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変わることを受け入れられない私たち


人は変化を恐れる生き物だ。

今ある状態から違うところに移ろうとするとコンフォートゾーンの心地よさが必ず恋しくなり、体が勝手にもともとの安心安全領域に戻ろうとするからだ。

ただ、中には恐れることなく著しい変化をし続ける人もいる。私もその一人だと思っていたが、全くもってそうではなかったようだ。

それに気がつきかけたのは子供を産んだ時だった。今まで自由の身だったのが、とたんに自由が効かなくなったことでたくさんの変化を強いられた。中でも大きな変化は、夜で歩かなくなったこと、お酒を飲まなくなったこと、フェスやライブに行かなくなったこと。
これらは私のパーソナリティを構成するとても大きな要素だった。だから初めは戻りたくて仕方がなかった。まだそこにいる人たちのことが羨ましくて仕方が無かった。取り残されているような気さえした。

けれどそれから3年が経ち、気づけばその間にそれらのない人生が今の自分にフィットするようになっていた。たまに羨ましいなとは思う。けれど、21時台に就寝する身としては夜で歩いたりはできないし、本当は結構我慢して飲んでいたお酒と体の相性がいいなんて思えないし無理する必要なんてないし(でも飲みたいなぁとは思う)、フェスも多分体力が持たない。あんな人混みの中、炎天下の中、遠方までいって一日中遊ぶなんて…体力が持たない。あの気持ちいい感じを味わいたい気持ちはものすごくあるけれど、疲れる一択でいけない。つまりは歳を取ったのだろう。笑

とはいえ、自分の変化をゆっくりと受け入れることができたのだと思う。人類がとても苦手な、それをできるようになったのだ。

それを確信し始めていたにもかかわらず、ここ最近また大きな変化の時がやってきて、正直戸惑っている。
それは、食事に関する変化である。去年の夏あたりから、お肉や卵が食べられなくなってきた。というか食べたくなくなった。引っ越しに伴い、こっちのお野菜があまりにも美味しくて動物性の生臭さが際立ち食べたくなくなったのが決定打だった。その前から動物の脂を食べるとお腹を壊していたので控えていたのだが、ついに鶏胸などの脂の少ない部位まで臭みという部分で受け付けなくなったのだ。ビーガンカフェで働き始めたのも大きいのだが、ビーガンの思想というよりもただただ体との相性が悪いから摂りたくないという選択をするようになった。

この変化は自分の中の嫌悪感からくるものだから受け入れられないという感覚はなかった。
ところが、それ以外にも体の相性の悪さで食べられなくなったものがあって、そっちは全くそうではない。
それは大好きな大好きな小麦なのだが、世に溢れる美味しそうな小麦グルメがどれもこれも食べられなくなってしまったのだ。
きっかけはグルメライターの仕事で一度にたくさんのパンを食べた時だった。体がものすごい倦怠感を覚え、数日…いや1ヶ月ほど体のあらゆるところの機能が低下した感覚があった。量の問題かと体調が落ち着いてから少しだけ(今まで食べていたくらいの量や頻度で)食べてみたが、ダメだった。体から抜けきってないのもあるかもしれないが、元々体力のない体がさらに老化した感覚が拭えない。

動物性の食品に加え、大好きな大好きなパンやお菓子まで(生クリームのケーキなんかは動物性が強すぎていつしかすんなり絶っていた)食べられなくなったのだ。しかも、甘酒を作るようになって砂糖を使わない生活をしていたせいか、市販のチョコレートや砂糖たっぷりの食品まで甘すぎて食べられなくなってしまった。食べても美味しいと全く思えず、私はいったい何を食べたらいいのだとフェスなんかと同じ感覚に今まさになっているのだ。

きっと無理して食べていればまたそれがデフォルトになってゆくのだろうけれど、あえて明らかに不健康な方に戻そうとしなくてもいいか…と今の急激な変化に慣れることを泣く泣く意識して生活している。

医学や栄養学の観点からするとものすごい体にいいことなのである。けれど、いかんせん大好きなものをもう食べられない(しかも小麦の食品ってめちゃくちゃ多い)という変化はそう簡単に受け入れることができない。
SNSをみれば小麦で溢れ、グーグルマップのピンも小麦のお店ばかり。米粉やもち粉ならいいかも!と思ったが、同じ粉である。体への負担は小麦とさほど変わらない。
残るスイーツはギルトフリーのロースイーツやビーガンのプリン、杏仁豆腐…そのあたりだろうか…。と考えると、意外と選択肢はありそうだが、ここは東京ではない。滋賀にはそんなお店は片手で足りるほどしかないのである…。

悲しい現実に打ちひしがれる毎日。また、どこが自分だけ置いて行かれているような気分だ。

この感覚は小学生の頃にも味わったことがあって、当時の私も動物性(特に乳製品)と小麦が食べられなかった。動物性は本当に体が受け付けない感じでオエ!ってなってたし、というか食品のほとんどが食べられなかった。ご飯とお味噌汁とお野菜のおかずくらいだろうか。でも子供だから野菜のおかずも美味しいと思えなくてほとんど残していて、結局いつもご飯と汁物くらいしかスムーズに食べられていなかったと思う。
だから給食なんて地獄で、パン、牛乳、ヨーグルトが重なった日は……
机の中がパンだらけだった。笑 牛乳とヨーグルトは誰かにあげてたような気がするなぁ。

そうか、そのころみたいに純粋な体に戻ったのか。というより、きちんと体の声に従うことができるようになったのだろう。
大人になるに連れて世界が広がり、欲がでる。そして素直な感覚をどんどんと失ってしまう。むしろ今は子供の頃から欲を感じやすい環境になっているなと感じる。昔は我慢で無理していらないものを食べさせられることが多かった気がするが、今はそれに加えて欲まであると、もう自分を保つことは至難の業ではないだろうか…。

本来の自分を保ち、もし忘れたらそこを思い出し、そしてこの人類の難題である変化を社会の悪者である後退(元に戻してゆく)という形でしなければならない、それも昔の人よりもたくさん蓄積されたものを。というわけである。

さぁ、この人類学、社会学に反する行いを果たしてどこまで個人の力で推し進めることができるだろうか。(そんな大袈裟な話ではない)

ひとまずは私というとても小さな範囲で実験である。もしかすると未来の子どものためになるかもしれない。そう考えると大好きなパンやお菓子をやめることも頑張れそうだ。

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