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花のシキサイ:第一話【夏】濃藍─koiai─[恋愛小説部門応募/連作短編]

【あらすじ】
 長年連れ添った夫婦、関係性不明の二人、片恋、期間限定の関係……
 春夏秋冬の景色と共に、それぞれの色彩を孕んだ恋愛短編を連作にまとめました。

夏: ≪濃藍─koiai─≫
 別れ際の会話はよく思い出せないのに、やけに思い出されるのは六十年前の夏の夜のことだった……
秋: ≪空が落ちてくる瞬間≫
 幼なじみ?腐れ縁……恋とか愛とかっていう感じではない。そんな二人の日常と、その日常の中の”少し特別な日”のハナシ。
冬: ≪その熱と後味≫
 年上のろくでもない彼氏と付き合っている彼女は、俺が年下だから恋愛対象として見てくれない。
春: ≪漂う桜の後悔≫
 卒業したら、きっと私たちは二度と交わらない。

第一話:【夏】 濃藍 ─koiai─


 少し外の空気でも吸おうかと、庭へ出て空を見上げた。
 「今日ばかりは」と気を利かせてくれたのだろう。蝉は随分と遠くの方で鳴いている。

 右手には夕焼け雲と太陽の端くれ。左手にはまだ薄い月。それから、黄昏たそがれに滲む星。薄明はくめいにあるべきものが、今日は全て揃っている。

 そんな、夜の入口に立って途方に暮れた。

 足首をブタクサにくすぐられながら改めてそこを見渡すと、やはり人の手が入らなくなった場所というものは、あっという間に廃れてゆくのだと実感する。
 風に煽られて翻るシーツと少し背伸びをした彼女が戯れなくなった途端、あの物干し竿には錆がひろがり、庭の隅から徐々に陣地を増やしてきたようなドクダミは ちょっと引き抜かれなくなった途端、我が物顔で白い花を咲き誇らせている。

 晴れた日の朝、此処には必ず彼女の姿があって、僕はよくそれを二階の書斎から眺めていた。そんな朝は数えきれない程あったはずなのに、どうしてだか僕は、この場所に降りて来ることをしなかった。

 湿気を含んだ今宵こよいを吸い込み吐き出す。

 此処はもうすでに僕の知らない場所になってしまった。そのことに息苦しさを感じた僕は、少しも気分が変わらないままで、彼女の側へと戻ることにした。

 彼女は和室に敷いた布団の上で眠っている。

 その側に腰を下ろし、座布団を枕にして僕も横になった。彼女の寝顔なんて久しく見ていなかった。もしかしたら、こんなに明るい部屋で眠る彼女の姿を、今まで一度も見たことがなかったかもしれない。

「……春湖はるこ

 彼女の名前を口に出したのも、随分と久し振りのことだった。

「いやですよ。みっともない」

 すると、彼女はいつもの調子でそう言った。

 ドライアイスの冷気が畳を伝い、寝転がった僕にも纏わりついてくる。

 一昨日おとついの今ごろに交わした言葉はもう曖昧で、ほとんど忘れかけてしまっているというのに。湿った芝生に寝転がったあの日のことが、思い出されて仕方がなかった。

 それは、今からちょうど六十年前の夏だった。
 柄にもなく綿密な計画を立てた僕は、彼女を祖父の墓参りへと誘った。

 祖父の墓は長野の諏訪にある。僕たちの住んでいる立川からはそれなりの距離があって、わざわざ墓参りの為だけに行くような場所じゃなかった。日帰りでは不安があるからと、諏訪の駅前の旅館をとった。結婚前の男女が一泊することにまだ理解の無い時代だったにもかかわらず、彼女はただ喜んで、僕の提案に応じてくれた。

 列車を乗り継ぎ、やっと祖父の家へと到着すると、早々に敷地の端にある墓場へと向かう。もうすぐお盆の時期だからなのか、それとも誰かが細目に掃除をしていてくれるのだろうか。僕の先祖代々が眠るその墓の周りは雑草も綺麗に刈り取られていて、墓石もほとんど汚れていない。僕にできそうな手入れは粗方済まされている様だったから、僕たちはその墓に、一束の線香と花束を供えて手を合わせるだけという、実に簡素な墓参りをした。そこには親戚の墓もあったから、一応そこにも手を合わせた。
 ものの数分でここまで来た目的を果たしてしまうと、彼女は不安そうに「親戚のお宅へご挨拶に伺わなくてもいいの?」と聞いてきた。祖父の家にはもう誰も住んでいない。近所に住む親戚が時折来て管理をしてくれているようだけど、僕はその親戚とも特に親しいわけではなかった。加えて、僕が最後にここを訪れたのは祖父の13回忌の時だったから、かれこれ、もう10年近く前になる。そんな僕がなんの連絡もなしに突然挨拶をしにきたら、向こうもただ困惑するだけだろう。
 僕が彼女にそう説明すると、彼女は少しだけ納得したようでいて、実のところはまだ不安が拭えていないらしい。彼女は僕の親戚一同の墓それぞれに、もう一度しっかり手を合わせていた。

