あのとき卯月がいたならば
この物語が、あのとき私のそばにあったら、どれほど救われただろう。
ため息とともに吐き出された思いを胸に、私は先ほどまで読んでいた本の表紙を、じっと見つめた。
穏やかな水面のような瞳でこちらを見るナース。
物語を読み終えた今、この表紙のやさしい色合いが、なおさら心に沁みてくる。
長期療養型病棟で看護師として働く、卯月咲笑には、患者の思い残したものが、《視えて》しまうという不思議な力がある。
意識不明の患者のベッドの脇に女の子の姿が視えたり、にらみつけるような表情でお金を握りしめる女性が視えたり 。
そういった人の姿となって、患者の《思い残し》は卯月の前に現れる。
突然の《思い残し》の出現に驚くことはあるものの、卯月自身がそれに怯えることはない。うっすらと透けて視える《思い残し》たちは、亡霊や生霊と違い、何かを訴えたり、危害を加えたりはしないからだ。
ただ視えるだけなのだから、放っておくこともできる。
それなのに、卯月は患者たちの《思い残し》に一人、懸命に向き合おうとする。患者の隠された心の声が《視える》という事実が、卯月を突き動かしてしまうのだ。
患者たちは一体、何を《思い残し》ているのか。
それが解き明かされるのと並行し、看護師たちの日常も重点的に描かれていく。話の中には、専門用語や業界用語も出てくるのだが、読んでいてつっかえることはない。医療に詳しくなくても、きちんと全体の雰囲気が掴めるようになっている。
《看護師さん》とひとくくりで言っても、当然ながら一人として同じ人はいない。配属される科によって、看護の取り組み方も違うし、同じ科に勤めていても、キャリアによって抱える悩みも変わってくる。性格も、食べ物の好き嫌いもそれぞれ。
そういう違いを読むうちに、物語がどんどん心の中に入り込んでくる。
生命と向き合うことは、緊張を伴う。ときにはヒヤリとすることも起き、そのせいで自責の念に苛まれたりもする。
ナースステーションのドアの先には、看護師たちが院内で唯一羽を伸ばせる場所。休憩室がある。そこで命と向き合い、励ましあう看護師たちの姿は、巣の中で寄り添い、今にも壊れそうな互いの心を、温めあっているようにも見える。
私はそこに、尊いものを感じた。
かつて、私の母が脳神経外科で手術を受けたとき、たくさんの看護師さんにお世話になった。
頭を開いて血管をクリップで止めるという大手術で、術後の母は意識がないままぐったりしていた。私は内心、母のそんな姿にショックを受けていた。
自分の生活とすり合わせながら、連日休みなく、母の見舞いに行った。毎日毎日、笑顔で振舞いながらも、母は日常生活に戻れるだろうか、そればかり考えていた。
そんな自分が、いやでいやで仕方がなかった。
親に《早く》元気な姿に戻ってほしいと考えることは、親孝行なことでも何でもない。それは過去への執着であり、執着からは、苦しみしか生まれない。でも、親の元気な姿を手放し、今の姿を受け入れることは、あまりに辛く、苦しいことだ。
私の母は、医療スタッフの皆さんのおかげで、どうにか日常生活を取り戻した。感謝してもしきれない。有難いと思う一方で、つい、あの頃の葛藤を思い出し、《今》に戻って来れないときがある。
私はもう一度、本を手に取った。
まろやかな色合い。卯月の穏やかな視線が、こちらにやさしく向けられている。
この物語が、あのとき私のそばにあったら、どれほど救われただろう。
あのとき卯月がいたならば、もっと自分を許せたのではないか。罪悪感に苛まれたり、誰かを恨むこともなかったのではないか。
そんなことを思う。
力強く本を握っていたせいで、少し表紙がよれてしまった。
本はできるだけ丁寧に扱いたい。そういう思いを、この物語が越えてきてしまった。このよれは、私の感情が揺れた証拠でもある。
私は気に入ったシーン、心に響いたシーンは何度も読み返すしつこい人間だ。少し遅れてやってきた救いは、私の過去を何度でも救い、癒し続けてくれるだろう。表紙の卯月を眺めながら今、私は少しホッとしている。
秋谷りんこさん、出版、おめでとうございます。
お読み頂き、本当に有難うございました!