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「罪悪『感』を『感』じる」は誤用なのか

 調子よくキーボードを叩いていて、ふと私の手が止まった。
 目の前のモニタには、こんな文章が浮かんでいる。

罪悪感を感じる。

 私にとって、罪悪感は実に身近な感情だ。
 太宰治に負けないくらいの「生まれてすみません」思考で生きてきたせいか、文章を書いていても、罪悪感の連想させる熟語や表現を使うことが多い。そんなとき、私はつい、

 罪悪感を感じる。

 と書いてしまう。
 罪悪感だけではなく、違和感、抵抗感、にもいえることだが、
《罪悪感を感じる》
 は、文面にすると、どうもおさまりが悪い。
《頭痛が痛い》
 に近い違和感がある。

 実際、《罪悪感を感じる》と書き記すのには勇気がいる。

 そんなとき私は、罪悪感の類語である、《後ろめたさ》《引け目》《負い目》などを使い、どうにかして《罪悪感》を《感じて》いることを伝えようと試みている。

 特に《後ろめたい》には、随分と助けられている。
 《罪悪感》は《後ろめたさ》で代用できることが多く、使ってみると、《罪悪感》よりも、おさまりがいいことがあるので本当に有難い。《後ろめたい》様様である。

 しかし、そんな《後ろめたい》にも、代打不可能の場合がある。

 例えば、気の優しいトラック運転手が、事故を起こしてしまったとする。結婚式を一週間後に控えた女性が、その事故で亡くなってしまい、裁判になった。法廷では遺族たちがむせび泣いている。
 このとき、被告人になってしまった気の優しい運転手は、遺族を見て、いたたまれない気持ちになるはずだ。その気持ちに名前を付けるなら、やはり《後ろめたい》よりも《罪悪感》の方がしっくりくる。

 《罪悪感》という言葉には、《後ろめたい》では醸し出せない重みがある。自分がしてしまったことに対する後悔の念が、より強く感じられるのだ。

 でも重言になるので、ここで《罪悪感を感じた》とは書けない。だとするならば、他の言い回しを考える必要がある。例えば、 

私は、涙にくれる遺族の姿を見て、罪悪感を抱いた。
私は、涙にくれる遺族の姿を見て、罪悪感を持った。
私は、涙にくれる遺族の姿を見て、罪悪感を覚えた。
私は、涙にくれる遺族の姿を見て、罪悪感が湧いた。
私は、涙にくれる遺族の姿を見て、罪悪感に苛まれた。

 《感じた》以外の表現を、思いつくままに当てはめてみた。

 気の優しいトラック運転手の起こした死亡事故、という設定においては、《苛まれた》が一番適した表現かもしれない。《苛まれた》を使うことによって、抗えない罪の意識を、より読み手にも感じてもらえるし、言葉にも重みが出る。

 それならば、《罪悪感》の後には、全て《苛まれる》を当てればいいのでは? なんて思ってしまうが、そうもいかない。

 恋人がいるのに、隠れて合コンに行ってしまった場合、そこに罪悪感があったとしても、抱いたり、感じる程度で、苛まれているとは言い難い。

 《苛まれる》には苦しみ、悩み、責め、といったニュアンスが含まれるため、大きな苦悩が伴った罪悪感でないと、《苛まれる》は使えないのだ。
 もしこの設定で《苛まれる》を使うとするならば、隠れて合コンに行ったことを苦にして恋人が自殺未遂に走るくらいでないと、《苛まれる》を使うことは難しい。

 《後ろめたさ》で代用できず《罪悪感》を使うしかないが、《苛まれる》では重過ぎる場合、どうしたらいいのだろう。

 そんなとき、候補に挙がるのは、《抱く》《持つ》《覚える》《湧く》である。

 しかし、この4つは、字面としての違和感が無くても、音読みすると、音の響きや流れが悪いことがよくあるのだ。重言を恐れるあまり、仕方なしに使っているようにも見えてしまう。

