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人は願いの中を生きている

 なぜこうも、いろいろなことを願ってしまうのだろう。
 ああなりたい、こうなりたい、と、願望を抱いては、それをどうにかして叶えたいと思う。だが、自分の願いと向き合うことは、簡単なようでいて実は難しい。

 願いを現実化させたいと思うことは、精神的や痛みや負担が伴う気がする。
 例えば、お金が欲しいと願うことは、《自分にはお金が無い》と認めることになるし、痩せたいと願うことは、《自分が太っている》と認めることになる。そこにあるのは《今の自分は欠けている》という不足の概念だ。

 自分はなぜ《お金がない》のか。
 自分はなぜ《太っている》のか。
 考えれば考えるほど、気持ちは沈む。
 自己肯定感が下がっていくような気がしてしんどい。
 今の自分の状態を否定することから生まれる《願い》は、こういった胸苦しさを連れてやってくる。

 この胸苦しさを《リスク》と捉えるならば、頭の中で何かを《願う》だけで、簡単に《リスク》が発生している、ということになる。
 もし、この《リスク》が、自分の手に負えない、コントロールができないものになってしまったら、一体どうしたらいいのだろうか。

 霜月透子さんのホラー小説、「祈願成就」は、そんな手に負えないものが、

   あそぼうよぉ。

 と、やってくる。
 


 自分たちの願いを叶えるために、5人の小学生たちは、雑木林である儀式をした。それから20年以上の時が過ぎ、その儀式を執り行った郁美が、凄惨な死を遂げる。
 郁美の死によって、再会した実希子、徹、絵里、健二。
 迫りよる影とともに訪れる災い。鼻をつくえた臭い。

   あそぼうよぉ。

 
しわがれた声とともに、これまで何とか保ってきたそれぞれの日常が、脆く崩れ始める。

 願ってしまったことで生まれた《リスク》に、登場人物たちは容赦なく飲み込まれていく。そのさまは、フィクションであるにもかかわらず、すぐ隣にあるようなリアルさをもって胸に迫ってくる。
 子どもの願いは、些細であり、安直であり、大それている。
 その誰もがつい抱いてしまうような願いの危うさが、《すぐ隣にあるようなリアルさ》を読み手に抱かせるのだと思う。

 物語の中で起こる出来事は、不気味で生々しい。じっとりと湿った風が常にまとわりついているようで、読んでいる私の顔は、酸っぱい梅干しを口いっぱいに詰め込んだようになった。
 顔のすべてのパーツが中心に寄りそうになる。
 それでも、途中でやめることができない。なぜならば、《あとは明日のお楽しみ》などと言って栞を挟もうものなら、ふと、あのえた臭いが鼻をかすめ、

   あそぼうよぉ。

 何者かが耳元で囁いてきそうだからだ。

 ちなみにこの「祈願成就」は新潮文庫の新刊である。
 ということは、新潮文庫ならではの、あの栞紐(スピン)がついている。せっかくついているのだから挟みたい。なのに、それを使わずに読み切ってしまった。もったいないことをしてしまった気がする。

 願いというものは、自分でも気づかないうちに思考の中に潜んでいるものだ。
 つい無駄遣いしてしまったり、つい食べ過ぎるのと同じように、つい何かを願ってしまう。

 それを、この物語の登場人物たちのように、形にして願うか否かは、薄紙一枚の差でしかない。だが、その差がもたらす影響は、想像以上に大きいものなのかもしれない。

 《満たされたい》《安心したい》
 人の願いの中には、そういった感情が少なからず内包されている。《不足》や《不安》を解消したいという欲求がある限り、人は何かを願わずにいられないのだ。

 もしかしたら、人というものは常に、願いの中を生きているのかもしれない。

   あそぼうよぉ。

 小説の中の不気味な声を聞くうちに、ふと、そんな思いが頭をかすめた。






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