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もろい幸せのすすめ

冬と春のあいだ 
最近はもろい幸せを大切にしてる

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このあいだひどく落ち込んだ
ダーリンとのタイ旅行から帰国した直後の2日間だ
分かりやすいのは承知だが、旅行が楽しすぎたのだろう 夜に帰国してすぐ次の朝から働いた私の気持ちは依然カオサンロードにあり、でかいクラブミュージックの中で踊っていたので、オフィスでじっとパソコンに向き合うことがひどくストレスに感じて、疲弊した
その日の仕事終わりに大好きな友達とご飯を食べたが彼女の顔を見た途端に泣いてしまった

その次の日は仕事終わりに素敵なライターの先輩とお会いできる予定だった。 自分からアポを取ったのに、18時で退社した時に私のメンタルはまたひどくぼろぼろで、何度も奮い立たせようと音楽を聞いたり文字通り上を向いて歩いてみたりしたのだけど効果はなく、約束の10分前に本当にごめんなさい行けませんと伝えた。あまりのショックで腹も減ってないのに池袋の明るい夜の街でとりわけ煌々と輝く黄色い看板、博多風流に吸い込まれた。やけ食いだった。結局気分が悪くなって、友達に電話して泣いて気持ちを昇華させた。(本当にいつもありがとう)

私はひどく気分の上がり下がりのある人間だ。
その上がり下がりと少しでもうまく一緒に生きるために私は最近ある技を身につけた。

それは、幸せ、いい気持ち、そう思ったらすかさず、[fragile]という単語を思い浮かべることである。fragileは英語で”もろい”を意味する。

谷川俊太郎さんのこの詩に教えてもらった。

幸せになることよりも、幸せであり続けることの方が難しい。いったん幸せになると、ヒトって油断するんだね。思いがけないことで幸せになれて、ラッキーって喜ぶのはいいけど、思いがけないことで不幸せになることもあるんだから幸せには[fragile]ってステッカーを貼っとくほうがいい。 -谷川俊太郎『幸せについて』, p40

初めてこれを読んで思ったことは「せっかく幸せな気持ちになれたのに!好きなだけ浸らせてくれよ!」だった。

でも多分、幸せに浸ることがよくないのだ。
幸せ浸りは、「本来の私」を狂わせる。

タイでダーリンと楽園生活を5日間過ごした私は、
楽園の中にいる私を「本来の私」に設定しはじめていた。
これが私のあるべき姿だ、と思ってしまうのだ。

幸せなことはいいことだ。
だけど幸せは谷川俊太郎先生がいうようにfragileなのだ。
意外とすぐに気分は下がる。幸せな気持ちは消えてしまったりする。 
もしかしたらその下がった状態が「本来の私」なのかもしれないのに、
たまにしかない「幸せな状態」を「本来の私」だと設定してしまうと、私はなかなか幸せになれないことに気がついた。

だから最近わたしはいいことがあったら[fragile]と頭で唱えている。 
そうすることで、この幸せはいつか消えるかもしれないという思いになる。
幸せに手放しで浸ることはできなくなったが、代わりにその幸せを泡のようにそっと両手で包み込むことができるようになった。
消えることはあるのだ むしろ消えるのだ だけど消えたときがわたしにとっての 普通 であり 本来の姿 なのだ。

今日は仕事がうまくいったぞ[fragile]
(明日ミスしても必要以上に落ち込まない)

デート楽しかった~[fragile]
(いつ終わるか分からない。この人と一緒にいられるのは当たり前じゃない)

人はこれをひどくネガティブと思うかもしれない。
だけど、わたしはせっかくの「幸せ」の気持ちを大切にすることができる。そしてもろい幸せを大切に持ち続けることができれば、それはいずれ「普通」になって日常をそっと支えててくれる。本当の幸せは「普通」の中にとっくに溶け込んでいるのかもしれない。
だから、たまに生まれる、幸せだ!と気づいてしまう「幸せ」なんてfragileなのだ。泡だと思って大切に包み込んでおくのがちょうどいい。

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