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コンプレックスの塊だった私が自己肯定感の塊になるまで

こんにちは。コロナのおかげで ”世界を飛び回る二児の母” ではなくなってしまった、親子留学カウンセラーのハナです。

「母親だから」という理由で諦めなくちゃいけないものなんてない!

ということをお伝えしたくて、PCと向き合っています。

なぜこのテーマでnoteを書こうと思ったかというと、実は、わたし自身が諦めまくってきたから。

今でこそポジティブに新しい挑戦をしまくっているわたしですが、今までの人生を振り返ると途方もなくネガティブなドス黒い期間がありました。

なぜ、変われたのか?

日本の常識に縛られ、自分の可能性を狭めていたのは自分自身だったということに気づいてから人生が大きく変わったんです。

ちょっと長いですが、コンプレックスの塊だったわたしが自己肯定感の塊になるまでの黒歴史を告白します。


【子ども時代、最悪な形で英語と出会う】

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コンプレックスの塊だった子供の頃

わたしは小さい頃、コンプレックスの塊でした。

とにかく人見知りが強くて、集団にはなかなか馴染めなかったうえに、超ド級の運動音痴だったからです。

子供のころって、運動ができる子がヒーローじゃないですか。

体育の時間や鬼ごっこなどの外遊びでも、いつもわたしはヒーローの足を引っ張る足手まといだったし、ドッジボールでは「穴」として狙われました。

毎年、運動会の前日は、台風か何か大事件が起こって運動会が中止になりますように、と全力で祈っていたことをよく覚えています。

そんな自分が大嫌いでした。

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勉強だけは得意だったので100点のテストを褒められる度に「自分は少しは価値があるのかもしれない」と感じましたが、中学生になり、そのわずかな自尊心さえ崩れました。

当時、中学1年生から開始した英語の授業。わたしは英語がまったくわからず、はじめのテストではクラス40人中40位、ビリだったんです。

多くの生徒が中学入学前から塾などで英語学習の準備をしていたのに対し、わたしはアルファベットのABCも知らない状態で英語の授業に臨んだのだから、そりゃ当然ですよね。

しかし、初日の授業ではボコボコに打ち負かされたような心境でした。

勉強で初めて感じた劣等感。わたしは、英語との出会いを最悪の形で迎えたのです。


猛勉強してビリから1位へ

悔しくて、悔しくて、一人で英語の勉強を始め、中学校の教科書に出てくる単語や文法を片っぱしから全部頭に叩き込んでいきました。

加えて、毎日、NHKのラジオ英会話を聴きました。ラジオ英会話の発音を真似して、何度も繰り返し独り言をつぶやき続ける練習方法です。

そうして、劣等感から生まれた負けず嫌い精神で必死に勉強していたら、いつの間にか英語の成績が40位から1位になってた。

感激です…!

それから、高校卒業レベルと言われる英検2級にも挑戦し、中学生ではめずらしく独学で一発合格することも出来ました。

「自分はやれば出来るんだ」という自信が生まれ、いつの間にか英語が大好きになったことを覚えています。


14歳で留学したいと両親に土下座

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英語をもっと勉強したい。英語をつかって外国の人達と話をしてみたい。独り言ではなく、実際に英語でコミュニケーションをとってみたい!

だんだん英語への思いが膨らみます。

両親に留学させて欲しいとお願いしたところ、「高校受験でK高校に合格したら、留学に行かせてやる」と父に言われました。

K高校は地元では憧れの存在で、秀才の生徒たちが集まる学校というイメージしかなかったので、ものすごく高いハードルを目の前に置かれたような気持ちに。

でも、やるしかないと思いました。

今思い返しても、高校受験の前の半年間が、わたしが人生で一番勉強した期間です (笑)


自分の行動を支えている大きな成功体験

それまでの英語の勉強と同じように、国語、数学、理科、社会のすべての科目を必死に勉強しました。

「留学したい」という思いが、わたしを奮い立たせてくれたのです。

朝から晩まで、トイレの中でも、ひたすらに受験勉強をしました。学生時代には気づきませんでしたが、自分の時間を勉強だけに費やすことが出来るのは、とても恵まれていて、ありがたいことですよね。

その結果、わたしは第一志望のK高校に無事合格することが出来ました。

合格発表の日、掲示板に自分の受験番号を見つけた時は、嬉しすぎて大号泣でした。それまでの日々のすべてが今日に繋がっていると思うと、大変だったことも辛かったことも一つ一つの経験に感謝したくなるほど。

目的を持って高校受験のために一生懸命努力できたこと、それにより目標を達成できたという成功体験が、コンプレックスの塊だった自分を変えてくれたのです。

わたしはこの経験を通して、自分は価値がある人間なんだという「自尊心」、自分を信じるという「自信」を持つことが出来るようになりました。

だからこそ、今、子供たちにも、たとえ大きな壁にぶつかったり苦しい思いをしたとしても、それをやりきった時に自尊心と自信を持てるような経験をたくさんして欲しいと思っています。

