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猫かぶりの術 #短編小説

 恋は猫をかぶらないと、成就し得ないものなのだろうか。

 彫刻刀で掘ったような深い皺を眉間に刻み、小田切昌子おだぎり まさこは腕組みしながら考え込んでいた。
 社員食堂の端の席でたぬきそばを食べ終えたとき、先日の合コンでの光景がまざまざとまぶたの裏に浮かんできたのだ。あのときも、昌子は店の奥の右端の席に座っていた。

 小田切昌子は、鼻の穴を大きく膨らませ「むーん」とも「ふーん」ともつかぬ曖昧な音の溜息をついた。その様子はまるで、三日煮込んだこだわりのスープが自慢の、ラーメン屋の主人のようだった。

「小田切さん、どうかした?」
 市川尚美いちかわ なおみがトレイを持って、昌子の向かいに座った。トレイの上には、大きなお揚げが乗った、きつねうどんが湯気を上げている。
 市川尚美は昌子の直属の上司だ。頭脳明晰で人柄も良く、昌子は市川尚美の発言や行動に、全幅の信頼を寄せている。

「実は、会話のサ行の話なんですけど……」
 昌子が話し始めると、尚美が心配そうに眉間に皺をよせた。
「え? 作業、進んでないの? 何か問題でもあった?」
「あ、いえ、違います。そっちの作業じゃなくて『さしすせそ』のサ行です」
「ああ、そっち」
「はい」
 市川尚美は、安心した様子で、ズズッとうどんを啜った。

「市川さん、会話の『さしすせそ』って知ってます?」
「ああ、『すがですね。らなかったです。ごいですね。ンスありますね。うなんですか』これを屈指すれば、聞き上手になれるっていうやつでしょう?」
「さすがです」
 間髪入れず、そう返す昌子に、尚美がニヤリと笑う。
「小田切さん、なかなかの聞き上手ね。で、それがどうかしたの?」

「実は先日、数合わせ要員として合コンに行ったんです」
「へぇ、めずらしい」
「めずらしいどころか初めてです」
「そうなの? それもめずらしいねぇ」
 尚美はそう言いながら、レンゲの上にワカメを乗せ、汁と一緒に一気に頬張った。
「慣れない催しに参加して、場の空気を壊してもいけませんから、その日は少し気合を入れてみたんです」
 小田切昌子は入社以来、真っ黒のひっつめ髪、黒ぶち眼鏡にすっぴんという、オリジナルのスタイルを貫いている。普通なら、近寄りがたい印象になるのだろうが、小田切昌子には、不思議とそういったところがない。その個性は、皆から愛され、親しまれている。

「気合って、どんなことしたの?」
「同居する妹が美容師をしてまして、たまたまその日は休みだったんです。事情を説明して、巻き髪を作ってもらい、きっちりメイクもしてもらいました。淡いピンク色のワンピースを貸してもらって――」
「へえ、すごい」
「それがこれです」
「!!!」
 尚美が昌子の差し出すスマホを見ると、そこには驚くほどの美女が写っていた。

「ウルトラマンもびっくりの大変身じゃない!」
「はい、我ながらいい出来だと思います。しかし、いかんせん、話しぶりがこれでは、せっかくのお洒落も、宝の持ち腐れと言いますか……」
「あー、なるほど。それで、さっきの聞き上手の『さしすせそ』が出てくるわけね」
「そうなんです。妹が、とにかく猫をかぶって、聞き上手の『さしすせそ』を繰り返せと言うものですから、かつて演劇部だった経験を生かして、可愛らしい女性を演じてみたんです」
 小田切昌子が演劇部だったとは初耳だと思いつつも、尚美はきつねうどんを食べつつ、話の続きを聞いた。

