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午後5時55分55秒

 今、ふと電波時計を見たら、

 午後5時55分55秒


 だった。
「おーほっほ、見てみて、今、午後5時55分55秒だったよ!」
 私は思わず、25年近い付き合いのぬいぐるみ、スヌーピーに話しかけてしまった。一人、部屋で盛り上がる四十路女。不気味である。

 しかし、こういうことで喜べるようになれたこと自体が、私の中で成長とも言えるのかもしれない。
 以前は、「おっ!」と思っても、こんなことで喜ぶなんて、お気楽な人間だな、と自分を恥じた気がする。せっかく「おっ!」と喜んだのに、その気持ちすら、不出来な自分の悪しき姿のような気がして、世間に対する申し訳なさにつながっていたのだ。

 頑張っている人を見ると、なぜ自分はあんな風に頑張れないんだろうと思い、毎日学校に通えている子を見ると、何で自分はそんなことすら、つらく感じているんだろう、そう思っていた。

 太宰治は「生まれてすみません」と言ったが、私は「生かしてもらってすみません」という気持ちで生きているところがあった。社会が求めるような人間ではないというコンプレックスは、小さな喜びを感じることすら罪悪感の一つになっていたのだ。

 午後5時55分55秒の瞬間を見て、「だから、何?」と思わない自分は、以前の自分よりも、かなり得をしている気がする。人から見て凄くつまらないことでも、得した気分になれるのは、やはり良いものだ。

 ミニトマトを半分に切ってみたらハートの形になったり、インスタントラーメンを作ろうと思って、ポットに残ったお湯を全部鍋に入れてみたら、ちょうど500mlだったり、レジの会計がぴったり千円だったり。

 日常の幸福を拾えるようになるだけで、自分を縛り付けていたものが緩んでくる。

 ようやく、私の心が散歩を始めたのかもしれない。

 景色を見たり風を感じたり花を見たり、自分で自分を束縛していたときに感じられなかった景色に気づき始めると、偶然見た午後5時55分55秒は、大輪の花のように思える。

 以前と比べ、頻度は減ったものの、まだまだ自己否定に陥ることはある。
 生きづらいと思うことは甘えだと、自分を罵ることもあるし、自分を責め立てることで、世間に許してもらおうとする自分の狡さに辟易することも多い。

 それでも私の心は、一瞬、その感情から離れて、午後5時55分55秒に喜べるようになったのだ。今の自分を、1年前の自分に教えてあげたら、どう思うだろう。少しはホッとしてくれたらいいなと思う。

 私はこれからも、午後5時55分55秒に喜べる人間でいられるだろうか。それとも、もっと別の認識で物事をとらえられるようになるかもしれない。これからも下手に構えることなく、自然と午後5時55分55秒を感じられたらいいな。そう思っている。






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