※コンプレックスの塊から脱皮できた学生時代の詳細を書いた記事はこちら
https://hanasacademia.com/post-400


【高校生、旅の始まり】

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はじめての留学、オーストラリア

16歳、高校2年生の夏にオーストラリア、メルボルンへ短期留学をしました。わたしが参加した留学プログラムは某新聞社が主催したものです。

夏休みの約1ヶ月間を利用して、メルボルンの一般家庭にホームステイしながら現地私立高校に通い、毎週末は様々なアクティビティに参加するという内容でした。

初めての海外、初めての飛行機に大興奮だったわたしは、片道10時間の夜間フライトで一睡もできず。

ギンギンに冴える眼でずっと飛行機の外を眺めていたのを覚えています。

留学仲間の高校生たちは、みんな向上心が高く、話しているだけでワクワクするほどお互いに刺激し合えて、そんな彼らとの出会いも大きな魅力だったのが印象的です。

生まれて初めての海外経験となったオーストラリアでは、たくさんの気づきや学び、それから感動がありました。

黄色い猿は帰れ、と言われる

オーストラリア留学

まず、期待に胸を膨らませて登校した現地の私立高校で、わたしはいきなり黄色人種差別を受けました。

「黄色い猿は帰れ」

登校初日、クラスメイトの白人の男子に言われたのです。

ものすごくショックだったのと同時に、世界の現実を学びました。移民国家のオーストラリアには、様々な人種、様々な民族の人がいます。

単一民族・単一言語の日本では味わえない多様性がそこにはありました。

ホストシスターと一緒に現地の高校に通い、ホストファミリーと食卓を囲んでご飯を食べて、順番にシャワーを浴び、子供部屋の二段ベッドでホストシスターと一緒に寝るという毎日。

縁もゆかりもない外国の人達と家族のように過ごす生活は、英語だけではなく日本とは全く異なる文化を学ぶ良い経験になりました。

最終日にみんなで涙を流しながら別れを惜しんで抱き合ったことは、最高の想い出として今も胸に焼き付いています。

このオーストラリア留学から始まり、ニュージーランド、マレーシア、カナダ、アメリカ、フィリピンの6カ国で留学 / ホームステイを経験して、留学カウンセラーとなったのです。


【人生の嵐】

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出産して専業主婦になり、古い価値観に縛られる

そして、結婚と出産を機にまた自己肯定感が崩れまくることになります。

あなたは、結婚適齢期をクリスマスケーキに例えた話をご存知ですか?

「24までが一番売れる、25になるともうあまり売れなくなって、26を過ぎたらカラッキシ。売れ残りの女になる。」

今となってはアホみたいな都市伝説ですが、ど田舎の古い家でそう言われながら育ったわたしは、「女の幸せは結婚」「早く結婚することが幸せ」だとばかり盲信していたな。と今は思います。

学生時代から付き合っていた彼と23歳で結婚。友人はまだ誰もママになっていない頃、24歳で第一子を出産しました。

女は子供を生んだら子育てに専念するべきという古い価値観まで持っていたわたしは、何の迷いもなく、トップ営業だった大手英会話スクールを退職。

24歳の若さで、これからの全人生を夫と子供に捧げようと真剣に思っていて、20代で自分の趣味や夢を諦めることにも特に抵抗はなかったです。


出産直前から繰り返し続いた夫の浮気

里帰り出産をするために実家に帰省した臨月から、夫の浮気が始まっていたことを出産直前に知りました。

命がけで出産した我が子は酷いアトピー性皮膚炎があり、四六時中、体を搔きむしる日々が始まります。

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さらに、母乳以外は飲んでくれず、昼も夜も関係なく1~2時間おきにおっぱいを欲しがる息子。卒乳した1歳7ヶ月まで3時間以上ぐっすりと寝たことはなかったです。

実家は遠く、結婚してから新しく移り住んだ土地で友達もいない、まったく思い通りにいかない初めての育児。

夫は、わたしや子供が高熱で寝込んでいても、飲み会に行っては連絡もなく帰ってこないというのが日常でした。

母親は子供が生まれた途端に生活のすべてが一変して24時間身動きが取れなくなりますが、父親はまるで独身の頃と変わらない自由があるという現実。

夫と連絡さえほとんど取れない日々のワンオペ育児は、ひたすら孤独だったことが一番辛かったのを覚えています。

子供のオムツを替えるとか、夜泣きの子供を抱っこするとか、夫にはそういう「作業」をして欲しいわけではありませんでした。いや、もちろんしてくれたほうが良いに決まっていますが、そんな高望みはしません。

