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葉巻と、それを吸う愛しい人 episode-15

 そのあくる朝、2人で向かい合って朝食を食べていると、フランクがマリアの首の辺りを見て、
「ちょっと右向いてごらん」
と言うのでマリアが右を向くと、
「目立ってる、キスマークが。隠れるような服着た方がいいよ」
マリアは赤くなって、昨夜フランクに強くキスされた辺りを手で押さえた。そして立ち上がって、壁に掛かっている鏡を覗き込んだ。確かに左の首筋にあざのように赤くキスマークが付いている。フランクがこんなことをしてくれたのが初めてだったので、いつもと違う嬉しさを感じて、思わず笑顔になってしまう。
「鏡見る度に幸せな気持ちになっちゃいそう」
困った顔をするかと思ったマリアが嬉しそうにしたので、フランクは愛しい気持ちになった。昨夜は狂おしいほどマリアを独占したい気持ちが抑えられなくなり、もちろんキスマークも付けようと思って付けたのだが、マリアが無邪気なのでかえって反省してしまう。
「可愛いね、お前さんは」

 フランクは、マリアと初めてセックスをしたあの晩から、マリアが次から次に思いもよらない新たな顔を見せるので、そしてそれが全て自分にとっての急所を突いて来るような、堪らなくさせるような魅力ばかりなので、どんどんマリアに引き込まれていってしまう。もう引き返し方がわからなくなっている。

 そしてそれはマリアも同じであった。フランクがいつも、自分が望むよりも更に嬉しいことを言い、行動で示してくれるので、フランクを恋うる気持ちが日に日に強まってしまっている。そして片想いだった頃、あんなに強く意識していたブレーキが、最近効かなくなっているのを感じている。こんなに思い詰めすぎたらいけないとわかってはいるのだが、冷静になるにはフランクがあまりに素敵すぎた。

 フランクに車で送ってもらって会社に着くと、ホールでエレベーターを待っている間に、いつも陽気な同僚の男が一緒になった。
「おはよう!マリア」
「おはよ」
「最近どう?」
「別に。どうもこうも無いわ」
「本当に?最近マリアがきれいになったって噂になってるよ」
「嘘ばっかり」
「違う違う、これは本当。ま、最近っていうか元からきれいだけどさ。特に最近は女らしいっていうか色っぽいっていうか、なんかいいよねって噂なんだよ」
「そりゃどうもありがとう」
その時、先日フランクを嫌な気持ちにさせた上司の男がやって来た。
「あ、マイクだ」
「おはよう」
「マイクもマリアがきれいになったって言ってた1人なんだよ」
「いきなり何の話だよ」
「ほらこの前ジェイク達と飲みに行った時にさ」
「それはわかってるけど朝からそんな話かってことだよ」
そこでエレベーターが到着したので、3人は乗り込んでからは他の乗客を憚っておとなしくしていた。
エレベーターを降りるとすぐに上司が、
「大体ティムがそういう話をペラペラ喋るから、オレたちまでマリアから警戒されるんだろ」
「警戒なんてしないよね?マリア」
マリアはこのやりとりを聞いて逆に警戒感を覚え、首筋のキスマークが見えないように、さりげなく髪の毛で隠した。
「マリア、こいつの言うことは気にしないでいいから」
「あー!そうやって自分だけ安全圏に行こうとして」
 マリアはこういう会話が苦手だった。たとえ褒められていても居心地が悪いし、会社の上司や同僚から女として見られているようなことを言われると、何となくややこしいことになりそうで警戒してしまうのだ。
だからその場でもちょっと笑って肩をすくめ、何も言わないようにしてやり過ごした。