 彼女をこんなに遠くまで連れてきた目的は別にあった。

 その口実に使った墓参りは、もう終わらしてしまっているけれど、本当の目的までは まだ少し時間がある。いくら時間を持て余しているとはいえ、僕の計画の内訳を彼女に話してしまう気にはなれなかった。だから僕は祖父の家に訪れていた頃の記憶を頼りに、彼女をこの家の裏山へと案内することにした。

 裏山を流れる小さな川は、記憶より少し干上がってしまっていた。それでも砂利の上をトロトロと流れる水は僕が幼かった頃と同じように澄んでいて、その水流は小石にぶつかる度に勢いをなくし、とろみを帯びていく様にみえる。背の高い木々が上空で葉を重なり合わせ、真上から降り注ぐ強い日差しを遮ってくれていた。

「素敵な所ね」

 彼女なら、そんな風に言ってくれると思っていた。

 いつの間にか いそいそと準備を始めている彼女は、履いていたぺたんこの靴を脱ぎ、その中にソックスをしまっている。それからひざ丈のスカートの裾を両手で持ち上げて、つま先立ちでツンツンと砂利の上を歩いてゆくと、今はもう、透き通った水を足の指先で器用にすくいあげている。

 ほんの些細な水際で遊ぶ 彼女がとても愛おしかった。

「滑るのだから、気を付けて」

 彼女から少し離れた場所に立つ僕は、白いブラウスに木漏れ日が落ちて、ゆらゆらと揺れる水玉柄になっているのを眺めながら、そんな風に声を掛けた。

「大丈夫ですよ。これでも用意周到なの」

 墓参りをするだけのつもりで来たはずなのに、何の用意をしてきたというのだろうか。ふと、彼女が脱ぎ捨てた靴の側を見やると、一泊分の荷物にしては大きく膨らんだ 彼女の鞄が目に入る。まさか、こんなこともあろうかと、着替えを余計に持って来ているのか、それとも嵩張かさばるタオルが何枚も入っているのだろうか。

 でもよくよく考えてみると、あまり物を持ち歩かない僕と違って、彼女はいつも予定の割には大きな鞄を持ち歩いているような気がする。そして、やれ口寂しければ小さなお菓子を、少しの擦り傷を見つければ絆創膏を、その中から僕に差し出してくれるのだ。
 だからきっと、自分の着替えが余分に入っているだけではなく、万が一どちらかが濡れてしまう事があった時のためにと、タオルも多めに入っているのだろう。もしかしたらそれ以外にも、僕なんかが予測もつかない事を想定して、僕なんかが予想だにできないような代物しろものが、あの鞄の中には入っているのかもしれなかった。

 今日のための準備をしている彼女が、あの鞄にぎゅうぎゅうと荷物を押し込んでいる様子を想像していると、頰が弛んでいくのを感じる。

「そんなところで見ていないで、ほら、冷たくて気持ちがいいですよ」

 もう彼女はスカートの裾も気にせずに、手足を使って川の水と戯れていた。何の余興も持ち合わせていない僕には、そんな彼女が眩しくて仕方がない。

 目の前で木漏れ日の粒が爆ぜて、彼女の未来を僕の側に置きたいと思った。

 夕暮れが近づいた頃、僕たちは旅館に荷物を預け、そのまま早めの夕食を済ました。そして僕たちはいま紺色に染まりゆく空の下、湿り気のある芝生に寝転んでいる。

 僕は流れ星に願い事をするような人間じゃなかった。でも、彼女はそういう人だったし、そういうことがとてもよく似合う人だった。しし座流星群というらしい。僕はそれを彼女の瞳に映したくなって堪らなくなり、僕には似つかわしくない計画を立てた。

 なんだか全てが上手くいっていた。旅館の裏手にある河川敷に寝転んでいるのは僕たちだけで、東京は今頃、曇り空らしい。
 こちら長野の夜空はというと、僕の拙い記憶と同じ満天の星空を、僕たち二人のために用意して待っていてくれたようだった。

 強すぎる光で白く輝く幾千もの星の瞬きが、いやにはっきり見えていた。その中の一粒が一度強烈に輝くと、一筋の光が緩やかな弧を夜空に描く。
 それに気が付いた彼女が「あっ」と小さい声を漏らした途端、我先にと競うかのように次から次へとその線の数が増えてゆく。