ただ、毎晩「今日はこんな大変なことがあった」「こんなことが嬉しかった」「こんなことが辛かった」という話を少し聞いてもらえたら、どんなに救われたかと思います。


ワンオペ育児で産後うつに

ワンオペ育児で両手首が酷い腱鞘炎になり、毎週病院で痛み止めの注射を打つほどに。医師からは「なんでこんなに酷くなるまで放置したんですか。当分、手を使わないでください。」と叱られる。

それでも抱っこしないと赤ちゃんは大泣き。抱っこしている間は寝ても、布団に下ろした途端に大泣き。やっとぐっすり寝て布団で寝かしつけに成功した、と思ったら体を搔きむしりながら起きて大泣き、の無限ループ。

とにかく自分に余裕がなくて、その辛い気持ちを夫に伝えようにも、話せる時間なんてほとんどない。たまに会えてもつい感情をぶつけるような言い方しかできず、ますます夫は帰ってこなくなるという悪循環だったのです。

日本社会で求められる「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」という理想の母親像には、どう頑張っても近づけませんでした。

「母親」というだけで万能であることが求められ、子育ての全責任が母親に押し付けられ、子供になにか問題があれば真っ先に母親が叩かれる日本。

そもそも、「完璧な子育て」なんてないですよね。「完璧な人間」だっているわけない。

でも、わからないことばかりだった当時は、育児書に書かれた理想の育児を追求するあまり、自分で自分を追い詰めていました。

・子供が泣いたら泣きやませなきゃダメ
・近所迷惑にならないように家でも注意しなきゃダメ
・母親は自分を犠牲にして子供を第一優先にしなきゃダメ

日本社会には、そんなたくさんの「育児の常識」があります。

育児書通りの子育てをしようとすればするほど、思い通りにいかない現実とのギャップが苦しく、自分を責めていたことを覚えています。

わたしは日本のクソ常識に支配されていたのです。

乳幼児を叱ったって、しつけの効果よりも恐怖感しか残らないのに、それでも言うことを聞いてくれない息子にイライラして怒鳴ってしまう。

そんな自分が心底嫌になりました。

心身ともにグッタリと消耗する出産翌日から24時間365日休みなしの育児。それに加えて、夫が帰ってこない孤独と疑心暗鬼な日々が続き、精神的にも参っていきました。

原因のわからない身体の不調も続き、昼夜問わずとにかくしんどい状態。

その頃自治体の健康診断を受けたところ、血液検査で異常値が見られ、自律神経が乱れていることが原因だと診断されました。自律神経失調症です。

自律神経失調症とは、不規則な生活や過度なストレスなどにより自律神経のバランスが乱れるために起こる様々な身体の不調のこと。この自律神経の乱れは、うつの入り口だと言われています。

そんなある日、スーパーで食材の買い出しをするために、ベビーカーを押しながら大きい交差点で信号待ちをしている時。ふと、死にたい、死のうという思いに駆られました。

ビュンビュンと目の前を走る自動車やダンプカーを見ながら

「このまま一歩踏み出せば、死ねるかな」
「わたしが死んだら夫は悲しむだろうか」
「ダメな母親の自分は死んだ方が良いんじゃないか」

という思いが湧き上がりました。

※妊産婦の死因、自殺がトップ 「産後うつ」でメンタル悪化か

2016年までの2年間で産後1年までに自殺した妊産婦は全国で少なくとも102人いたと厚生労働省研究班が発表。出産時の大量出血による死亡の4倍以上にあたる。妊産婦の死因のトップが、出産時の異常などではなく、無事に出産を終えた後の「自殺」だという事実は非常にショックです。

出産後の母親の体は妊娠前の状態に戻ろうとするためホルモンバランスが急激に変化し、心身ともに不安定な状態。ここに育児ストレスや孤独感、家事と子育てが完璧にできないことの罪悪感などが作用して、産後うつを発症すると言われています。

(参考:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASL9473MVL94ULBJ00Z.html )


子供の将来を考えて思い留まることができましたが、一歩間違えれば産後うつで自殺を選ぶ母親と同じように衝動的な行動を取っていたかもしれない。


息子の障害がわかる

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息子は、生まれつき左目が見えていませんでした。

右目が見えるため普通の生活をしていたので、3歳児検診で弱視がわかった時の衝撃はすさまじかった。

医師からは「重度の弱視です。お子様は将来に渡って勉学等は困難でしょう。当院では治療の施しようがありません。」と言われ、目の前が真っ暗になるほどのショックを受けたことを覚えています。

