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ガラスの手 #短編小説

 ガラスの手だな……。
 長考後の一手を指したとき、野上充裕のがみみつひろはそう思った。決して、筋のいい手ではない。だが、こういう手が、相手を惑わせることがあるのを、彼は知っている。

 将棋用語では、嘘手うそて、などと呼ばれているが、充裕は密かにこういった手を、ガラスの手と呼んでいた。もろく割れることも多いが、相手の出方次第では、光を含んだガラス玉みたいに輝くこともある。ダイヤモンドや水晶のような値打ちはない。だが、こんなガラス玉のような手に、充裕はこれまで何度も救われてきた。

 今日、充裕はこの対局に負けたら、規定による引退が決まっていた。
 25歳のときに棋士になって22年。大きな実績を残すことはできなかったが、一度だけ、予選を通過してNHK杯に出場できたことが、唯一の親孝行となった。故郷の両親はテレビの前に正座して、息子の対局を見入っていたらしい。でも、その両親はもういない。

「負けました」

 駒台に軽く手をつき、充裕は投了した。
 ガラスの手は、輝く間もなく、粉々に割れた。今日の対局相手は水野優馬みずのゆうま五段。彼と指すのは初めてだった。新進気鋭の若手棋士に、ガラスの手は鋭く咎められ、その後は、もう何をしてもダメになってしまった。

 対局室を出ると、職員や他の棋士、記者から「お疲れさま」と声が掛かる。労いの言葉に深々と頭を下げ、充裕は将棋会館を後にした。深いため息をつき、足を踏みだしたそのとき、
「野上先生!」
 背後から呼び止められた。
 プロ棋士は強い弱いにかかわらず、先生、と呼ばれることが多い。そんな柄ではないが、いちいち抗っても仕方がないので、充裕は先生と呼ばれることを受け入れている。

 振り返ると、そこには先程まで対局していた、水野優馬が立っていた。
 実力差も、年齢差もある水野優馬と充裕は、普段全く交流がない。話をすること自体、今日が初めてだった。

「あの……こっ、これから飲みに行きませんか?」
 充裕は耳を疑う。有望な若手に飲みに誘われたことなどない。水野優馬は、見るからに優しそうな青年だ。もしかしたら、対局相手を引退に追い込んでしまったことに、負い目を感じているのかもしれない。
「ありがとう。でも、今、あまり持ち合わせが無くて」
 懐が寒いのは本当のことだった。すると、水野優馬は言った。
「だったら是非、ご馳走させてもらえないでしょうか」

 20も年の離れた後輩に奢ってもらうなんて、恥ずかしい気もしたが、自分と飲みたいと言ってくれた気持ちが嬉しく、充裕はつい、彼の誘いを受けてしまった。

 たどり着いたのは、高級そうな焼肉店だった。店に入ると、既に予約してあったかのように、すんなりと個室に通された。
「お任せで、どんどん持ってきてください。あと、ビールを二つ」
 迷いのない注文に驚く。店員も迷いなく、どんどん肉を持ってきた。しかも普段は手が出ないような、さしが入った高級な肉ばかり。水野優馬はその肉を手際よく焼き、充裕の皿にのせていく。

「いただきます」
 こうばしい焼肉の匂いには抗えない。戸惑いつつも口に肉を運ぶと、想像以上の味に体が震えた。こんな食事をしたのは久しぶりだな、と思い、両親に、こういうご馳走を食べさせてやりたかったと、悔やむ気持ちが湧いた。

 充裕は昨年、立て続けに両親を見送った。喧嘩ができるような兄弟もいない。成績が振るわなくても、将棋教室や指導対局、解説などで稼ぐ棋士もいるが、充裕は口下手で、そういったことに不向きな人間だった。自分ひとりで食べていくのがやっと。それでもいいと言ってくれた女性もいたが、彼女を幸せにできないと思い、結婚は諦めた。

