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リビング・イン・ニア・トーキョー #8

音楽を聴きながらお楽しみください。

 久しぶりの晴れ間に、僕の心はなんとなく明るくなっていた。「低気圧だと調子が悪い」なんていうのは、「あぁ〜水素の音〜」みたいなのと同様の疑似科学の類いでしかないと思っていたのだけど、現にこうやって日光を見て前向きになっている自分の心を省みると、そんなこともないのだろうかという気持ちになってくる。洗濯物を外に干すと、やっぱりいい気分だ。

 ぼちぼち、この街に来てから2ヶ月が経つ。ゴキブリと格闘したり、TOKYO MXが映ることに感動したりしていたあの3月から、もう2ヶ月も経ったのか!なんだか、本当にあっという間だった。

 最近は、どのスーパーの玉ねぎが1番安いか調べたり、ガス代を節約するために風呂の湯量を減らしたりしながら過ごしている。すっかり庶民。全然染まれねえよ東京。俺もドンペリ狂ったように空けたり、ボンネットでかすぎて事故りそうな車を乗り回したり、髪の毛の右半分金色にしたりできると思ったのになあ。

 けっきょく、人間なんてどこに行っても人間でしかないということなんだろう。自分の手の届く範囲でしか、アクションできない。化け物にはなれない。

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 さいしょこの街に来たときには、渋谷も、池袋も、新宿も原宿も、全部まとめて「東京」だった。それらすべてが「新幹線で2時間の遠い街」という枠の中に括られていた。いまや、池袋なら「電車で1時間の遠い街」、秋葉原なら「電車で30分の近い街」というように、自分の中で区切りが生まれつつある。

 区切りが生まれていくにつれ、この街の途方もない広さを痛感する。てっきり、「東京」という街ならどこであろうが散歩感覚で行けるとばっかり思っていたのに。いま池袋に抱くイメージは、仙台にいたころ「東京」に抱いていたイメージとまるで同じで、何も変わっていない。遠い街が、遠い街のままそこにある。そこに、僕は自分の、生身の人間としての限界を感じる。化け物にはなれない。

 人間は、生身の人間でしかない。それ以上に手を伸ばそうとすれば、必ず報いを受ける。だけれど、それでも人間は自分のできることを増やしていこうとする。自転車を作り、新幹線を作り、宇宙船を作る。手紙を作り、電話を作り、インターネットを作る。そうして、その報いと一緒に生きていく。時には、報いを受けていることにすら気づかずに。


音楽を聴きながらお楽しみください。


 幸せの形は曖昧。人によってそれぞれ違うもの。だから尊重しあって生きていきたいよね。なんて、そんな簡単なことにも気づけなくなるくらい、今の世の中は混沌としている。つまるところ、ぼくはどうしてもインターネットの話をしたい。

 「万人の万人に対する闘争」というのは、かつてホッブズという賢い人が言っていたこと。自然状態におかれた人は、誰もが剥き出しの自由を手に、生き抜くための戦いを強いられることになる。

 まるで今のインターネット世界は、正しく「万人の万人に対する闘争」であるようだ。さっきまでマジョリティとして少数派を殲滅せしめんとしていたはずなのに、ちょっと油断するとあっという間に自分が少数派になり、その瞬間噛み殺される。恐ろしい世界。そんな世界が、今や僕らの隣に、無秩序に広がっている。

 「弱肉強食」という四字熟語で表されるような生物のリアリティが、擬似的な形ではあれどそこに広がっている。生き抜くためには、不安要素は取り除かれなくてはならない。生き抜くためには、自分が強くならなくては、いや、強く「あるように見せなくては」ならない。

 その辺りの現実に、果たしてどれくらいの人が気付いているのだろうか。どれくらいの人が、自覚をもってコントロールできていると、胸を張れるのだろうか。いや、おそらく、誰もが「自分はコントロールできている」と自信を持っていうだろう。そして、そう言った舌の根の乾かないうちに、次の瞬間に誰かを責め、噛み殺そうとしている。

 検察庁法の話。種苗法の話。果たしてどれくらいの人が、そこに対する深い理解を得ていただろうか。せめて、得ようとしただろうか。短絡的な理解でもって、短絡的な発言に終始していたのではないだろうか。例えば、検察庁法改正は安倍首相の保身のためとか、種苗法改正は日本の農家を潰す、とか。そして次の瞬間には、「#検察庁法改正に抗議します」とか、「#種苗法改正に抗議します」みたいなハッシュタグがインターネット世界を覆い尽くす。
 大真面目な顔で、明らかにジョークとしか思えないような相関図を拡散し、「それはデマだ」と指摘されてうろたえる。ジョークに対して「デマだ」という指摘って、ナンセンス、無粋にも程があるし、もっとひどいのは指摘された側がジョークだと気付いていないということだ。地獄でしか無い。
 そして、それらへのカウンターとして採用されるのは、なぜか「#検察庁法改正に興味ありません」であったり、「#福山哲郎議員に抗議します」だったり、「#尖閣周辺への中国船侵入に抗議します」だったりする。訳がわからない。

 「ちょっと待てよ」と、どれくらいの人が考えただろうか。いや、きっと考えてはいないだろう。そして、これらの不毛な争いがネガティブな結果を生んだとき、はじめて我が身を振り返り、こういう。「そんなつもりじゃなかったんだ」。


 人間は、生身の人間でしかない。それ以上に手を伸ばそうとすれば、必ず報いを受ける。だとしても、この報いは、なんだかあんまりじゃないか。僕らはバベルの塔のお伽話から、芥川龍之介の蜘蛛の糸から、あるいは数多ある歴史の教訓から、何も学ぶことのできないままに闘争に明け暮れている。

 すでに命はいくつも奪われている。奪われる必要のなかった命。事実はバーチャルというフィルターによって濾過されていき、自分のもとに情報がたどり着く頃には、誰も自分ごととして捉えることができない。そして時間が経てば、バーチャルな教訓は「自分が殺した」という事実を絶妙に薄め、人々はそれをワイドショーの1コーナーとして消費し、また日常生活に戻っていく。

 さて、彼を、彼女を、殺したのは誰だろうか?それは明確だ。

 そんな地獄を、ぼくはニア・トーキョーから見ている。


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