咳をしても金魚 #短編小説
咳をしても金魚。
金魚鉢に浮かぶ黒い金魚は、腹を水面に向け、口をパクパクさせている。その様子はまるで、咳をしているようだった。口が動く度に、空気と水が吐き出されたり、飲み込まれたりしている。早打ちする心臓のように、べろりべろりとエラが動く。
金魚すくいをして捕まえた金魚が元気だったのは一日ほどで、ここ二日ばかり、金魚はずっと、ひっくり返ったまま、水面に浮かんでいる。ぼくの心みたいに、ぷかぷかと。
夏祭りになんて、行かなければよかった。
ひと月ほど前に付き合い始めた彼女が、どうしても行きたいとせがんだ。でもぼくは乗り気じゃなかった。そもそもこの交際自体、乗り気ではなかったのだ。じゃあ、どうしてぼくは、彼女の「付き合って下さい」という告白に、「いいよ」と言ってしまったのか。
彼女が顔を真っ赤にしてぼくに「付き合って下さい」と言ったとき、ぼくは心底、彼女を尊敬してしまったのだ。ぼくは彼女と、ろくに話をしたこともない。同じクラスの同級生、というだけの関係だ。そんな相手に、恋の告白をするなんて、すごいことだと思った。ぼくは彼女の無謀な勇気に、すっかり感心してしまったのだ。
付き合うのは乗り気ではなかったけど、ぼくは彼女の勇気を好きになった。彼女ではなく、ぼくが好きなのは彼女の勇気だ。ぼくには告白する勇気なんてない。だから尚の事、彼女の無謀な勇気が気高く見える。
この金魚をすくいあげたのは彼女だった。
右にポイ。左に小さなお椀を持って、狙いを定める。彼女は、細長くて頼りない、でも頭だけはよく動く、黒い金魚を獲ってみせると宣言した。
水色の浴衣の袖をまくる彼女を見て、細長くて頼りない、でも頭だけはよく動く生き物が、彼女の好みなのかな、なんて思い、口の端に笑みが浮かんだ。
細長くて頼りない、でも頭だけはよく動く。
まるで、ぼくみたいじゃないか。
「うぬぼれないでほしいんだよね」
自分が言われたのかと思い、驚いて彼女を見ると、彼女は破れたポイ片手に、黒い金魚に静かに説教を始めていた。
「別に、あんたじゃなくってもいいの。他にいくらでも活きのいいのがいるんだから。でもね、私は狙った獲物は逃がさないの。覚悟してね」
彼女はお金を払い、新しいポイを手に入れると、今度こそはと、もう一度腕まくりをした。ぼくは、おっかない女の人に捕まってしまったのかもしれない。
彼女は見事に黒い金魚を捕まえた。
水と一緒にポリ袋に入れられ、宙ぶらりんに浮いている金魚を、ぼくは見つめた。すぐに死んでしまいそうだと思った。
彼女と二人で歩いていたとき、向かいから見覚えのある影が近づいてくるのが見えた。
やはり、来ていたらしい。
先輩は、祭りとかイベントとか、そういった明るいことが好きな人だった。ぼくは先輩に一度だけ、フェス、というものに連れて行ってもらったことがある。騒がしくて人が大勢いて、何が楽しいのかぼくにはよくわからなかったけれど、先輩が楽しそうだったから、それでよかった。
隣にいるのは恋人だろうか。
二人は冗談を言い合いながら楽しそうにしている。ぼくだって、先輩にあんな顔をしてもらったことがある。いや、ぼくは、狂おしく歪む先輩の顔だって見たことがあるんだ。隣にいる恋人は、先輩のそんな顔を、見たことあるのだろうか。
あるかもしれない。
そう思うと胸が痛んだ。
先輩がぼくのことに気づき、一瞬、目を丸くした。こんなところにぼくが来るなんて思わなかったのだろう。ぼくはこれ見よがしに、彼女の腕を引き寄せると、その肩に手を回した。先輩は、そんなぼくから目をそらす。
ぼくと先輩はすれ違った。先輩の気配を背中で感じているせいで、互いの距離はどんどん離れていくのがわかる。
歩いているうちに、露店が途切れた。道は暗くなり、ぼくは彼女の肩から手を放した。
「今日はありがとう。楽しかった」
暗がりの中で彼女が言う。水色の浴衣が、蛍みたいにぼわっと光って見えた。
「わたし、後悔していることがあるの」
「なに?」
ぼくが訊くと、彼女は遠くに見える祭りの明かりを目に映しながら言った。
「 付き合って下さいなんて、言わなければよかったな」
「え?」
「ただ、好きですって言えばよかった。でも、欲を出して、付き合って、なんて言っちゃった。なんだかずっと、それが汚らわしく思えてしかたなかったの。自分の恋心を欲で汚したみたいで……。変なところ、潔癖なんだよね、わたし」
付き合って下さいと言って、付き合ってみたら、何だか急に、遠くに放り出されたように寂しくなった。ぼくへの想いを一人で温めていたときのほうが、よほど、ぼくと一緒にいられたような気がする。付き合ってほしいなんて欲をかいたせいで、自分は一人になってしまった。
彼女はそんなことをぼくに話した。
咳をしても金魚。 元ネタは、「咳をしても一人」だ。
尾崎放哉の有名すぎるほど有名な、自由律俳句。たった9文字の句。9文字で、本当に一人であることがわかる。恐ろしい句。
ぼくは彼女と別れた。
「この金魚を見ていると、また一人になりそうだから」
帰り際に彼女は、ぼくの手に金魚の袋を握らせた。
ぼくはうちに帰り、金魚鉢に黒い金魚を入れた。眺めていると、自分が一人じゃない気がして心が落ち着いた。先輩のことも、良い思い出になるような気がした。
「おまえとのこと、良い思い出にしたいんだ」
自分から誘ったくせに、そんなことを言って、先輩はぼくから逃げた。まるで金魚が、破れたポイから抜け出すみたいに。
良い思い出になんて、誰がしてやるものか。
涙を噛み殺しながら水面に目をやると、金魚の咳は、すでに止まっていた。
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