映画『愛がなんだ』感想
こんにちは。はなぶさりあむです。
今回は、最近見た映画の感想を書いていくよ!
※ ネタバレもありなので、ご注意ください!
『愛がなんだ』(2019)
見たきっかけなのですが、流行りの作品を結構スルーするタイプなので、ちゃんと見ておこう!という単純な気持ちと。
もう一つのきっかけが、最近見たコント。
日大芸術学部出身のコント集団、ダウ90000のコントです。
ものすごくいい。
セリフ内に「『愛がなんだ』やってんだから!」とあり、そういえばちゃんと見たことないな、と思ったのでした。
映画公式HPのあらすじは以下の通り。
登場人物について簡単に。
<主人公・テルコ>
20代後半の会社員だが、偶然出会ったマモちゃんに恋をして、マモちゃん以外全てが「どうでもよくなった」女性。仕事もクビになる。マモちゃんが他の女性を好きになっても、それを応援してしまうくらい尽くしてしまう。
<マモちゃん>
本名、田中守。雑誌社で働く男性。尽くすばかりのテルコをうざったく思いつつも、呼べば来るので便利に使っている。自己評価は低め。合コンで知り合ったすみれさんのことが好き。
<葉子>
テルコの友達。「お妾さん」の娘であり、愛人であった母をぞんざいに扱う父の存在を嫌っている。自身は特定の男性との関係は好まず、自分を可愛がってくれる相手にならついていく。慕ってくれるナカハラのことは邪険に扱う訳ではないが、大事にもしていない。
<ナカハラ>
カメラアシスタントの青年。葉子のことが大好きで、パシリであろうと彼女の側にいられることを喜びとしている。
<すみれさん>
マモちゃんと合コンで出会った30代半ばの女性。個性的なファッションとサバサバした性格。マモちゃんからの好意には気づいているものの、相手にしていない。テルコのことを可愛がっていて、テルコとマモちゃんがくっ付いたらいいと思っている。
↓ ネタバレあるよ
感想① テルコの虚無感とその先
テルコはマモちゃんとの関係を続けていくうちに、マモちゃん以外「どうでもよくなって」しまう。
その対象は仕事とか友達だけでなく、「自分自身」も。
ナカハラと年越しするシーンで、テルコはこう言う。
「わたしは、マモちゃんになりたい」
(この辺りから、ちょっと「ん?」と思って観ていました。)
作中には、子供の頃のテルコが複数回登場する。
子供のテルコは「マモちゃんのこと好きじゃないの?」「好きって言いなよ!」と素直な声をあげるが、大人のテルコはそれを全て否定する。
最後の場面、子供テルコの声を否定し続けた瞬間、鏡に映っていたはずの子供テルコは消え、大人のテルコしかいなくなってしまう。
この時、テルコはテルコ自身も「どうでもよく」なってしまったのかなと。
そして、マモちゃんへの感情は既に愛でも恋でもないことを提示する。
ただ、「マモちゃんになりたい」だけ。
最初は「田中守」という存在を追いかけていたけれど、結局振り向いてくれない。
自分の思い通りにならない相手に対して、マモちゃん=わたしならその願いが叶う可能性を見出したのかもしれない。
わたしが「マモちゃん」になればいい。
マモちゃんに比べればわたしは「どうでもいい」から。
ラストの場面で、「わたしはまだ田中守になっていない」というテルコの独白で映画は終わる。
心の声を否定して、「どうでもよく」なったテルコのその先は描かれていない。
感想② 自他のあいまいな境界線
この作品はロングランヒットとなり、上映館数も増加し、リピーターを獲得したようです。10〜30代女性が多数だったとか。
率直な感想としては「刺さらなかった」んです。
ただ、共感はなかったものの、面白い映画でした。
わたしも30代女性ですが、もっと若い頃はなんとなく自他の境界があいまいだったように思います。
自覚したのは多分20代後半くらいになってからで、結構最近の話。
ふとしたきっかけで「全てどうでもよくなって」しまう感じは、少しわかる気がします。
あいまいな自他を行き来する不安定な自我を、なんとなく認めてもらったような、それでいて狂気じみた顛末を見せられたような、なんとも言えない気持ちになったのは事実です。
感想 まとめ
単純に「最近流行りのエモい話」と、まとめてしまうことができない映画でした。
なんとなくの印象でモノを語りがちですが、しっかり自分の目で確かめることって大切ですね。
あと、序盤の公園のシーンでタバコを吸っているおじさんの中に、芸人の岡野陽一さんがいたので嬉しかったです。岡野さんが好きです。
今後は作品の感想を書いていきたいな。
それじゃあ、またね。
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