「そこで、山田太一郎やまだ たいちろうさんという方に出会いまして、連絡先を交換しました」
「山田太一郎……」
 尚美の頭の中に、ふぞろいの林檎たちとドカベンが浮かんできたが、若い昌子には言っても通じない気がしたので、黙っていた。
「山田さんの話に『さすがですぅ』『知らなかったぁ』『すっごーい』『センスいいっ!』『そうなんだぁー』と相槌を打ち、指先で巻き髪の毛先をいじって、もてあそんでいました」
 昌子の演技に、うどんを啜っていた尚美の箸が止まる。

「すると、しばらくして山田さんがお店に響き渡るような声を上げて『君は俺の運命の人だ!』と言ったんです」
「ほう」
 山田太一郎。なんとも大袈裟な男である。
「彼は私の好みではありませんでしたが、悪い気はしませんでした」
「なるほど」
「でも翌日から、次はいつ会えるのかと頻繁に連絡が来まして  
「ああ……」
「これは、真実を見て頂くしかないと思いまして、約束をして、いつもの格好で出掛けました」
「ああ……」
「お察しの通り、頻繁だった連絡が途絶えました」
 山田太一郎。なんとも無礼な男である。

 昌子は、山田太一郎に未練があったわけではない。だが、態度の違いに戸惑いを感じたのは事実であった。
「やはり、私のような人間は、猫をかぶらないと恋は実らないのでしょうか。だとしたら、デートのときは、ずっと妹の世話にならないといけなくなるのですが……」

 尚美はうどんの汁をレンゲで啜った。
「私も一時期、営業先で猫かぶってたことあるのよ」
「そうなんですか?」
「お客様相手の仕事ってさ、飲食業でも何でも、ちょっとお芝居っぽいところがあるじゃない? だから、仕事中の私は女優なんだって思い込んで、キレイにして、愛想振りまいて、聞き上手の『さしすせそ』もやって、営業でトップになったんだけど  
 尚美は汁をたっぷり含んだお揚げをかじって、ゴクリと飲み込んだ。

「猫かぶるのも忍耐がいるんだよね。少なくとも私にとってはそうだった。結局さ、自分が苦にならないことでしか、努力とか精進ってできないんだね」
「なるほど」
「で、翌月はトップからは陥落したんだけど、その頃に契約してくれたお客様の中で、未だに良くしてくれる人もいるのよ。猫かぶらなくても、良くしてくださる人がいるなら、そういう人とのお付き合いを大事にしたいって思ったんだよね。自分はうまくやれているつもりでも、猫かぶってるのって、案外人から見抜かれているものだと思うし」
 尚美は、きつねうどんを平らげ、箸を置いた。

「そういえば、猫かぶってるときと、普通のときのギャップが面白い、なんて言ってた人もいたなぁ。まぁ、結局、私の猫かぶりの術は一定数の人には、見抜かれてたってことなんだろうね。猫かぶって、それをやめたってだけでも、人の反応はそれぞれなんだなぁって、改めて思ったよ。だから人間相手の営業っていうのは、面白いし辛いところもあるんだけどさ」
「勉強になります」
 昌子はメモを取りそうな勢いで、前のめりに聞いている。

「いざとなったら、こんなにすごい『猫かぶりの術』が使えるんだから、隠し玉として持っておけばいいと思うよ。確かに、山田太一郎みたいに尻尾撒いて逃げちゃう人も多いかもしれないけど、猫かぶったままお付き合いしても、結局うまくいかないし」
 マジメに、うんうん頷く昌子を見ながら、尚美はにんまりと笑った。

「それにしても、小田切さんの猫かぶりの術、見てみたかったなぁ。さっきやってくれた『さすがですぅ』も、なかなか堂に入ってたよ。一日だけでもいいから、今度メイクしてきてよ」
「じゃあ、今度の忘年会のときに妹に頼んでみます」
「えー! 楽しみー!」

 昌子の猫かぶりの術は、その年の忘年会を大いに賑わせた。
 それだけではなく、普段の昌子を知る、ある男性社員がそのギャップに心射抜かれ、猛烈なアタックをしてきたのである。

 小田切昌子の猫かぶりの術は、晴れて、その恋を成就させたのであった。





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