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花のシキサイ:最終話【春】漂う桜の後悔[恋愛小説部門応募/連作短編]

最終話:【春】 漂う桜の後悔 


 大きな公園の中にある坂道を登りきると、そこには四百メートルトラックを有したグラウンドが広がっている。
 お正月に父と凧揚げをしたのはだいぶ前のことで、この三年間は父と一言も言葉を交わしていない。

 中学のマラソン大会の日、全学年の生徒はわざわざここまで上ってきて、このグラウンドをスタートとゴールの両方として利用する。
 だから大抵の生徒にとってみれば、ここはあまり良い思い出の場所でないはずだ。私は「嫌」なものに無理してでも参加するなんて、馬鹿のすることだと思っていたし、最悪、登校すらしなくても義務教育はどうにか修了できることも重々承知していた。そんなわけでマラソン大会も「嫌」として、三年間、一度もここを走らなかった。だから最後に走ったのは確か、あの頃の父と一緒にやった凧揚げの時。より高くその凧を上げるために走ったのが最後。
 

 拓けたグラウンドは雨上がりでもないのに少し湿っていて、走り幅跳びの為に作られた砂場では、赤や青のバケツをひっくり返した小さい子供たちが、泥団子をせっせとこさえている。
 そのせいなのか、青空の匂いに交じって立ち込める土の匂いがやたらと鼻について、今がもう三月なんかじゃなくて、まだこの前の梅雨の頃なのではないかと錯覚すると、もうすぐ終わる時間を、都合よく伸ばしたような気になっていた。
 いつものように縁石に隣り合って座った私と彼は、二人とも散歩を一通り終えたイヌのような匂いがしている。すぐに寄りかかってくる彼が私の右肩に乗せる重みは、私にだけ、唯一心を許している証みたいで気に入っていた。私は得意気に彼の髪の毛に指を通し、彼の耳に嵌るファーストピアスと、彼曰く「気に入らない場所」にひらきかけた穴を晒す。

美菜みなも、ピアス開ければ?」
「驚かれちゃうよ」
「いーじゃん。一緒に怒られれば」

 何か深く考えているわけじゃない。それを隠そうともしない彼がニヤッと笑う。輪郭よりもはみ出たその頬を、「もうっ」などと言って可愛くつねることができれば、私はこの先も上手く生きていくことができたのだろう。
 けれども、彼のニヤついた顔に卑猥な妄想をしてしまう私はといえば、無駄に癖のない彼の髪を、指に絡めて遊ぶくらいが精一杯だった。

「くすぐったい」

 そう言って彼は肩を竦ませ、私の感じていた重みが失くなると、イヌみたいになった彼はブルブルと首を振っていた。その時、彼は上手に夕焼けを背負っていて、私はこの光景の全てを忘れてはいけない気がしてる。
 父にも母にも愛されて、他人からみれば「温かい家庭」と表現されるであろう環境で生まれ育った私と、男ばかり三人きりで、今にも崩れそうなアパートに住む「可哀想な家庭」で育った彼とが、もう一度出逢いなおそうと決めた所で、それはもう不可能なのだから。

「高校は?」
「流石に行けるわ。馬鹿にしてんの?」
「いや。別に……都立?」
「しかむり」
「チャリ?」
「もち」

 私は「何も知らない振り」が下手くそだった。だから、もちろん把握済みの彼の進路をこうして訊ねる。でも、さほど私に興味のない彼は、私に同じ問いをかえしてくれない。
 あと二週間でこの街の呪縛から解放される私たちには、そんな風な暗黙のルールが存在していた。

 グラウンドに刺さるスピーカーから爆音の夕焼け小焼けが流れてくると、無意識に辺りを確認してしまう私は守られていて。夕焼けを消化した影をすでに自分のものとしている彼は、もうきっと守られてはいなかった。
 私たちの未来がこの街でしか交わらないことにどちらかが気付いてしまったら、この遊びはいよいよお終いだった。

 伝え聞きの拙い表現しか知らない私たちは、お互いの体温を感じていれば満たされていると感じていた。でも何故か、それらの行為をまだ経験していない同級生たちよりもずっと、「原始的に愛される」ということを知りたがっている。

 この場所で何度も知ったかぶりのキスをして、二人の影迄すっぽりと隠れる大きな樹の裏で体温を交える。もう家族にも友達にも撫でられない場所を慰め合う私たちは、お互いの現在いまの全てを知っていた。

 私をこの世界に留まらせるのに必要なのは、見返りを求めてくる彼からの愛だけで。父から与えられる無償の愛では無理なのだ。彼はともかく、「愛されている」に分類されるはずの私が、どうしてこんなにも満たされないのだろう。その答えは未だにわからない。でも彼は、生き急ぐ私をこの街に繋いでおくための、重力みたいな存在だった。

 終わりが迫れば時間はそれを嘲笑い、季節を勘違いした桜が、ずいぶんと早く満開になった。
 卒業式の後、友達だった人たちとあのグラウンドを目指す。幾度となく二人きりで過ごした場所は、みんなの思い出の場所になってしまった。

 彼はいつもの縁石に座っていて、私とはもう二度と会うことのない人たちが、その周りを囲んでいる。

 春の風が強く吹いた。一度落ちた桜の花弁たちは、地面で起きた小さな竜巻に無理やり持ち上げられていた。

 彼の周りを囲むのは、同じ教室で長いこと一緒に過ごした人たちだったけど、私はその輪には入れない。だから、私はその輪から少し離れた場所で、何も知らない振りをしていた。それなのに、さして私に興味のない彼は縁石に座ったまま、私に向けての視線を送る。そして、輪の中心にいる彼の口元が、声を出すことなく動く。

「バイバイ」

 私と彼以外の誰にも気付かれることのない別れが放たれた。あざとい私はそれを受け取り小首を傾げ、まだ、何も知らない振りをしていた。

 春の夜風が足元から吹き荒ぶ。それを合図に家路についた。

 重力が無くなったこの街にはもう、桜の花弁は舞い落ちることができなくなって、いつまでもフワフワと漂っている。


花のシキサイ:最終話/【春】漂う桜の後悔 
[了]

#創作大賞2023

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