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私のための、文章じゃないか

自分の身体へのコンプレックスについて、2000字くらいのエッセイを書いた。

ライティング講座で学んだ構成を使い、読みやすく、最後まで読んでもらうための文章。
意識して、書いたら、書けた。
それは自分の苦しいコンプレックスを書いているのに穏やかで、たしかに読みやすく、講師にも面白かった、と言ってもらえた。

だけど、noteには公開してない。ずっと下書きにいれっぱなしだ。

なんでだろう。世に出さないうちはいつまでも「傑作」のままだよ、なんて言葉が脳裏に浮かびながらも、心のどこかでNOと言っている。

悶々としていたら、大好きな文筆家、佐々木ののかさんのこんなツイートをみた。

あぁこれだ、と思った。

私は媚びるということが身体の奥底まで染み込んでしまっていて、言いたいことも言えず、うざったいからかいに「うざい」と言えず、私の身体を馬鹿してきた人たちに「黙れ」と言えなかった。
へらへら笑いその場を取り繕ってきた自分へのやるせなさを、今文章にすることで昇華させているのだ。

私が文章を書くときはいつだって、自分のためだ。
初めてnoteを書いたのはセックスについてだった。
自分の中の性的な経験や感覚が、当日のイベントで隠すべきものじゃないってことに気づけて、そこから勢いで書いて、公開した。

そしたらたまたま、誰かがそれを拾ってくれたんだ。
文章を公開するようになってから、久しぶりに連絡をくれた友達が何人もいた。「読んだよ」という声、ときには「ありがとう」なんていわれて、わたしは本当に、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。それは、私の中の今まで誰にも出せずにひた隠しに邪悪なものだと思ってきた心の叫びを、誰かが聞いてくれて、そして反応を返してくれた、初めて自分の心臓のはだかの部分が、社会につながったような気がしたからだ。

読み手の視点を意識した文章、それはとっても素晴らしいものだ。
だけど、私が書くのは、誰のためでもなく、自分のためだ。
言えず、傷ついてきた、苦しかった、もしくは今現在苦しんでいる自分のために書いている。

そんなことすっかり忘れて、「読んでもらえるための」って意識で、また誰かに媚びようとしていた。「言いたいことを言えるようになりたい」と願った私をまた、封じ込めてしまうところだった。
もちろんきちんと受け手の視点に立った素敵な文章も学びたいしこれから書いていくんだろうけど、あくまで私の「書く」という行為の原点は、自分のためだ。

だけど、そんな私のまるはだかの文章を、受け取って読んでくれる方、わざわざ言葉を伝えてくれる方、本当に本当に、ありがとう。あなたの考えている何百倍も、私はとってもとっても、嬉しいです。

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