現実を受け入れたくない思いと、どうにか治療できないのかという葛藤の中で、数院のセカンドオピニオンを経て、東京大学病院の弱視専門外来へ通い始めました。

我が子が障害児と言われて、初めてわかったことがあります。

わたしはそれまで障害者に対して偏見は持っていないと自負していましたが、結局偏見の塊だったんです。

自分や我が子には起こるはずのないこと、つまり、障害者と健常者はそれぞれ別の世界の人間だと思い込んでいたんだと、その衝撃の中で気づきました。

息子は3歳から分厚いメガネにアイパッチという片目を隠す湿布のようなものをつけ、見える右目を強制的に隠して盲目のトレーニングを開始。弱視とは、網膜などの眼球そのものの問題ではなく、視覚をつかさどる脳の発達の問題です。

近視であればメガネやコンタクトレンズで矯正すれば視力が出ますが、弱視の場合は脳の視覚機能の発達ができていないため、いくらメガネなどで矯正しても視力は上がりません。

視力が発達する時期は、生まれてから7〜8歳頃までと言われています。

この時期を過ぎると視力の成長が止まってしまうため、どんなに努力をしても治療は難しくなる。弱視は早期発見・早期治療がとても大事です。

息子はすべての視覚を右目に頼っていて、左目の視力の発達が止まっている状態でした。そのため、見える方の右目をアイパッチで隠し、強制的に見えない左目を使わせる必要があったのです。

当初、右目を隠すと何も見えず、大好きなお絵描きもできずひたすら泣く幼い息子に、なぜこのトレーニングが必要なのかを何度も何度も繰り返し説明する毎日でした。

しかも、アトピー性皮膚炎もある息子は医療用のアイパッチテープで瞼 (まぶた) がかぶれてしまい、余計つらくて泣くという日々。

そこで必死に良い方法はないかを調べて布製のアイパッチを手作りして、少しでも喜んでもらいたくて息子の大好きなキャラクターのワッペンを縫い付けたんです。

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息子は満面の笑顔でアイパッチをつけてくれて、希望の光が見えました。


公園で仲間はずれにされ、何度も親子で泣いた

ハンディキャップのない子はいません。

障害って、顔・体型・性格・才能等、みんなそれぞれに個性があるのと同じことなんだと、わたしは息子から学びました。

でも、個性だろうが何だろうが「出る杭は打たれる」のが日本文化です。

日本では少数派は排除される傾向があります。

3歳からビン底メガネに視力トレーニング用のアイパッチをしていた息子は、公園で仲間はずれにされることも多く、何度も親子で泣きました。幼稚園でメガネを折られて帰ってきたこともあります。

「普通と違うことへの抵抗感」=「みんなと同じ場所にいることの安心感」がイジメを生みます。

引っ込み思案の息子が勇気を出して仲間に入ろうとしても「変なメガネしてる子は入れてあげない」と言われるのは日常茶飯事でした。

息子だって本当は分厚いメガネと片目を隠すアイパッチなんてしたくないのに。

それでも毎日気丈に視力矯正トレーニングを頑張っている息子でしたが、ある日、公園で仲間はずれにされた後、「ママ。ごめんね。今日だけメガネ取ってもいい?」と泣きながら訴えてきた日は心が砕けそうだった。

この広い世界で、息子も自分も1人ぼっちのように思えたことを覚えています。

息子が通う幼稚園では、弱視の子供は学年に1人しかいませんでした。

でも、インターネットを通して日本中、世界中を探したところ、弱視の子供も同じ思いを抱える母親もたくさんいるのだという現実を知ります。

そうして繋がったママ達と東京で交流会を開き、弱視専門の病院情報、良いメガネ屋さんの情報、子育ての悩みなどを共有。

同じ思いを抱えるママ達と実際に会って話ができたことは、とても心強くて、ただただ嬉しかった。

息子は、3年間の東大病院への通院、毎日14時間の視力矯正トレーニングの結果、奇跡の回復を果たしました。なんと小学校に入学する頃には、読書なども問題なく出来るようになったのです!

この経験があるからこそ、1人でも多くの人に「諦めないで」と伝えたい。


※弱視という障害に向き合った日々の詳細について書いた記事はこちら
https://hanasacademia.com/post-17


セブへの母子移住を決断した理由

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自分の分身とも言えるような大切な大切な我が子。イジメなどの理不尽な問題からは、何があっても守ってあげたいです。

でも、現実は厳しい。

乳幼児の頃は24時間一緒にいることができても、幼稚園、小・中学校、高校、大学、社会人と成長していく中で、親の見えないところで起こり得る問題は増えていきます。

つまり、子供に降りかかる災難から親が何もかも守ることなんて不可能です。

それでは、どうしたら子供を守れるのでしょうか?