 すると、その日の昼にその上司のマイクからランチに誘われた。マリアは何となく気が進まなかったが、今までも仕事の流れやその場の状況によっては2人でランチをとったこともあるので、行かないわけにもいかなかった。
連れて行かれた店は、ちょっと値段が高めなので若い同僚達とはあまり使わないレストランだった。見渡した所、同じ会社の人間はいない様子だ。
最初の内は、共有している仕事の進捗状況などについて普通に会話していたのだが、途中から今朝のティムの話になった。
「ティムが言うと軽く聞こえるけど、でもマリアの雰囲気が変わったっていう話をみんなでしてたのは本当なんだよ」
と言う。マリアはまた居心地が悪くなり、とりあえず言われたことを否定した。
「別に何も変わってないと思うけど」
「前に別の部署のやつがマリアに振られたっていう話が出てね。他に付き合ってる人がいるからって言われたって」
そんな話が裏で回っているのかと思うと、みんな口が軽いなと思って嫌になる。
「付き合ってるっていうか、他に好きな人がいるとは言ったわ」
「…へえ、じゃあまだ付き合ってはいないんだね?」
微妙な切り返し方をされてマリアは答えに迷った。付き合っていると言わないと何かややこしいことを言われそうな気もする。
でも自分とフランクは付き合っていると言えるのだろうか   
言葉を探していると、
「だけどマリアが好きになるぐらいだから相当いい男なんじゃない?」
と聞かれたので、
「そうね、私にとっては世界で一番素敵に見えるわ」
「世界で一番?!それはすごいね。若いの?何歳ぐらい?」
「内緒。でも結構年は上」
「へえ、マリアって同世代と付き合ってそうなイメージだったな」
「そう?」
「ちなみに年上と付き合うとしたら何才ぐらいまでならOKなの?」
「…そんなの考えたことないわ。人によるもの」
「マリアってどんなタイプが好きなのかな?その彼はどんな人?」
マリアは会話がややこしい方向に行きそうなので警戒感を覚え、自分がフランク以外に興味がないとアピールしておこうと思った。
「頭が良くて優しくて…ユーモアがあって真面目な人。最初に好きになったのは外見だったけど、中身の方が何十倍も素敵だった、みたいな。ユニークで他に見たことがないような人よ」
マイクは笑いながら、
「そんなにいい男なんだ。うらやましいな、マリアにそんな好かれてて」
マリアがもうこの辺で別の話題に切り替えようと思った時、
「でもまだ彼と付き合うところまで行ってないなら、オレも立候補したいな」
と言われた。
マリアはマイクがここまで言ってくるとは思ってなかったので驚いた。でも逆に、それならはっきり断りやすくなったと思い、
「マイクのことそんな風に見られないわ。大体私、会社の人は誰もそういう風に見られない」
「それは仕事とプライベートを分けたいってこと?それとも会社には好きなタイプがいないってこと?」
「どっちもよ」
「ハハハ。きびしいなあ。でもじゃあティムもジェイクもだめってことだな。抜けがけしようと思ったんだけどな」
「………」
「まあいいか。うちのチームにきれいな子がいるだけでみんなの士気が上がるからね。今のは無かったことにして、これからもよろしく」
マイクが口調を変えて笑顔になったので、マリアも一応笑顔を返した。

 マリアは、他の男からこんなことを言われたりすると心細くなる。
それは言うまでもなく、フランクとの関係が不安定だからだ。
付き合っている男がいるのかと聞かれてもはっきり答えられないし、キースには好きな人がいるとさえ言えなかった。
そうすると、普段見ないふりをし、考えないようにしていることが、朧げながら目の前に現れてきそうになり、それで心細くなるのだ。
もし、そんな時フランクに電話して優しい声を聞ければ落ち着くとは思うものの、それもできない。フランクには、もし何か緊急のことがあったりしたら署に電話してくれて構わないと言われているのだが、いくら何でもこんなことで掛ける気にはなれない。そうすると、ただでさえ心細いのに更に淋しい気持ちになり、泣きたくなって来るのだ。
   こんな関係をこのまま続けて行かれると思ってる?
頭の中で自分自身に聞かれるような気がする。
そしてその答えはいつも一つしか出てこない。
「行かれるわけがない」
そこに考えが至ると、真っ暗な闇に1人で放り出されたような気持ちになる。
悲しくて胸が痛くなってくる。
こんなに愛している人と別れなければならなくなったらどうしよう。
二度とおじさまに会えなくなったらどうしよう    