 自分と関わってくれた人たちは、皆、良い人ばかりだったのに、その人たちの気持ちに、何ひとつ答えられなかった。それが、つらかった。

 今、目の前にいるこの青年も、引退に追い込まれた先輩に食事をご馳走し、せっせと肉を焼いてくれる。本当に、自分の周りは良い人たちばかりだと、充裕は思う。
「……もう思い残すことはないなぁ」
「はい?」
 思わず漏れ出た充裕の呟きに、水野優馬が目をぱちくりさせる。21か2くらいの年だったと思うが、制服を着れば、まだ中学生でも通用しそうだ。
「いや……何でもないです」
 自分の本音を隠すように、充裕は肉と白米を口に詰め込む。そんな充裕に、水野優馬が訊いた。

「野上先生は、初めて指導対局をしてくれた棋士が、誰か憶えていますか?」
 指導対局とは、プロ棋士と将棋の対局を行って、指し手の指導をしてもらうことだ。充裕も若い頃、将棋教室やイベントなどに呼ばれて、対局指導をしたことがある。
「えぇ、憶えていますよ」
 充裕は小学生の頃、当時、名人だった棋士に対局指導をしてもらったことがあった。本物のトップ棋士を目の前にしたあのときの興奮は、今でも忘れられない。

「僕は、誰だったか忘れてしまったんです。若い先生だったのは記憶にあるんですけど、何しろ子供の頃から人見知りで、まともに人の顔を見られなくて  。そのかわり、その人の手をじっと見ていました。僕の実家には、古いガラスのハンドオブジェが飾ってあるんですが、それによく似たきれいな手でした。指先がすっと伸びて、右手中指の第一関節にほくろがあって……」

 充裕は、自分の右手を見る。
 長く伸びた中指の第一関節には、ぽとりとインクを落としたようなほくろがあった。

「今日、対局前に駒を並べているときに気がつきました。あのときの棋士は野上先生だったんだって」

 水野優馬が初めて対局したプロ棋士が充裕で、充裕が最後に対局したプロ棋士が水野優馬。互いにとって、最初と最後を相手になったわけだ。

「あの頃、僕は学校でいじめに遭って、不登校になっていたんです。毎日死にたいと思っていました。でも、家で詰将棋を解いているときは、そのことを忘れられたんです。それを見ていた父が、僕を将棋のイベントに連れて行ってくれて  
 充裕は記憶を辿ってみたが、その日のことが思い出せない。

「指導対局が終わった後、野上先生が『こうして将棋を指していると、黙っていても、たくさんおしゃべりをした気がするから不思議だね』って声を掛けてくれました。将棋を通じてなら、人と話ができる。僕は、父に頼んで、すぐに将棋教室に入れてもらったんです。学校以外に自分の居場所ができたことで、『死にたい』という気持ちが消えていきました」

 充裕は、棋士を引退したら、死んでしまおうと思っていた。
 応援してくれた両親は、もういない。こんな自分を愛してくれた女性も、今頃、どこかの誰かと幸せになっているだろう。自分を引き留めるものは何もない。それを痛感したとき、流氷がやってくる故郷の海に、この身を沈めようと密かに決めていたのだ。それなのに  

「野上先生のおかげです」
 そう言って、頭を下げる水野優馬を見ていると、死ねない、と思った。自分が死んだことを彼が知れば、きっと、味の悪さを感じるに違いない。この青年をそんな気持ちにさせるくらいなら、もうひと踏ん張りして生きよう。そう思い直したら、急に腹が減ってきて、何だか涙が出そうになった。
「いやぁ、おいしいですね。本当にこの肉は旨い」
 こみ上げるものを堰き止めるために、充裕は肉を頬張る。その様子を見ながら、水野優馬は嬉しそうに言った。

「この店、実は父の店なんです。対局が終わって、父に野上先生の話をしたら、あのときの恩返しだから、是非、お連れしろって、言われて……。そんなわけで、たくさん食べても僕の懐は痛まないので、遠慮なく召し上がって下さい!」
 水野優馬は今どきの青年らしい、現金な笑顔を見せた。
 そうか。だから、すんなり個室に通され、次々に肉が運ばれてきたのか。

「じゃあ、遠慮なく」
 それから充裕は、水野優馬と二人で黙々と肉を食べた。
 肉を頬張り、ご飯をかき込んでいると、だんだんと、生きる力が湧いてくるのがわかる。その味を噛みしめながら、本当に、自分の周りは良い人たちばかりだと、充裕は思った。


 
 






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