わたしがたどり着いた答えは、子供自身の「生きる力」を鍛えること。

すなわち「困難に打ち勝つ精神力」「あらゆる変化に適応出来る柔軟性、思考力、判断力」を磨くことです。

ゴールのない育児と言われていますが、突き詰めれば、それが育児のゴールではないかと思うのです。

親子留学に行くことを決断した理由のひとつは、今後必須となる英語力はもちろん、精神力や適応力を磨き、子供自身の「生きる力」を育みたいと思ったから。

2012年4月、当時2歳の娘と7歳の息子を連れてセブ親子留学をして、そのまま4年間母子で移住しました。


離婚という決断

実は、わたしは一度離婚をして、同じ男性と再婚をしました。

セブ親子留学をしてそのまま移住したのは、結婚10年目のことです。セブ行きを決断した際、夫は賛成も反対もしないという立場でした。

そのため、自分の両親に頭を下げ100万円のフィリピン親子留学費用とセブ移住資金を借り、母子3人で出発。離婚をしたのは、海外移住してから1年後のことです。

海外就職をして生活が安定し自立ができたことと、親からの借金を全額返済できる目処がついたことが後押しになったと思います。

10年間の結婚生活を通しては、子供の病気や障害、不妊治療など、たくさんのことを乗り越えてきましたが、わたしはいつも孤独でした。

産後うつで死にたくなるほど辛かった時も、子供の障害がわかって涙が止まらなかった時も、夫に真剣に向き合ってもらえなかったから。

育児の一番大変な時、わたしの家族はいなかった。そう思っています。

「家族」の定義が、大変な時に助け合い支え合う最も身近な存在であるならば、育児の一番大変な時にわたしの家族はいませんでした。

育児の大変な時期にパートナーによる精神的な支えがないということは、想像以上に大きな溝をつくります。

そうして少しずつ深まった夫婦の溝はもう修復ができないレベルまで達し、何度も家族会議をした末に離婚を決断。ずっと母子家庭のような生活を送ってきたので、父親がいなくても子供たちが寂しがる様子はなかったのも決断の理由の1つでした。

積み重なったマイナスの感情に支配されていたわたしは、きちんとケジメをつけたいと思ったのです。

夫は、当初は離婚に反対したものの、話し合いの末に応じてくれました。


【価値観の変化】

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セブ母子移住した4年間で、価値観が変わる

フィリピン、セブでの母子移住生活により、子育てに対する価値観が大きく変わりました。

日本に住んでいると、世界トップレベルの利便性が「当たり前」で、いわゆる「常識」を外れることは非難されがちです。単一言語・単一民族であるがゆえに多様性や個性は受け入れられづらい空気がありますよね。

例えば、公衆トイレにトイレットペーパーが付いているのは当たり前で、紙がないと怒る人がいたり。電車が1分遅延しただけで謝罪の構内アナウンスが流れ、それにさえ文句を言う人がいたり。

個性の強い子供は問題児扱いされたり、公共の場で幼い子供が騒ぐと苦情をもらい「しつけが出来ていない親」という烙印を押されたりします。

それらの日本独特のクソ常識が、母親に「完璧な育児」を押し付けているのです。

日本の外に出てみると、決してそれらは当たり前ではなく、自分が持っている常識なんて「ちっぽけな井戸の中の価値観」だということがわかります。 

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フィリピン人は他人の間違いや失敗に寛容です。

もちろんインフラ等について言えば不便な点は多々ありますが、逆にそのゆるさが楽な時も。わたしの場合、自分に甘く他人にも甘いフィリピン人を参考にしてみたら、育児がめっきり楽になりました。

また、セブで子供たちが通っていた小学校では、成績優秀者だけではなく全ての児童がそれぞれの個性を表彰されます。

日本だったら「出る杭」になりそうなワンパク坊主が Most Adventurous Award(最も冒険家で賞)を受賞したり、授業中全然じっとしていない子が Most Active Award(最も活発で賞)を受賞したり、寡黙で普段は注目されない子が Most Calm Award(最も落ち着いてるで賞)を受賞したりします。

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息子は Most Diligent(最も勤勉)、Writing Wizard(筆記の魔術師)、Most Hardworking(最も努力家) 、娘は Most Compassionate(最も思いやり深い)、Most Persistent(最も粘り強い)、Thorough Thinker Award(熟考家) を受賞。

そういう「一人一人の個性が大事にされて、ちゃんと認められる文化」って良いなぁと思います。

不完全な自分も、まだ未熟な我が子も、さらには完璧ではない自分の育児も、すべて社会から肯定されているような安心感がありました。

また、息子と娘は2人とも4年連続でAcademic Excellence Award(成績優秀賞)も受賞。英語力ゼロでフィリピンに来てから本当によく頑張ったね…と感慨深いです。


フィリピン人の笑顔と温かさに救われた

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わたしは、育児は孤独じゃないんだということをセブで学びました。