***

 フランクに会ったのはそれから1週間後だった。以前行った郊外の店だ。
マリアは1週間ずっと心細くて淋しかったので、本当は家でゆっくり会いたかったが、あいにくその日はフランクが夜から仕事をする日で、食事が終わったら署に行かなければならないことがわかっていた。
マリアはすぐに、心細い気持ちの発端になったマイクのことを話そうとした。
「あのね、この前おじさまが送ってくれた日のお昼にね、…」
と言いかけたが、急に口籠もってしまった。
「…どうしたんだい?」
フランクが優しい顔で笑う。
「…なんかあの、……なんか、またおじさまにやきもち妬いてほしくて言ってるみたいになっちゃうかなと思って…」
「…また何かあったのかい?」
フランクが真剣な顔で聞いてくれたので、マリアはとりあえずあの日の朝に男の同僚と上司から、最近マリアがきれいになったと噂していると教えられたことから話し始めた。
フランクは内心では早速嫌な気分になったが、
「…ふうん。でもまあ、お前さんがきれいになったって…それはあたしも同感だけどね」
と言って葉巻を咥えた。
「うん、それは私も思うの」
とマリアが真顔で言ったので、フランクは咥えた葉巻を手に持ち直し思わず笑った。マリアも釣られて笑いながら、
「違うの、だっておじさまと会うようになってから肌の調子がすごくいいんだもの」
「いやそんなはっきり自覚してるとは思わなかったからさ」
フランクが冗談っぽく言って肩をすくめたので、マリアも余計おかしくなって笑いが止まらなくなってしまった。そして、フランクといるとなんて楽しいんだろうと思った。
「おじさまといると楽しいな」
と思ったまま口に出したら、フランクが頭を抱き寄せてキスをしてくれた。
「…それで?その日の昼にどうしたって?」
フランクがまた真面目な顔になって聞いた。
「そう、その上司にランチに誘われてね。朝の話の後だから何となくちょっと嫌な気がしたんだけど…」
「その上司って背の高いやつかい?」
「知ってるの?!」
フランクは、もう嫌な予感がして胸がざわついて来た。
「前にお前さんを送って行った時に見たんだよ。お前さんの背中抱いてた」
「そう…その人だわ。私、前に会社の人に付き合ってくれって言われたけど断った話したでしょう?その話をなぜかその上司が知ってて…付き合ってる人がいるからって断ったんだってねって言うから、好きな人がいるとは言ったわって言ったの。そしたらその彼は相当いい男なんだろうねって言われたから、私にとっては世界で一番素敵な人だって答えたの」
「………」
「そしたら、でもその彼とまだ付き合ってないんだったら自分も立候補したいって…」
フランクは不快な顔を隠さずに頭を振った。
「何て答えた?」
「あなたのことそんな風に見られないわ、って。大体私、会社の人のことそんな風に見られないって」
「そしたら?」
「…それならティムやジェイクも…同僚のことだけど、彼らもだめってことだな、抜け駆けしようとしたんだけど、って」
フランクは眉を顰めてしばらく黙って葉巻を吸っていた。
「それで?」
「それだけ。私がいるとチームの士気が上がるから良い、今のは無しにして、これからもよろしくって笑ってた」
「…お前さんの会社の男達って昼間っからそんな話するのかい?」
思わず当たり散らすように言ってしまった後、マリアが困ったような顔になったのを見て反省して、
「…いや、ウチの署だってあたしが知らないだけで似たようなものかもしれないけどさ。…それでそれから今日まで普通に喋ってるのかい?そいつは」
「ええ」
フランクは、その男は引いて見せているだけで、チャンスさえあればまたいつでもマリアを誘ってくるつもりだろうと思った。以前マリアのことを日本料理の店に誘った上司のことを思い出し、そんな男が毎日マリアと顔を合わせていたら、いつ何が起こるかわからない思うと本当に嫌になり、
「なんでお前さん…あたしと付き合ってるって言わなかったんだい?」
と聞いた。
その途端にマリアは目の奥が熱くなって、涙が込み上げてしまった。
「だって私…」
と言いながら涙をポロポロこぼして、
「おじさまと付き合ってるって言える状態なのかどうかわからなくて…」
フランクはそれを聞いて急にマリアが可哀想になった。
「…ごめん」
何度も頷きながらもう一度「ごめんよ」と言ってマリアの頭を抱き寄せた。

 フランクはその後マリアを家まで送った後、署に向かいながら考え込んでしまった。マリアがこんなに次から次に男から誘われるのを見ていると、もし自分が彼女を手放したら、すぐに他の男が現れてマリアをどこかへ連れ去るだろうと思った。

 今まで、マリアと別れるという事は、元の生活に戻るという事だと漠然と思っていた。こんな風に2人で会うことが無くなるということだと思っていた。もし別れた後にマリアがジェシーとは付き合いを続けるとして、たまに顔を合わせることはあったとしても、マリアを抱く事は二度とできなくなる、という事だと思っていた。

 しかし、マリアと別れるという事は、彼女が誰か他の男のものになるという事なのだ。自分が二度と抱けないどころか、完全に他の男がマリアを自由にするという事なのだ。キスをすることも抱くことも、今自分に向けられているマリアの笑顔も優しさも可愛さも、全て他の男のものになるという事なのだ。

 いや、それどころか、その別の誰かとLA以外の場所へ行ってしまったら、もう二度とマリアの顔を見ることさえできないかもしれない。
自分は、それで果たして本当に平気なのだろうか   
ただの嫉妬や独占欲以上に、初めてリアルに自分の状況がわかった気がする。
フランクは本気で考えさせられた。


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