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完敗に乾杯!

私と夫は歩いていた。
遮二無二、歩いていた。
季節は夏、歩けば歩くほど、汗が噴き出す。
その歩行に効果音を付けるとしたら

ズンズンズンズン

その歩みは力強い。
向かう先は、ビール工場のすぐそばにある、ビアレストラン。
出来たてのビールとともに、和・洋・中のバイキング形式の食事を楽しめる。
しかも食べ放題、飲み放題なのだ。
まさに地上の楽園である。

そのビアレストランのことを知ったのは、
予定している旅先のガイドブックを見ていた時である。
「ビアレストランがある!」
この発見で、私たちは色めき立った。
しかし、旅の移動は車。飲んだら乗るな、飲むなら乗るな、だ。
ビールを飲むなら、車移動は諦めなければならない。
しかし、今更、鉄道移動に変更もできなかった。

ビアレストランは、駅から車で8分ほどの場所である。
8分と聞けば、何だその程度かと思うかもしれないが、
徒歩に換算すると、50分近くかかってしまう。
距離にして3.5キロ。もちろん、これは片道の話である。
普通ならば、タクシー移動を検討するところだが、
タクシー代を、飲み代に回したいという
アルコールに支配された判断力で、
私たちは、徒歩移動することに決めてしまったのである。
ディナーだと歩くのは暗くて嫌だが、ランチタイムなら明るい。
きっと歩けると信じ、車は宿に置かせてもらうことにした。

そして私たちは、2頭の馬になったのである。
目の前にぶら下がるのはにんじんではなく、出来たてのビールだ。
暑さはランチタイムに向かって、最高潮に達してきている。
昼の照りつける太陽が、ますますビールへの思いを熱くさせる。
私たちの歩みは、力強さを増していた。

ズンズンズンズン

しかし、歩いてみてわかったのだが、目的地までの道は
歩いてて楽しくなるような自然いっぱいのウォーキングコースではない。
大きな道路を、トラックがビュンビュン走り抜けていく。
一応、歩行者通路はあるのだが、誰も歩いている人はいない。
完全に車移動のための道なのだ。
それでも、そんなことを気にするような素振りは見せずにひたすら歩く。

ズンズンズンズン

それにしても暑い。
途中で水を飲む。
真夏の暑いさなか、誰に頼まれたわけでもないのに
何故、私たちは歩いているのだろう。

そう、そこにビールがあるからだ。

地図を確認すると、どうやらもう少しだ。
初めての道、心細くなるような道もあった。
真横をトラックが通り、肝を冷やしたが、
それくらいの冷えでは、全く引かないくらいの暑さの中を
二人で歩ききったのだ。

大通りを曲がり、小道を上がり、
ビアレストランがある、ビール工場へ向かう。
ビールのことを考えるだけで、目の前が開けるようだ。
看板を見上げた。

ん?

看板が少し寂れている。
あたりがとても静かだ。静かというよりも人がいない。
もう少し歩いていく。
建物はある。しかし何かがおかしい。
その建物は、廃墟になりつつある気配があった。

何と、ビール工場とビアレスランは、とうに閉鎖されていたのである。

膝から崩れ落ちる私。しゃがみ込む夫。
二人に言葉はない。
出来たてのビールも、和・洋・中のバイキングも、ここにはない。
二人がビールで乾杯することは、もはや儚い夢となったのだ。

それだけではない。
昼食抜きの状態で、来た道を帰らなければならないのだ。
日差しがジリジリ照りつける。
駅に近づくまで、飲食店はない。

不幸中の幸いか、自販機だけは動いていた。
スポーツドリンクを買って飲む。
炎天下を歩いた体に、液体が縦横無尽に染み渡る。

「よし、帰るぞ」

夫が言う。
駄々をこねても、ビアレストランは戻ってこない。
余計なことを考えると、歩くのがますます辛くなる。
我々は3.5キロの道のりを、修行僧のごとく、無心に歩いて駅へと戻った。

              ◇

スマホもない、20年近く前の、旅の思い出ばなしである。

あの頃も、今も、お酒があるだけで、夫婦の時間がとても楽しい。
あの時の乾杯は完敗に終わったが、
「ケチらずに新しいガイドブックを買っておけばよかったね」
などと言いながら、思い出話をつまみに飲むビールは、最高に美味しい。

完敗に乾杯である。




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