【掌編】変わらない夜
「久しぶりじゃん!」
いつも変わらないその笑顔を向けてくれるのは咲だった。
新宿三丁目にある要通から一本裏手に回ったところにある居酒屋「どん底」。雑多な飲み屋街から一つ裏に回っただけでここまで陰鬱な、それこそ店のネーミングも相まって、まるで何かの巣窟のようなその店構えのダイニングバーには2020年を思い返すにはあまりにも人でごった返していた。
創業から70年近くたった今でも人気は衰えることなく、靴底の泥とタバコの煙で黒く変色した店内の床板は、溢れかえる常連客を軋ませながら迎え入れる。
地下へと続く階段を照らす黄色く変色したガラスのランプはそれこそまるでチョウチンアンコウに捕食される瞬間そのもののように思えるほどだった。
僕といえば、その地下の、カウンターの一席に座っていた。案内されるままに座ったチェアも一体何人このか細い脚支えてきたのだろうか。そう思わざるを得ないほどに擦れて丸くなってしまっていた。
咲は僕が入ってからわずか10分ほどしてから到着した。その間にも僕はマルボロを二本も吸ってしまったわけだけれど、それが意味を成すことはついに今夜なかったのはこの後の話。
「いつぶりだろうね。3年ぶり?」
黒いメルトンのコートを脱ぎながら、そう切り出したのは咲のほうからだ。大学を卒業してからというもののお互いに連絡も取り合うことも少なく、いつしか疎遠になってしまっていた。しかし、こうしていつも変わらない笑顔を向けてくれる咲という存在に僕は安心する。
2020年になって新型ウイルスの影響で学校が一斉に休校になった。咲が勤める小学校も例に違わず、翌日からその対応に追われたらしい。もちろん、その情報を知ったというのも職員室にあるテレビからというのだから、対応は目の回る忙しさであったことだろう。
今はそれから少し落ち着いた時期ではあったが、小学生を相手に宿題だとか、連絡網だとか、そういう事務仕事に追われる毎日みたいだ。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
髭を蓄えた大男が、薄暗闇でもわかる笑顔でそう訊ねてきた。髭の隙間から除く白い歯がなんだか印象的だ。
「ビールと…」
「それを2つで!」
咲は僕に被せるようにそう答えた。笑い皺が特徴的な大男は「かしこまりました」と一言置いて、狭そうなカウンターでビールを注ぐ。それらが到着する前に僕らは店のメニューを開いて注文を決めることにした。
ハードカバーが施されたメニューを開くと、創作料理の数々の写真が掲載されていた。その中で咲は一つを指差して、
「私は鴨のローストがいいな」
いつも肉料理から選ぶ咲は変わらなかった。そして僕はいつも通り、それに合うような小皿を選ぶのだった。
「失礼します」
少し緊張気味の声でサーブしてくれたのは小柄な女性だった。見た目は20歳前後のような、大学生のアルバイトなのだろう。緊張して表情は強張っているが、丁寧に「どん底」と書かれたコースターの上にビールを載せてくれた。そして突き出しの豚のレバーパテとビスケット。一通り提供し終わったところを見計らって僕は注文をする。
「鴨のローストと、ピクルスと…」
いくつか注文をして、アルバイトの彼女はそれらをポケットから出したメモ帳に必死に書き込む。注文を聞き終えた後、彼女はそそくさとカウンター裏のキッチンへと消えていった。そして咲は小さく体をすくめながら
「乾杯」
そう言いながら自分のグラスと僕のグラスを軽く当てた。お互いに唇を湿らせて、レバーパテをビスケットに載せて齧る。濃厚な豚の肝臓の香りが、ビスケットの小麦と一緒に鼻を抜けた。僕はそれをかき消すようにマルボロを一本くわえて火をつける。
「まだそのタバコ吸ってるんだ? 変わらないね」
咲はビールのグラスを傾けて喉を潤しながらそうつぶやいた。そうか、僕はこれを3年も吸っているんだな。なんて答えればいいのか分からなくてビールで唇を湿らせた。
3年という年月は今思えば仕事に忙殺されていた。念願の広告代理店に新卒で入社して、学生とは違うその生活ぶりに四苦八苦しながらなんとか生き長らえてきたが、毎日が何かと何かのギャップと矛盾と不条理に揉みくちゃにされつつ、それでも無理矢理自分を納得させて、プライドという虚構を築き上げてきた。
今となってはその積み上げたプライドのせいで自分が一体何者になりたいのか分からなくなっていた。夢を語ることも、将来のなりたい姿も、口を開けばそれこそ広告代理店における”ポジション”という肩書きを求めるようになっていた。