「流星群というから、さぞ沢山の流れ星がみれるのだろうと思ったのに。これじゃ、ただの試し書きみたいだな」

 思わず僕がそう呟くと、彼女が少しだけ「ふふっ」と笑った。

 濃藍こいあいに染まりきった夜空に、白い落書きが増えてゆく。

 気まぐれな場所でふっと光っては落っこちる星を目で追いかけているうちに、なんだか酔いが回ってきた。日本酒を一杯呑んだだけだったのに、どうもおかしい。見上げているはずの夜空へと、身体が浮かび上がってゆくような感覚がしている。

「僕と結婚してくれないか?」

 夢見心地の僕は、彼女の横顔にそう言った。

「はい。こんな私で良ければ喜んで」

 彼女は寸分も迷わずそう答えた。

「いいのかい?そんなにすぐ返事をしてしまって」
「ええ。だって、長野まで連れて来てくれたのも、この景色を私に見せてくれようとしたからでしょう?」
「それは、そうだけれども」
「私のカンが外れていたら恥をかくところでしたから、何も言わずについてきましたけどね、ちょっと、そうじゃないかしら?って思ってましたの。あなた、私がこのしし座流星群のことを知らないとでも思って?」
「……そうか」
「ふふっ、そうですよ。だからね、きっとあなたはお墓参りだなんて言いながら、本当はこの夜空を私がより良く見られるようにって考えてくれて、私のために、この内緒の計画を立ててくれたんじゃないかしら?って……そう思いました。そんなあなたから結婚を申し込んでもらえたっていうのに、断る理由があるかしら?」
「それとこれとは違うだろ?」
「いいえ、同じです」

 彼女はずっと空を眺めたまま、ぴしゃりとそう言い放った。

 最初から彼女は、僕の計画の全てをお見通しだったらしい。
 ああ、もう彼女にはかなわないな。

 寝ころんだまま空を見上げている彼女の横顔は、信じられないほど美しかった。

 僕は、なんて幸せ者なのだろうか。

春湖はるこ

 もう一度彼女の名前を口に出すと、ただそのことに涙があふれる。

 あの星空を見上げた日から、僕は夢の中を彷徨っていただけだったのだろう。

 何度も落ちてくる星に酔っぱらって、なんだかとてもいい夢を見ていた。

 やはり、彼女と二人きりにしてもらって良かった。
 息子夫婦は僕の事を心配して、この家に泊まってくれると言ったのだけど、僕の気持ちを察した娘に、「お父さんはお母さんと二人きりになりたいんだよ」と諭された彼等は帰って行った。
 娘だって母親との最後の夜をここで一緒に過ごしたかっただろうに、僕の喪服やら、明日必要になるであろう諸々をさっさと準備してくれた後、「明日の朝、早めに来るわ」とだけ言って、自分の暮らすアパートへと帰った。

 彼女が息を引き取ってからは、虚しい程に慌ただしいだけだった。僕が右往左往しているうちに彼女は何処どこか別の部屋へ連れていかれて、再びその顔が見れた時には もう綺麗に薄化粧が施されていた。

 一昨日おとついの夜、僕が見舞いから帰ったあと、彼女はひとりで眠りについた。
 そして、そのまま二度と目覚めることをしなかった。

 もう八十四歳だった。特に苦しむ事もなく、眠るように逝ったらしい。年齢を考えればそれは幸せな死に方なのだろう。もう十分生ききった。彼女自身に尋ねたら「もう十分過ぎるくらい生きた」なんて言うかもしれない。

 でも僕は、こんな日が訪れるということを 想像もしていなかった。あと何日かすれば、彼女はこの家に帰ってくるものだと信じていた。僕はもうよわい八十六で、その内の六十二年を彼女と共に過ごしてきた。けれど、まだ十分ではなかった。こんな歳になってもまだこの先の未来があると、その側には当たり前に彼女もいるのだと、そう錯覚してしまっていた。

 まだこんなにも彼女のことが好きだったとは。

 すっかり「おじいさん」と「おばあさん」になった僕たちにとって、この別れ方はごく自然なもので、むしろこちらの方が当たり前であったのに、彼女との別れがどうも信じられない。
 彼女の名前を口に出すだけで、まだいくらでも心が騒ぐ。長い年月を経て染み着いた照れくささと、初恋のように疼く恋情がせめぎ合う。

