見出し画像

死に方について

今年の夏の終わりは随分と静かだ。

これは私の感覚だけの話なので、私がただそう思っているだけだけれど。

雨続きの後、あれだけ暑さが戻ると言われているが、私の生きる土地特有のジメジメとした湿気はあるものの、一時期ほどの猛暑ではない。きっとこのまま秋になっていくのだろう。それか一瞬で秋が過ぎて、気がつけば重たいコートに袖を通す日々が来ているかもしれない。


静かな季節の営みのように、命も静かに静かに、灯を小さくしていく。


燃え尽きる命というのは、実際、テレビドラマみたいに壮大なものでは無い。
毎年夏のお決まりのお涙頂戴テレビ番組でやるような、ドラマティックな最期などひと握りだ。もしかしたらそんなものないのかもしれない。
多くの命は、病に蝕まれて文字通り侵食されていくように、徐々に削り取られていく。
きっと本人も終わりを感じ取っていて、周りも消費されていって、だけど少しの希望に縋りついて、もがいて、残り時間を少しでも伸ばして足掻いて、やっと終わりが来る。


生きている限り必ず死ぬのだ。
苦しみにもいつか終わりがある。

そのことが、私には救いにすら感じられる。


この間退院した父の体は、ほんとうに小さく小さくなっていた。元々、肩幅が広くてラグビー選手並に大きい体だったけど、今は脚も腕も筋肉が落ちて細くなってしまって、誰かが見守っていないと家の前の階段を降りるのも危なっかしい。もう何度か踏み外して転んでいる。薬の副作用で眠気が強くいつもウトウトしているし、ついこの間までマックのビックマックにダブルチーズバーガーに調子がいいとテリヤキバーガーまで食べていたけど、今ではビックマックひとつ食べ切るのすらやっとだ。(末期ガン患者にしてはよく食べているけれども)
まだ現役で働いている人もじゅうぶんいる世代だが、もうすっかりおじいちゃんのようになってしまった。

そんな父親の痩せ衰えていく姿に、春の終わりに亡くなった祖母の姿を、どうしても重ねてしまう。
食べられなくなってやせ細って、眠っていることが多くなって、枯れ枝みたいになって死んでいった祖母の最期。安らかで、苦しんだ様子もない、眠っているような祖母の亡骸。
いつか父親も、こうして死んでいくのだろうか。
どうか苦しまずに、優しい最期であって欲しい。


と、ここまで書いてはいるが、まあまだ看取りの話をする段階には至っていない。(その直前ではあるような気もするけれど)
幸か不幸か、ガン患者にしては若い部類に入るので、なまじ体力が残っているせいで、ここまで死なせて貰えなかった。

これは私の考えだが、今の時代、簡単には死なせて貰えない代わりに、終わりを考える時間が昔よりあるのだと思う。コロナ禍の中病院での看取りが難しいのなら、自宅で環境を整えて、患者の好きな環境で日常を送りながら準備をする。家族は少し苦労をするかもしれないけど、どんな姿であっても、近くに居てあげたい。ひとりで苦しませたくはない。治らないのなら、せめて少しでも楽に過ごさせてあげたい。

生き方を選び、死に方まで選ぶ時代になってきたのだろう。

死んだ後残るのなんか思い出と骨だけなんだから、せめて悔いが残らないように選択していくしかない。

テレビドラマの涙涙の今生のお別れのシーンを迎えた人達にも、実際にはその裏で、患者と家族の心の準備をする為のたくさんの選択があったに違いない。あの家族たちは、選択していく過程の中でいろんな折り合いをつけて、優しさに満ちた最期のシーンに至っているのだ。

きっとどこまで準備を整えても、すべて終わってしまった後に「これでよかったのか」がつきまとうと思う。それは仕方のないことだ。
私だって、結果大往生だった祖母の終末期に関してたくさんの未練がある。もっとこうしてあげられたら、あの時こうしていたら。でも、それは少なからず自分を犠牲にしなければいけなかったことで、私だってまだ世間で見ればじゅうぶんに若くて、やりたいことだってたくさんあった。簡単に心の整理がつかないことだってあった。それは誰も悪くないことなんだ。あの時の私を責める必要はないと、やっと最近、思えるようになってきた。



とかまあ、冷静な顔をしているような感じで書いてきたけれど。

結構いまズタボロ。

ドラマで見るような宣告シーンはほんとうにあっさりしている。結論を出すにも時間が足りない。時間が沢山あったとして、悩んでも正しい答えなんてわからない。こればかりは、正しいかどうかなんか結果が出てみなければわからなくて、結果が出る頃にはきっともう手遅れになっていることだから。

「正しさ」という言葉に、ここ最近ずっとぶち当たっている。
人間の選択に正しさなんか本当は存在しないような気がする。
きっと間違いだってない。



すべて終わったその時には、私はやっと私自身のためだけに生きてあげたい。