人生の選択(朝の海辺と図書館について)
人生の選択には人それぞれ色々ある。しごく当たり前のことなのだけど、自分以外の人々は自分と違う選択をしてきた人々で。
もし自分と同じ選択をした人がいたら、同じ家を賃貸して、同じタイミングでトイレに行って、同じパートナーを選んで、いろいろ困ったことが起こってしまう。
早朝の海沿いを歩くと、同じ時間に同じ歩くという行為を選択した人たちを見る。だけどまったく全てが同じ選択ではない。
タバコを吸いながらウォーキングする人。健康的なのかどうかはわからないけど、彼女は早起きをして運動に向いた服に身を包み、喫煙しながら早歩きすることを選んだようだ。
おしゃべりしながらウォーキングする三人のおばさん。足と口の筋肉を同時に鍛える運動を選び、社交というエクササイズで目に見えないつながりも強化して、一石三鳥の行動選択なのかもしれない。
そういえば、グループウォークをするおじさんは見たことがない。女性に好まれるアクティビティなのかもしれないし、私が知らないだけで、おじさんグループウォークは別の時間帯に開催されているのかもしれない。
白いシャツにベージュのスラックス姿の背が高い白人男性が海岸に降りるスロープの近くで立っている。おじさんは仁王立ちのようなポーズで海の方を向いて、ビールを飲んでいる。
朝7時前ではあるけど、おじさんは夜勤明けで疲れを癒しているのかもしれないし、昨晩から飲み続けているのかもしれないし、ビールだと私が思っている缶には「0.0%ノンアルコール」と書いているのかもしれない。
歩道のベンチで睡眠をとるホームレスと思われる男性。
砂浜のゴミを拾い、大きなビニール袋に集める黒人男性。
同じ瞬間に同じ場所でもそれぞれの人生がある。
私はというと、歩くことぐらいしないと、人として終わるのではないかと思って歩いている。運動を全くしないし、ジムに行かないし、ヨガもしないし、日が昇る前の人の少ない海岸をサッと歩いて帰るくらいしないと、人間としての機能が退化して、砂山が風に吹かれて消えるように消失しえしまうのではと思って歩く。
私はみんなで一つのことを一緒に作業するのが不得手で、おばさんたちのようなグループウォークとかは難しい。共同作業とか集団行動とかに向いていない人間なのだ。
一緒に何かしなくていいのなら、複数の人間がいる中に身を置くことは私にもできる。例えば、図書館で周囲に人がいる中で個人的に作業をすることはできる。
図書館に同じ時間に集う人たちも、その瞬間その空間は共有しているけど、違う選択をそれぞれおこなっている。同じ時間でも各々の人々の平行した人生がある。
教科書やパソコンを机に広げて隣の友人と小声で話しては笑い合う男子たち。大きなヘッドフォンで頭を挟んで、蛍光マーカーや青いボールペンで熱心に紙に書き込む大学生風の女性。図書館のパソコンでYoutubeを見るおじさん。
本を読んでいる人はいなくて、みんなそれぞれの用事を遂行しているようである。
ところで、行動が共通していると思うのが高齢男性である。図書館にいるおじいさんたちは真剣に新聞を広げて読んでいる。できるだけ丁寧にゆっくりと時間をかけて隅々まで読んでいる(ように見える)。ペンを持ってクロスワードを埋めたり、1ページ1ページ念入りに熟読している。
図書館でおばあさんは滅多に見ない。新聞を読むのもパソコンでYoutubeを見るのも図書館のコンセントで携帯電話を充電しているのもおじいさん。あくまで私が見た範囲の話だけど。
おばあさんは市場に買い出しに行ったり、グループウォークに行ったり、家で掃除をしたり洗濯をしたり昼食の準備をしたり忙しいのかもしれない。ある種のおじいさんは選択するべき行動が見当たらず、時間を持て余しているのかもしれない。
いや、それは私の偏見で、この種のおじいさんたちは、図書館で新聞を熱心に読むことで好奇心を満たし、その数時間はこの上ない幸せで、楽しくて嬉しくて心弾むような状態なのかもしれない。または、自分で決めたルーティンを粛々と遂行し、さまざまなとらわれから自由になる修行中なのかもしれない。
同じようなことをしているように見えても、おじいさんたちのそれぞれの事情はきっと異なるのだろう。
私は新聞を手に取って読むことはないのだけれど、私の相方はカフェで新聞が置かれていると習慣的に読んでいる。
田舎の新聞は全国紙とはおもむきが違う。島はだいたい平和であり、たいしたことは起きない。島の新聞には行方不明になっていた犬パンチョが見つかったとか、地元民に愛されたあの飲食店が来年の2月に閉店するとか、宇宙人にさらわれた経験をきっかけに絵を描き始めたおじいさん画家とか、そんな記事が載っている。
知っても知らなくても自分の人生に影響はない情報に思えるが、おおかたの世の中の情報なんて、自分の人生に影響はないんだろうから、図書館のおじいさんたちに取っては、スマートフォンを開いてソーシャルメディアを受け身で見ることと同じことなのかもしれない。
人々が電車の中やリビングのソファでおこなっていることを図書館の机でやっているというだけなのかもしれない。
だから何なのだと言われると何もないのだけれど、朝の海沿いの歩道と図書館で人々の人生の選択を見て思ったことでした。