びる、というのだ。伝統的な裸婦像は――この点においては《オランピア》も同様であるが――画面左側に頭があることが多く、真っ先に視界へ飛び込むものは表情なのだが、《裸のマハ》はそうではない、という論考が面白かった。残念ながら、どこで読んだのであったのかは、忘れてしまったのだけれども。

このことを念頭において他の作品を眺めてみると、なるほど、マネの作品の展示を拒否したアカデミック絵画の巨匠、アレクサンドル・カバネル(1823-1889年)の代表作《ヴィーナスの誕生(La Naissance de Vénus)》(1863年)なども、色彩以上に、その構図からこそ官能性を帯びているようにも見える。

というので、ヨーロッパにおける「裸婦」像の変遷は、今後も細々と見比べていきたい絵画のジャンルだと思っている。


参考:
・増田哲子〔2007〕「大理石のような肌をした裸婦──フランシスコ・ゴヤ《裸のマハ》の皮膚の表現──」『文化交流研究(筑波大学・文化交流研究会)』第2巻
・院生時代に私が書いたレポートと論文

※2019年9月25日投稿の有料noteを再投稿しています。

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