フィリピンでは「みんなで子供を育てる」という意識が強く、家族はもちろん近所の人もお互いに協力しあって家事や育児の責任も共有するのが「当たり前」なのです。

しかも、フィリピン人はみんな子供が大好き。街で偶然出会った人など、赤の他人がまるで自分のことのように積極的に手を差し伸べて、満面の笑顔で育児に協力してくれます。

日本では子連れの外出はとっても大変ですが、セブではむしろ子連れの方が外出しやすく感じるほど。電車に乗るなり「子連れは迷惑だから降りろ」と初対面のおじさんから怒鳴られるという日本の子連れ地獄を味わってきた私にとって、セブはまさに子連れ天国です。

娘が深夜に熱を出して夜泣きをした時、隣の家のおばちゃんが心配して駆けつけてくれて、大泣きの娘を交代で抱っこしてくれた時は感動しました。

日本のマンションに住んでいた頃は「子供の泣き声がうるさい」って苦情が来ないか、虐待の疑いで通報されないかって心配するのが関の山。

孤独育児でノイローゼになりそうだったわたしにとって、フィリピン人の優しさは、心の中の氷のような古い常識を全て溶かしてしまうくらい温かく、嬉しかったです。

そのうえ、「雨風しのげる家があって、3食ご飯が食べられるというだけで、なんて幸せなことなんだろう」と痛感した4年間。

フィリピンでは、毎日の食べるものも着るものも寝るところもままならない貧しい人達にたくさん出会いました。親は仕事がなく学校さえ行けない幼い子供達が、一生懸命サイドカー付きの自転車をこいで日銭を稼いでいます。

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それでも、陽気で明るく人生を楽しんでいる人達ばかりです。

夫に仕事があって、停電や断水することもない快適な家に住んで、食べるものに困らない生活ができていたのに、わたしはなぜ不満ばかりを募らせていたんだろうと思いました。

それと同時に、あらゆることに感謝の気持ちが溢れてきたことを覚えています。

産後うつに限らず、日本では毎年約2万人が自殺しています。日本の若い世代、15歳~34歳の死因のトップは男女ともに自殺です。

「大学受験に失敗した」「就活に失敗した」「いじめにあった」それらの理由は当事者からしたら死ぬほど辛いことなのだと思います。

でも、もし、わたしから一言いえるなら、「死ぬ前に一度でいいからフィリピンを訪れて、今の自分が当たり前だと思っている小さな幸せに気づいて」って伝えたい。


【発展途上国の洗礼】

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フィリピンで学校を立ち上げる

さて、フィリピンの魅力を先にお伝えしましたが、もちろん発展途上国ならではの課題やら障壁にもたっくさんぶち当たってきました。

セブへ母子移住してまもなく語学学校に現地就職。金なし・コネなし・ブランク8年の専業主婦が2人の子連れで住み込みの仕事を始め、移住2年目には新しい学校を設立。異国の地でがむしゃらに働いたなかで浴びた洗礼は数知れず。

『非日常』の気分でセブを思いっきり楽しめたのは、生徒という名の”お客様”として滞在した始めの2ヶ月、親子留学の間だけだったかも。

留学生として学校スタッフのサポートのもとで海外生活するのと、誰の助けもなく海外移住するのとでは、精神的にも物理的にも大変さがまったく違います。

ワンオペ育児でも夫の稼ぎで食べるものに困らない生活と、シングルマザーとして子育てしながら自分1人で食費も家賃も稼がないと生きていくことが出来ない生活とでは、大きな差があるのと同じように。

2012年当時は、フィリピンのインフラは今よりはるかに悪かったし、停電・断水なんてしょっちゅうでした。今では当たり前の配車サービスアプリGRABもない。タクシーで悪どいぼったくりに遭うたびに交渉スキルが鍛えられる日々。

シャンプーしている途中に、頭が泡だらけの状態でいきなり断水…とか何度も経験したし、お陰さまでペットボトルの水でちょろちょろ頭を洗うというワザを身につけました。

自宅の水道管が破裂して水浸しのどうしようもない状態で業者に電話したら「来月修理に行くね〜」と言われて本気で嫌気がさしたこともあります。

その上、フィリピン法人を設立して新しい学校を立ち上げ、校長として働いている間はとにかく毎日が必死。24時間365日体制で、留学中の生徒さんのサポートや100人以上の従業員のマネジメント、取引先のエージェントや現地インフラ会社の対応。

そう、フィリピンで立ち上げた学校では、停電とゴキブリとクレームの嵐が待っていました。

40℃の熱があっても休まずに仕事をしたし、ヒアリに瞼(まぶた)を噛まれてお岩さんのように腫れ上がった左目を眼帯で隠して出勤したし、アメーバ赤痢で胃腸がモゲそうなくらい痛かった時も生徒さんの前ではニッコリ笑顔。笑いながら絶え間ない脂汗をかいたよね。