「いやですよ。みっともない」

 いつもの調子でそう言った彼女の声は、僕の想像でしかなくなってしまった。

 もう目覚めることのない彼女の横顔は、信じられないほど美しかった。

 まだ触れていたいこの肌も、まだ可愛らしい耳朶みみたぶも、光を孕んだあの瞳も、すべて燃えて煙に混じる。そんなことが未だに惜しい。何十年もあったはずなのにまだ足りない。もっとその声が聴きたかった。
 僕もこのまま眠りについて、いっそのこともう目が覚めなければいいのに。彼女の姿を目に焼き付けたままの眠りから二度と目覚めない。そう憧れると、少しだけ心が弾んだ。

 濃藍こいあいはまださめやらぬのに彼女はいない。

 僕からはもう彼女に何も伝えられない。彼女の想いを知ることも叶わなくなった。だから僕は彼女の横で、子供のように泣きじゃくっている。そういえば、彼女の前でこんな風に泣いたことなど、今までにただの一度もなかった。
 彼女が隣で眠っている。こんな夜は数えきれない程あったはずなのに、どうしてだか僕は、これほどまでに溢れる想いを 彼女に伝えないでいた。

 彼女と最後に交わした言葉はどれだろう。もしあれが最期だと知っていたら、僕は彼女に「愛してる」と言えたのだろうか。
 六十年前のあの日の言葉は鮮明に覚えているのに、一昨日の何気ない会話はよく覚えていない。でもひとつ確かなのは、彼女が最後に耳にした僕の声は「愛してる」とも「ありがとう」とも言っていない。今はそんなことが酷く虚しい。
 彼女は最後にいつもの調子で、僕になんと声をかけてくれたのだろう。永遠の別れ際の記憶さえ曖昧で、僕にはよく思い出すことができない。

 このまま後悔に打ちひしがれ、乾涸ひからびることができるのなら、僕はまだいくらでも泣いていられるのに。彼女がいなくなってしまったこの世になんて、もう何の未練もなかった。

 こんな此岸に、取り残されて途方に暮れた。

 朝焼けは濃霧でぼやけ、月の名残りは滲んでいる。初めての朝にあるべきものが、今日はちゃんと揃っていなかった。

「大丈夫ですよ。これでも用意周到なの」

 また、僕が想像しただけの彼女の声がする。

 呆気なく先に逝ってしまったというのに、何の用意をしていたというのだろう。
 この陽が昇りきった頃には、彼女の眠る姿でさえも、僕の想像でしかなくなってしまうというのに……

「おはよう。お父さん、大丈夫?お父さんのことだから、一晩中泣いてたんでしょ?」

 そんな事を言いながら、娘が急に入ってきた。

「随分と……早かったじゃないか」

 いつの間にこの家に来ていたのだろうか。僕は涙でぐちゃぐちゃになった顔を部屋着の袖で慌てて拭い、どうにか体裁を取り繕おうと試みた。

「ほら、やっぱり泣いてた。お父さんはお母さんのことが大好きだもんね?」

 全てを見透かしたような娘はそう言い当てて、少し得意げな顔をしている。

「やっぱりって……」
「なにを今さら。いいじゃない、娘としても誇らしいわ」

 僕が年甲斐もなく一晩中泣いていたとしても、一向に構わないらしい。
 そんな娘は、まだ夜が明けきらない事すら気にしていないといった様子で、てきぱきと家を整え始めていた。

「母さんの所から帰る時、最後にどんな会話をしたのか、よく覚えていないんだよ……」

 新しい線香に火をつけている娘の背中に向かい、思わずそうこぼしてしまった。

「そうね。お母さんだって、それが最後になるだなんて 思いもよらなかったでしょうし」
「それがな、何だかすごく悔しいんだ」
「どうしてよ?お互い最後だなんて知らなかったんだから、きっとたいしたことは話してないと思うわよ?消灯の前に兄さんが迎えに来てくれたんでしょ?じゃあ、おやすみとか、また明日とか、そんなところね、きっと」

 いつもと何ら変わらない口調で、娘がぴしゃりと言い放つ。
 すると曖昧だった記憶の一部が鮮烈に瞬き、彼女の声がもう一度聴こえた。

 彼女には全てお見通しだった。「もしも自分が先に逝ってしまったら」と、彼女はそんな風に先読みをして、きっとその時には、悲しみに打ちひしがれる僕がこんな風に一晩中泣くということも、いっそ彼女の後を追いたいと願ってしまうということにまで想い至り、随分前から、全てちゃんと用意していたのだ。

 その時が来た僕が一人ぼっちにならないように、彼女のことをちゃんと覚えたまま、此方に残っていられるように。

 彼女は「おやすみなさい」と言って眠りについた。そして僕は、夢のような日々から醒める。

 ああ、最期まで彼女にはかなわないな。


花のシキサイ:第一話/【夏】濃藍 ─koiai─ 
[了]

#創作大賞2023#恋愛小説部門


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