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幸せってなんだっけなんだっけ


今を生きる
私は時々この言葉の意味を考える。
お釈迦様は、過去を悔やんだり未来を案じたりすることなく今だけに集中しなさいと説いてくださっているが、どれだけの人が「今」に集中できているのかな......。
私はいくら注意してみても、すぐ「過去」や「未来」に心が向かい、どうも「今」に集中できない。過去を思い出したり、将来のことを案じたりでは、必然的にネガティブな感情が生まれやすくなる。当然パフォーマンスも落ちるし、何より幸せを感じることができない。

 ところで「幸せ」とはなんだろう。いろんな場面でいろんな幸せがあると思う。今回は生きていることそのものの幸せについて考えてみる。

 人はみな生まれた瞬間から「死」に向かっていて、必ず死ぬとわかっていながらその「死」がこわいし、できるだけ考えないようにしている。ところが、お釈迦さまは逆に「生」は苦しみだと説いておられる。生きることが苦しみなら、その反対側にある死は幸せということになるのか? いやいや、そんなことはない、長生きは幸せだという人が圧倒的に多いだろう。
ふと思う。永遠に命があれば幸せなのか? 少しでも長生きすることができたら幸せと言えるのか?

 だいたい、体に悪いことを徹底的に排除し、体に良いとされていることを取り入れるように自分を律して生きていたって、長生きできるという保証はない。病気になるときはなるし、事故にだってあう。
 私の母は昔から心配性で、先のことを考えては1人不安になっていた。歳をとり足腰が弱らないようにと、筋力維持のための体操教室に通い、カルシウムを取らないと骨粗しょう症になると、好きでもない牛乳を頑張って飲んでいた。
 そんな母が事故にあったのは5年前。まさかの自宅だった。寝る前に眠剤を飲んでいたことが関係したかはわからないが、朝方トイレに行こうとして階段から落ちた。父が起きるまで階段下で倒れていたらしい。
 父はすぐに救急車を呼んで母は救急病院に運ばれたが、脊髄損傷と肩甲骨の粉砕骨折という大変な怪我だった。
この日から母が立つことはないし両腕も上がらなくなった。

 元気なおばちゃんになろうと、体操教室に通ったり、カルシウムを摂取したりしていたが、全く予期せぬ事態が起きてしまった。
この事故で思うように動けなくなった母は、何度も死にたいと言い、死にたいのに自分で死ぬこともできないと嘆いていた。
私は何度も「生きているから、孫の成長が見れるし、家族で笑いあえるのだから、失ったものを嘆くよりも、今あるものに目を向けようよ」と励ましたが母の気持ちは変わらない。

「なぜわからない?」

と納得してくれない母に私は少し不満を持っていた。でも、いざ自分が母と同じ状況になった時、そんなふうに思えるのか……と想像し、まったく自信がないことに気づいた。私だって「自分は助けがなければ生きられず、一方で誰のことも助けられない」と自分の価値を見出せなくなりそうだ。自分が生産性だけで人の価値を見てしまっているのではないかとひどく残念に思ったし、そんな風に考えている私の言葉が母に響くはずがなかった。

何もできなくても、生きているだけで価値がある。

「嫌われる勇気」で知られる岸見一郎さんがおっしゃっていた。
アドラー心理学の重要なポイントに「自己受容」というのがあるけれど、何もできなくても、生きているだけで価値があることを、まず自分が知ることというのが自己受容ということなのかもしれない。そしてまず自分がそれを知らなければ、他者に対する目も厳しくなるのだと、私のとても痛いところをついてきた。

 「ありのままの自分を受け入れる」

 「自分の存在に価値があると思う」

よく目にするけれどなんとも判断しにくい。
例えば、自己受容と自己肯定は同じだろうか?
 私の話で考えてみる。私は早起きが苦手で、起きた後もしばらくボーっとしている時間が必要だったりするのだけれど、これを自己肯定すると「早起きできなくて、起きてからも動きが悪い、こんな朝の自分サイコーじゃん!」ということになるのかな?
いやいや、決してそうはならない。「あー。今日も時間を無駄にしてしまった、こんな私ダメダメだ......」となるのがオチだ。
だから自己受容は自己肯定とは違うのだろう。

 いつも手にしているスマホ。だいたいは「ここにスマホがある」と思うだけ。そこには良いとか悪いとかそういう認識はない。これが受容ということだと書かれていた。良い悪いという評価をせず、そのままを受け止めるということ。

「早起きが苦手で起きてからボーっと無駄な時間を使う私」というそのままを「あー、私ってそうなんだな」と受け止めることが自己受容ということなのかな。
 自分のダメな部分を「これも自分」として、こういう私にも存在意義があると感じられるようになっていきたい。
 
 実家へ母の顔を見に行く。近況を話すというなんてことないことが意外と心に安堵をもたらすことに気付いている。そこにいてくれることが、私にはウキウキ……でもない、ルンルン……でもない、なんていうか独特の気持ちよさを与えてくれる。
「今を生きる」とは目の前の人との縁を感じることなのかもしれない。過去の良かったことも悪かったことも全部手放して、どうなるかわからない先のこと、考えれば不安になるような未来も手放して、今を見るということなのかも……

 母に対して「できないことばかり見ず、できることを見ようよ」などと言うのではなく、「生きていてくれることが尊い」と心から言えるようになれたら「幸せ」ってなんなのか、わかるのかもしれないな。

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