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餃子が及ぼす心の影響

 「最近餃子食べてないねぇ」

  と、夫が言った。
 何だかそう言われると食べさせないといけないような気がしてくる。

 今すぐ食べさせなくちゃ!
 

 私は焦る。夫の口が、親鳥の運んでくる餌を待つ、大きく開けたツバメの嘴のくちばしように思えてくるのだ。こんなとき私は猛然と立ち上がり、ある店に直行する。

 埼玉に越してきて嬉しかったのは、最寄り駅近くにぎょうざの満州が出店していることだ。以前は、私も随分と餃子作りに血道をあげたが、餃子の満州が徒歩圏内にあるのに、今更、野菜をみじん切りにし、肉をこね、皮を包み、焼く、という手順を踏む気にならなくなった。ぎょうざの満州は、三割ほど私をダメにしてしまったようだ。

 ぎょうざの満州に行くと、店先の看板に本日特売日の字が躍っている。
 「よし!」と思う。「買うぞ!」と意気込む。
 しかし、この喜びは、その後の展開によっては、地の底に落ちることもある。むしろ、 

 餃子なんかにしなきゃよかった!

 そう悲嘆にくれるような事態にもなりうるのだ。
 出来合いの生餃子を買うことを、ラクをしていると思う人がいたら、それは大間違いである。確かに一から作るよりはラクだが、餃子において、一番の重要工程「焼き」の作業に残っている。もし、焼きの作業に手違いがあれば、餃子を食べる喜びは地に落ちてしまう。焼きが、いかに重要であるか、餃子を食べたことのある人ならば、きっとわかって頂けるはずだ。

 こういうとき、買ったばかりのテフロン加工のフライパンがあれば心強いのだが、我が家には使い古したテフロン加工フライパンと鉄の炒め鍋、そしてステンレス製の厚手のフライパンしかない。

 使い古したテフロンは、その最大の魅力である、食材が鍋の上でスルスル滑るという効力を失っている。炒め鍋は底の形状が丸みがあり、食材をあおるのには丁度いいのだが、火の当たりが、均一にならないため、餃子には向かない。

 そうなると、我が家で一番、餃子に向いているのはステンレスの厚底フライパン。ということになる。

 これが難敵である。
 ステンレスパンには鉄同様、使うときにコツがいる。じっくり煙が出る寸前まで温め、ごく少量の水を放ったときに、鍋の上で水滴がコロコロと丸まって転がるようであれば適温。そこにすかさず油を入れる。鉄鍋でいうところの油回しに当たる作業だ。ここを怠ると、ステンレスは餃子に異常な執着を見せはじめる。

「この餃子はアタシのものよっ!」

 ステンレスパンの愛に捕まってしまったら、フライ返しを差し込もうが、箸でつつこうが、餃子は鍋肌に密着したままテコでも動かない。鍋底を急冷して、なだめすかしても、ステンレスパンは
「いやよ!いやいや!」
 と言って餃子を決して離さない。

 しかし、この厚底ステンレスフライパン。使いこなすことができたら、異常なまでに美味しく餃子が焼ける。その性質を把握し、うまく使えば、ステンレスパンは、餃子に最高の焼き色を与えてくれるのだ。あの出来栄えを知っていると、難敵と知りつつも、どうしてもステンレスパンに手が伸びてしまう。

 一度ステンレスパンでうまく焼けたからとはいえ、頻繁に焼いていないと、次焼くときには、そのコツを忘れてしまうものだ。

 今回は油回しをし、餃子を入れたまでは良かったのだが、蒸しの作業の際に入れるお湯の量を間違えてしまった。ぎょうざの満洲が提示している水の量をそのまま入れると、ステンレスパンでは多すぎるのだ。それをすっかり忘れて、指定の量をそのまま入れてしまい、私はステンレスパンと格闘することになってしまった。

 油回しが正確だったおかげで、3分の2ほどは無事、皮が剥がれること無く救出できたものの、残りの餃子は無残な結果となった。この傷だらけの餃子を夫に食べさせるわけにはいかない。
 こういうとき、なぜか私は、貞淑で従順な妻になる。大きな体を小さく丸め、きれいな餃子を夫の皿に取り分けていく。そして自分の皿に、無残な餃子をポツリポツリと置いていくのだ。
 これから餃子とビールだ!と沸き立っていた気持ちが、風船がしぼむように萎えはじめる。

 この無残な餃子を夫に見られてしまうことの羞恥。それを悲しみの中で口にする自分。想像するだけで、今日が餃子だということを、なかったことにできないか、そんなことすら思ってしまう。

「やっぱり、ステンレスパンは難しいね。この前はすごくよく焼けたのに…」

 そんな言い訳を口にしないと、ボロボロの餃子をテーブルにのせられない。良い焼き色の餃子をより分けられた夫は、美味しそうに餃子を頬張っている。それに引き換え、私の餃子はボロボロである。

 長く台所を預かっている主婦だというのに、何という有様だろう。餃子も満足に焼けないなんて、私は今まで一体何をしてきたのか。恥ずかしい。やはり私なんて、こんなボロボロの餃子が性に合うような女なんだ。ああ、わかっていたよ。所詮、そんな女じゃないか私は。

 皮のはがれた餃子を食べると、どんどん気持ちが卑屈になっていく。しまいには、
(こんなボロボロの餃子を食べている妻を見て、夫は何とも思わないのだろうか)
 そんな感情が沸き始める。
「ちゃんと焼けた餃子も食べなよ」
 と言って、こっちの皿に、ひとつくらいのせくれてもいいじゃないか。
 そう思いながら、私はむっすりとボロボロの餃子をつつく。
(ひょっとして、夫は私に対する愛情など、すでに冷めきっているのではないか)
 そんな疑念が頭をかすめる。こうして食卓は餃子の皮では包み切れないほどの、不穏な空気に包まれていくのだ。
 やはり、餃子が及ぼす心の影響は、計り知れないのである。





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