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芸術とは錬金術的に飾られるべきものである。


1. はやい話が圧迫感があるという事である。

 あなたは美術館が好きな人か、それともそうではないか。私は嫌いである。息が詰まりそうになるからである。白い壁に囲まれて全くもって風を感じない作品の寝屋のような空間にあって、光源で照らしその寝息でさえも殺しているような気がするからである。それでいて、まるで意味を作品が訴えかけてくるように偽装しているからである。まるで病院ではないか!もっとも、生きているこの世界に対する投げかけという意味ではむしろ手術する側なのだが、問題はあたかも作品自体が自発的にそうした意味を発しようとしているように代弁させられる点にある。意味を伝えるか、伝えないかは<私>と作品との間のものであって、確かにアウラの風は作品から来るのだけれど、<私>の感じるその作品のアウラとは私の中の一回性によって知覚されるのであり、常に風が私に靡くわけではないのである。ところが、そこに飾られる「資格を得た作品」は、風を常に吹かせるものとして展示される。その風は果たして作品の持つ風か、ということを私は問いたいのである。

2. 錬金術は託された夢の帰還モジュール。


 科学と錬金術はいつから分たれたのだろうか。客観的に見れば、その区別などないはずである。なぜならパラケルススは分離・融合の術としての錬金術を考えていたのであり、大学学問的な医学ではなく、実践としての分離・融合の術を主張したからである。つまりこうした区別は、主観的な切り分けによるものである。こうした主観的な切り分けにもかかわらず、科学は錬金術を俗的で主観的であると切り捨てたのである。科学には確かに分離・融合の「術」は残ったが、何を分離するか、何を融合するか、という「術」の主体は錬金術に残っている。金を「練る」という述語的行動性は、まさしくこの裏打ちではないか。科学的認識は認識に対する認識、人々の主体性を論じる際のその人の主体性というものに対する認識を薄めさせる。

3. 生きながらの磔刑者という絶望感。


 構造主義について学んだ時、絶望感を感じた人は私以外にいないだろうか。総合という意味では弁証法と似ているのにもかかわらず、弁証法には感じなかった恐ろしさを私は感じるのである。なぜなら弁証法とは鳥瞰的で客観的に思われるがゆえに、対岸にあるからである。テーゼとアンチテーゼ、ジンテーゼの関係は決して数量的総和的ではないのにも関わらず、図式としてそのように捉えてしまうからこそ、身にもって感じないのである。あるいは自らが客観的にその装置を動かしているように感じるのである。対して構造主義は誰もが対象になるとともに、無意識でさえも並列的に並べられてしまうのである。構造主義の根幹には矢印があるが、それは現象学的な肌感のある眼差しではなく、言語の持つ意味的差異的な並列に伴う権力関係の矢印であった。それは主語的であるにも関わらず肝心の主語の主体性を担保する述語に欠くものであった。どこを動いてもその瞬間その瞬間は、視覚的に透視図法の鍼を通され、どこにも逃げられない感覚を私は感じたのである。

4. どうせなら宗教的ボラレフィリアの内に鑑賞したい。


 ここまで言えば、なんとなく私が美術館を苦手とする理由がわかっていただけるのではないかと勝手に思っている。つまり、本当は何かしらの権力的価値やその契約事から持ち込まれたのにも関わらず、その面を隠して作品の持つ意味的豊かさやアウラとして標榜されるからである。そんなことをされるくらいなら、初めからアメリカンコーヒーで有名なメトロポリタン近くに構える偏屈で日差しの当たらないカフェの壁に立てかけてある絵画であったり、スタッコとシャーレグリーンでできたヨーロッパの田園地帯に古くからありそうな家の中に様々な家具とともにある絵画であったりを見る方が、私にとっては少なくとも何かしらの意味を自発的に見出す(あるいは見出すか見出さないかでさえ、この場合自発的であるように思われる)ことができるように感じられる。もちろん、白い壁にしているのは、その作品の持つ意味をできるだけ正確に伝わらせようとする標準的客観性に基づくものであることは理解している。しかし、構造主義が示したのは科学の限界ではなかっただろうか。脳機能は局在化していてもそれぞれが孤独化しているわけではないし、太陽系の星々も太陽との距離感において、各惑星それぞれの持つ物質も局在化する。銀河系自体も理論は不明だが、内側と外側で同速になるように動いている。空間である以上、何かしらの意味の繋がりがあるはずなのである。私はただ、それが白い壁によって並列的に殺されるか、せいぜい「価値」という言葉の押し付けで繋がっているような気がして嫌なのである。また私自身も、この場合の美術鑑賞を、美術そのものに入り込む体験ではなく、まるで宇宙船から遊覧飛行するかの如く、そこに「いた」という過去的経験をしている気さえするのである。.

5. 混沌の表面から生じ、混沌として相互に受け入れるということ。


価値とは分離して取り出されたものにのみ見出されるものなのだろうか。我々は服を選ぶときに、色だけ見て決めるわけではなく素材感も見る。それは融合としての自身の整合性と衣服同士に関わる整合性と、それら二つをまとめた私の現れとしての整合性として服を選ぶからである。さらには、そこには服を着た時の触覚や圧覚、そしてそれを見た際に受けるフォーマル/カジュアルといった印象もある。つまり、分離されたものではない、(そして単なる分離されたものの総和としての融合ではない)融合的総体として私たちはものを見る。普段何気なく見ている場面を何気なく撮ったときに、意外と綺麗に見えたり、あるいは撮る際には見ていなかった部分に目が入ったりするのは、統覚的に私たちがものを捉えているからである。統覚的に捉えていたものが視覚的補助を受けることで、それまで意識が受け取っていなかった「物」と「物」の間の彩度明度をあげて、手触り感を持って再認識するのである。それは「もの」と「もの」との接合部の役割を果たし、一連の時間と状況、つまり「いまーここ」を作り出すのである。(個人的には、黒い壁であれば、アウラに換言されうる生命力的根源性を空間的に持つとも考えている。墓場の持つ精神性(Spirit≒ヌース≠神経)と事物性(Ritual)の融合からもそれはわかるだろう。)

終わりに  エイリアンの哲学


私たちはよく分かり得ないもの、相容れない存在を「他者」という言葉で表す。しかしながらこの言葉はとても科学的である。なぜなら、「他」「者」とは、同格的で並列的であり、「理解しうる」という科学的価値観のもとにあるからである。もちろん、他者という概念自体が消えることはなく無限遠点的にあるのだが、それは「他者」を担っていた枠組みが理解され、新たな「他者」が生まれるということである。またその一方で、我々はよその星から来た異星人を非知的(≠未知)存在「エイリアン」という。しかし、もしエイリアンが8本の手足を持つのだったら、私たちの方がエイリアンではないか。なぜって、彼らは宇宙船から降り立って、自分たちの手で知ろうとするのだから。確かにそれらはただの興味・遊戯のために我々の生活を体験するかもしれない。だけど、もしそうなら今の私たちの方がよっぽどエイリアンじゃない!

写真は以下より引用。
 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=890738

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