 じゃあ、《罪悪感がある》ならばどうだろう。

涙にくれる遺族の姿を見て、罪悪感があった。

 何だか、おかしい。
 《罪悪感》という感情が、《今》、湧きあがっている状態のときに、《ある》は相応しくない。この場合の《ある》には動きが無いからだ。

涙にくれている遺族を思うと、自分が生きていることに罪悪感があった。

 こんな感じで、前後の文脈を変えれば、《罪悪感がある》と書き換えることもできるかもしれないが、自分が書こうと思っていた表現から、遠のいてしまう気がする。

 《罪悪感》は罪悪そのものではなく、《罪悪感》と名がついた感情であり、それを感じることは、自然なことだと思う。例え、重言ではあったとしても、それを避けることで、かえって不自然にな表現になる恐れがある。
 本当に悩ましい。

 ここで私は思う。
 果たして《罪悪感を感じる》は誤用なのだろうか。

 調べてみると、《○○感を感じる》は、どちららとも決めきれない、ボーダーライン上にある表現のようだ。

 毎日新聞の毎日ことばplusによると、アンケートをした結果、8割以上の人が《○○感を感じる》という文章表現に違和感があると答えている。
 だが、重言ではあるが不適切な重言ではない、と明記する辞書もあるのだ。
 毎日ことばplusでは、
 8割の人が違和感があると答えるなら、基本的に避けたほうがいいが、誤用を指摘するほどではない。
 
という見解を示している。

 さぁ、どうしたものか。
 書き手の裁量に委ねられてしまった。

 正直、そんなことを委ねられても、こちらは荷が重いのである。
 はっきり誤用だと言ってくれればいいものを、誤用を指摘するほどではない。などと言われたら、迷路に放り込まれたような気分になる。

 ぐるぐると迷路から抜け出せずにいたある日、私は北村薫さんの『ヴェネツィア便り』という短編集を読んでいて、飛び上がった。


 何と、『機知の戦い』という作品の中に、

《罪悪感を感じただろう》

 という一文が出てきたのだ。それを読んだとき、私は思わず
「おお!」
 と声を上げた。

「北村さんが! 北村さんがっ!」

 まるでご近所さんを呼ぶように、名前を連呼してしまった。一人で大騒ぎである。

 私は作品を読み終わると、すぐさまそのページに戻り、
《罪悪感を感じただろう》
 以外の表現を当てることができるか、頭の中でシュミレーションをはじめた。

 あれこれやってみたが、うまくいかなかった。

 後ろめたさでは代用できないじ、罪悪感に苛まれたでは、この状況に合わない。引け目や負い目では、意味が変わってしまう。
《罪悪感を感じただろう》
 以外、あり得ないのだ。

 私は思わず、「はぁー」と溜息をついた。

 8割の人が違和感があると答え、基本的に避けたほうがいい言葉であっても、作品の流れや内容によっては、使う必要に迫られることもあるのだ。

 もちろん、直木賞作家で、とてつもない読書量を誇る、北村薫さんだからこそ、
《罪悪感を感じただろう》
 という表現が、選びぬいて用いられた表現であることが読者にも伝わるのだ。信用があるからこそ、できることなのかもしれない。

 私のような者が《罪悪感を感じる》と書けば、誤用と思われるかもしれない。でも、誤用だと思われるリスクを負っても、
《罪悪感を感じる》
 
以外はあり得ないとなれば、誰に何と思われようと、《罪悪感を感じる》と書かなければならないのだろう。

 私はノミの心臓なので、
 ざ・い・あ・く・か・ん・を・か・ん
 とキーボードを打ったあたりで、ちょっと身震いしてしまうだろうな、と思う。
「うひょー」
 などと、変な声を上げてしまうかもしれない。

 だが、もしそんな日が来たら、そのときは腹をくくって、思い切って
《罪悪感を感じる》
 と書こうと思う。


 当記事にコメントを寄せて頂きました作家の酒本歩先生から、アンサー記事を書いて頂きました。
 とても参考になる記事で、目から鱗が落ちました。
 書き方の幅が広がる思いでワクワクしました。是非皆さんに読んで頂きたく思います!


 今回、あくまでも私個人の感覚で《罪悪感を感じる》について書きました。やはり《罪悪感を感じる》と書くのは勇気が必要で、どうにかして他の表現にしようと頭を捻ります。でも、私が《この表現には無理がある》と思っていることを、すんなり自然に書ける方もいらっしゃると思います。その違いが表現の面白さなのかもしれません。
 文中に誤りがあれば、コメントでご指摘ください。ご意見も是非!
 ここまでお読みいただき、有難うございました。 




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