冗談でも大げさでもなく、毎日のように日本では考えられないような問題が起きては全力で対応をする。その繰り返し。とにかく目の前のことでいっぱいいっぱい。

がむしゃら過ぎて、1週間、1ヶ月がものすごく濃ゆくて、早いようで長くて、フィリピンでの4年間は日本の10年くらいの濃密さに感じます。

それでも、日本では孤独な子育て環境で育児ノイローゼになりかけ自分の価値がわからなくなってたわたしにとって、フィリピンでの子育ては最高に魅力的でした。

家族のようなベビーシッターさんに家事育児をフルサポートしてもらえて、子供の前で心からの笑顔でいられて、仕事で高い評価を得られて、たくさんの人から感謝と称賛の言葉をもらえたセブでは、思いっきり自己肯定感を高めることができました。

それが本当に大きかった!わたしの子育ての、いや、人生のターニングポイントになったと言えます。

子どもの教育において「自己肯定感が大事」ってよく言うけど、それってまずは親が自己肯定感ないとどうにもならないと思うんです。

ママが自分自身を肯定してニコニコと誇らしげにしていると、子どもってなんだかニコニコと幸せそうなんですもん。

だから、子どもを笑顔にしたいなら、まずはママが笑顔になれる環境づくりがとても大事だと感じています。

※わたしの波乱万丈な挑戦ストーリーの詳細を書いた記事はこちら
https://hanasacademia.com/post-5879


【新たな学び】

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小さな幸せに気づく

目の前のことに全力で取り組み続けた結果、7人の先生から始まった学校を100人以上の先生/スタッフを抱える人気校へ成長させることができました。

そんなセブ移住の4年間を通して、わたしの考えは大きく変わります。

シングルマザーとして働きながら子育てをしていく中で、元夫への感謝の気持ちや過去の自分の言動を深く反省をする気持ちが芽生えたのです。

校長として学校運営を担ったことで、果てしなく大きなプレッシャーの元で働く厳しさを学びました。

育児も本当に大変な重労働ですが、責任ある役職で働くということも、また別の大変さと苦しさがあります。

わたしは夫のことを責める一方で、彼の大変さや苦しさを理解しようとしていただろうか。

自分に余裕がないばかりに、「わたしの話を聞いてくれない」「育児に関心を持ってくれない」「わたしや子供が大変な時も家族を優先してくれない」など、夫がしてくれないことばかりに意識が集中していなかっただろうか。

彼がしてくれていたことや一生懸命働いて家族を養ってくれていたことに、きちんと感謝していただろうか。

一度克服したはずのコンプレックスの塊に戻ってしまい、視野が狭くなっていた過去の自分の言動や彼に対する態度を深く反省する気持ちでいっぱいになりました。


【再婚と帰国】

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一度離婚した夫と奇跡の再婚

夫もわたしと同じように、離婚後にものすごく後悔と反省をして、初めて家族の大切さを痛感したそう。

そして、夫はわたしがいなくなってからも、家庭の「妻」の習慣を引き継いでいてくれました。近所のママ友達の家々に定期的にお裾分けやお土産を持っていくという習慣です。

結婚後その土地に引っ越してから築き上げた「妻のご近所付き合い」をそのまま大切にしてくれていたことに驚きました。

わたしと子供たちがいつ日本に戻ってきてもいいように、ご近所さんとのネットワークを保とうとしてくれていたのです。

その事実は後で知ったのですが、驚きと同時に、純粋にとても嬉しかった。

出産後の慌ただしい日常の中では夫の言葉や態度から愛情を感じることはなかったため、夫にとってわたしは女性ではないどころか家族としての愛情さえないのかと諦めていました。

だからこそ、セブに移住した4年目に「子供のためにとかではなく、ハナエが大好きだから再婚したい」と彼が言ってくれた時は、ものすごく感動したことを覚えています。

娘の小学校入学のタイミングである2016年の春、4年間のセブ生活に終止符を打ち、帰国。わたしは、一度離婚した夫と奇跡のような再婚を果たしたのです。


業界初!0歳からのセブ親子留学事業を立ち上げる

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世界にはいろいろな価値観があるということがわかると、様々な視点で物事を見れるようになります。

幼少期から親子留学を通して視野を広げることは、子供の将来的な可能性を広げることにも繋がるのです。

海外経験を通して幅広い価値観を身につけた子供は、「失敗を恐れて挑戦できない」「多数派の空気を読んで遠慮する」というような日本人的思考に捉われず、失敗を恐れず何事にも果敢に挑戦するスピリットも育むことができると信じています。

わたしは、日本の子育てしづい社会を変えていきたい。でも、社会とか国を変えるのは途方もなく時間がかかる。

それならば、いま子育て中で大変な状況のママの負担を軽くして、親子で一緒に素晴らしい感動体験や思いっきり自分磨きができるプログラムを提案したい。

そんな想いから、業界初となる0歳からのセブ親子留学事業を立ち上げ、日比あわせて3,000人以上の留学サポートをしてきました。


【新たな挑戦】

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「母親だから」という理由で諦めなくちゃいけないものなんてない

