人間の中にある自然    マルキ・ド・サド

こんにちは。

僕は人間について、人間の動向について、人間の思考について、人間の未来について、人間の何々について・・・、興味があります。それ故に、多くの書籍を読み漁り、人と会話をしているとも言えます。

哲学、宗教学、心理学、様々な部分から人間の本質へアプローチされていますが、本質とは何か? 人間とは何か? とは永遠の課題だと思います。課題が解決すると、人間が終焉しているとも考えられます。


マルキ・ド・サド Marquis de Sade 

人間についての鋭い洞察力には、言葉が出ません。

三島由紀夫先生はとある講演会で、人間とマルキドサドについて、こう言っておられました。

人間というものは、人間性の中に自然を持っている。我々は大体社会的なルールに従って行動しているんですけれど、もし人間の中の自然、人間の中の野生を解放したならば、何が起こるかわからない。サドはそれを非常によく知っていた。ですから、フランス革命が自由平等をいくら唱えましても、サドは人間理性の裏の側面をよく知っていた。であるから、人間性を完全に解放されれが、どういった社会体制があるのか? 勿論、現社会体制は完全に破壊される。もし、破壊された彼方に何があるのか? と、いうことをサドは予見していた。


先日

悪徳の栄え  河出文庫  を読みました。

女性のジュリエットが主人公です。巷に溢れる文学作品とは、常軌を逸しています。殺人、毒殺、輪姦、強奪、近親相姦、傷害、もうありとあらゆる行為がなんでも出てきます。悪徳こそ美徳とされています。
それだけ聞きますと、一見危ない小説だと危惧されるかも知れませんが、そうではありません。マルキ・ド・サドの綿密に練られた哲学によって、全てが合理的なのです。


ほんの一部抜粋。

「実際、ある行為が真に罪悪的なものであるか否かを判断するためには、その行為がいかに自然を侵害するかということを調べて見なければなるまい。けだし人間は、自然の法則を侵犯するものしか、罪悪として合理的に区分けすることはできないからである。したがってこの罪悪なるものは世界共通であり、地上のすべての人間から毛嫌いされている行為であり、かつまたこの行為に対する嫌悪は、人間の必要を満足させる欲望などと同様、ひろく人間の心の中に刻みこまれている感情でなければならないはずである。ところがそんな類の感情は、実際には一つだってありゃしない。われわれはこの上なく怖ろしく醜怪に思われる罪悪だって、どこかほかの土地へ行けば、立派な行為として崇められているのである。
 だから罪というのはまるで現実的でないものではない。自然はつねに動いてやまず、われわれを恐れるにはあまりに強大なので、これを侵略するようないかなる罪も、またいかなる方法も、実際にはありえないのである。よしんばわれわれが自然を犯すことができると己惚れても、またそのような己惚れを起こさせるのも自然自身なのだから、自然を犯しても一向悪いことはないのだと考えても、どだい諸君が無差別に自然を犯したと信じられるほど、それほども売れるで過激で醜悪な行為は残念ながらどこにもないのだ。・・・


上記のような社会通念を逸した、会話や行動が随所に見られます。
小説で久しぶりに衝撃を受けました。ここまで、人間の醜悪さと書き込んでいいものかと。
世間には、ここまで危険な人物はいないと思います、いや、いないであろうと思っていますが、人間の闇の部分を垣間見た気がします。それも、理詰めの闇です。
ある種の『自然』なのでしょうか。世界には、善と悪があります。善ばかりなら、それこそ桃源郷。善ばかりでないからこそ、私たちは人間なのでしょう。

心して読み始めなければ、危険かも知れません。


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花子出版    倉岡


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