エピローグ
激務の果て、本当にウォーと叫びそうになったので、石垣島に飛んだのが先週。
自然に触れて、少し一息ついたことで叫びたい衝動はおさまりました。
自然の力はすごい。
昆虫も植物も動物も、環境に適応しながら本能のままに生きていました。
ネイチャーツアーのガイドさんから説明を受けるたびに、彼らは自分のことをよくわかっているんだなぁと感心せずにはいられませんでした。
人間と違って迷いがない。
一方の私は迷える羊。
夏目漱石の「三四郎」でいうところの、ストレイシープってやつです。
しかもミッドライフクライシス・・・。
・・・さて、今回の旅で印象に残っているのは、御嶽(おん)と呼ばれる神を祀る場所で見かけた、ひざまずき祈る人の姿です。
その人が去ったあとには、神に捧げたのであろう酒の匂いが漂っていました。
時々、寺や神社で祈る人々を見かけて心惹かれることがあります。
感覚的にでしかないのですが、そういった人たちはあくまでも祈っているのであって、願いごとをしているのとは違うように思えます。
どうして人は祈るのでしょうか。
祈りの語源には諸説あるようですが、いのりの「い」は神聖なもので、「のり」は宣言するとか、告げるといった意味があると言われています。
また、神聖なものである「い」は生命をも意味します。
つまり、いのりは「生きることを宣言する」という行為です。
それは、願いごとをするのとは違います。
きっと、人は迷うからこそ祈るのです。
人は祈る生き物で、祈ることは人にとって自然な行為なのだと思うのです。
自分の中にあるはずの生きるうえでの道すじみたいなものを、明らかにしようとしているのじゃないでしょうか。
それは生きることへの、ひたむきさのようにも感じられます。
だからこそ、人が祈る姿というのは魅力的なのかもしれません。
ヒツジではなく、ヤギをたくさん見かけた旅でそんなことを考えたのでした。
「空飛ぶクラゲ」は今回をもちまして連載終了いたします。
このような機会をくださったMKコーポレーションさんと、読んでくださったみなさまに心より感謝申し上げます。