子供の頃、コンプレックスの塊で英語の成績がビリだったわたしは、今や留学カウンセラーとして世界を飛び回っています。

日本の常識に縛られ、自分の可能性を狭めていたのは自分自身だったということに気づいたんです。

そんな自らの体験や思いを伝えたいと思ってブログをスタートしたのは4年前。『孤育て』中のママの葛藤や日本の育児環境について思うことを包み隠さず発信しようと決めました。

「母親」というだけで万能であることを期待され、子育ての全責任が母親に押し付けられる日本のクソ常識に一石を投じたかったから。

「母親だから」という理由で夢を諦めてしまうママに、そんなことないんだよ!諦めなくていいんだよ!って伝えたかったから。


コロナ禍の今、新たなステージへ

ドバイ

新型コロナで急激に世界が変容し、海外留学はしばらく難しい状態になってしまいました。

親子留学や教育移住に向けて長い時間をかけて準備してきたママたちのプランが急に白紙になり、わたしは「留学」ではお役に立てなくなり、とても苦しかった2020年。

深く深く、自分が生きる意味や自身の生き方と向き合った結果、「親子留学事業」はわたしが本当にやりたいことの "手段" に過ぎなかったことに気づいたんです。

「留学」という手段を通して、子育て中ママの挑戦や夢を応援したかったんだよね。それなら、別の手段で応援すればいいじゃないかって。

そして、コロナ禍の今、41歳で脱サラ。

これまでの経験から学んだ「人生を変える」ライフハックを活かし、ひとりでも多くの『孤育て』中のママを輝かせたい!という思いでハナマルサロンを開設しました。

【ハナマルサロン】
親子で新しい挑戦をして可能性を広げたいママのための、
ママ限定コミュニティ

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実は、このハナマルサロンのロゴは、息子がつくってくれたんです。

ハナマル_コンセプト


ママがやりたいことに思いっきり挑戦する背中を見せていれば、子どもは未来に希望をもって一緒に成長してくれます。

赤ちゃんの頃から人見知りが激しく、障害で仲間はずれにされ、どこへ行ってもわたしの足にしがみついて離れなかった息子は、中学2年で起業。

今や、高校1年生ながら都内で自立して活動する、"高校生クリエイター" になりました。

ハルキ4

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どんな家庭に生まれた子どもだって 可能性は無限大!

ママだってそう。わたしたちは可能性に満ち溢れていることを忘れないで。

結婚や出産、離婚などの人生の岐路に立たされた時、どうかそれだけを理由に自らの夢を諦めないで欲しい。

「母親だから」「母子家庭だから」という理由で諦めなくちゃいけないものなんて、ありません。日本では非難される母親の行動が、他国では賞賛されることもあるほど。世界へ視野を広げると人生の選択肢はぐんと増えます。

世界の男女平等ランキング (The Global Gender Gap Report 2020) では、日本は153カ国中121位となり、過去最低の記録を更新しました。先進国の中でズバ抜けた最低水準です。

女性が活躍する「一億総活躍社会」というスローガンとは裏腹に、いまだに男尊女卑の思想が根強く残っている日本。激しい男女格差があるということは、男性に依存せざるを得ない女性たちを生み出します。

社会問題となっているシングルマザーの貧困率の高さを見れば明らかですね。

DV (家庭内暴力) に長年苦しんでいる女性たちが離婚しない最大の理由も、経済的な問題。妊娠・出産を機に退職せざるを得ない女性も多く、さらに、ひとりで子育てしながらの復職はものすごく難しいから。

さらに、離婚をすると戸籍にバツがつく日本。離婚歴のある人は離婚回数にあわせてバツ1、バツ2といわれ、人生の失敗者のように見下されたりします。

特にシングルマザーへの偏見はいまだ根強く、日本でワンオペ育児をするのってしんどくて息苦しい。

でも、その価値観って本当に正しいですか?

エジソンは、「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ。」と言いました。人生では、挑戦をしないことのみが「失敗」だといえます。

一生を添い遂げたいと思うほど人を好きになったこと

新たな尊い生命をこの世界に誕生させたこと

結婚生活を継続できないほどの問題に直面したこと

その辛い問題から目を背けず真剣に向き合ったこと

自分の人生を生きるという決断をしたこと

あなたの経験はすべて、素晴らしい財産です。

たとえお金や地位、仕事、家を失うことがあっても、「経験」は誰にも奪われない財産だから。そして、その経験こそが自分を成長させてくれます。

人生は一度きり。あなたがやりたいことに思いっきり挑戦してください。

経験豊かな、ハナマルな人生を!

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※ママ限定コミュニティ『ハナマルサロン』の詳細はこちら
https://community.camp-fire.jp/projects/view/311573

15,000字超の長文を最後まで読んでくださり、ありがとうございました🌸



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