それはもちろん僕としての夢ではなく、”広告代理店に勤める社員”としての夢だった。しかし、僕を含め周りの同期とか部下とかはそれこそそれを盲信していて、ポジションの獲得こそ正義と言わんばかりの連中の波に、僕は安易と飲み込まれるのであった。
そんな事態に気付くまでに時間はかからなかった。しかし、そこから脱却するためには何をしたらいいのかも分からなかった。まるで並々に注がれたコップを運ぶように、少しの油断が全てを台無しにするようで、でも一体何を台無しにするのか。どうして台無しになるのか。追い詰められていた僕は皆目見当もつかなかった。
そんな日を過ごしていたある日、ふと夢を見た。
咲と過ごしていた大学時代だった。
なんてことはなかった。いつものように僕の家に咲が来ていて、一緒に過ごす夢だった。僕はそこで夢を語った気がする。もう思い出せないけれど、多分ミュージシャンになるとかそんなことを言っていた気がする。
チケットはまず最初に咲に渡すよ。そんなことをいうだけで咲は嬉しそうにしてくれたのだった。
そんな夢を見てしまったばかりに、僕は数年ぶりに咲のトークルームを開いてしまうのだった。
咲とは大学の英語のクラスが同じだった。僕が通っていた大学では語学系の講義は他の学部と合同になっており、週に二度ほど開講される。そこでたまたま席が近く仲良くなったのが咲だった。
咲は教育学を専攻していて、中でも小学校教員になりたいようだった。今ではその夢も叶って、神奈川のとある小学校の先生をしている。仕事自体は激務ではあるけれど、自分の夢を叶えられたこと、特に子供たちと過ごす日々はかけがいのないものだと目を輝かせながらそう語るのだ。
その頃から咲は何ら変わることない。目の輝きだとか、笑顔だとか、飲み物を飲んだ後に上唇を舐める癖も、何も変わっていなかった。
今日という夜も何も変わらない。いつもの夜のようだった。
「こちら鴨のローストのピクルスになります」
大男が料理をサーブしてくれた。取分け皿とナイフとフォークが1組ずつ静かに置かれた。厚めに切られた鴨は中心が赤みがかかるミディアムに焼き上げられ、オレンジを煮詰めたソースがかけられていた。ピクルスは色とりどりの野菜がその瑞々しさを黄色い霞んだランプに負けじと輝いていた。
咲は取分け皿に鴨のローストとピクルスをとってくれた。ソースを見栄え良くかけた後、僕の目の前に皿を置くのも、自分から率先して何でもやりたがる世話好きの咲らしさだった。その時、
「そういえばこの間ね、彼氏と入籍したんだ。あ、もう旦那さんか」
自分の鴨とピクルスをよそいながらそう呟くように言った。もう4年も付き合っていたらしい。会社に入社するタイミングで同棲を初めて、ついこの間プロポーズを受けたようだ。
「まさか私が結婚するなんてね。何だか夢みたい」
僕は咲に恋人がいたことを知っていた。そしてそれも長い間付き合っていることも。僕たちの過去は、そういう前提があったことは承知の上だった。
「おめでとう。式には呼んでね」
呼ぶわけがない。
「うん、絶対来てよ」
呼ぶわけがなかった。僕は彼女にとって人生の汚点でしかないはずだ。今になってもいつも通りの夜を過ごせると思っていた男が、一人の人間として扱ってもらえるなんて図々しいことだと思った。
鴨を口に含むと、鴨の肉の旨みと血が染み渡り、それを覆うようにオレンジソースの香りがいっぱいに広がる。ビールを飲んで、口の中にまとわりつくそれらを流し込む。
「何かお持ちしましょうか?」
そう気を利かせてくれたのはあの小柄なアルバイトの女性だった。先ほどとは違い、少し余裕が出てきたのか、笑顔が柔らかくなっていた。見える八重歯が目を引いた。
「じゃあビールを一つと、」
「ボウモアを炭酸割りで」
すっかりと空になってしまったグラスを2つとも下げて、彼女は灰皿も新しいものにしてくれた。
僕はいつもビールを飲んで、咲はいつもボウモアか、何か別のウイスキーのハイボール。
夜はここからもう少し続いた。
いつもの夜と、いつもの新宿だった。
咲はフォークで刺したトマトのピクルスを口に放り込みながら大学の時の思い出話をした。初めて英語の時に会った時、初めて食事に行った時、そして初めて夜を過ごした時。
「もうできなくなっちゃったね」
僕の反応を試すように咲はそう言って笑ったのだった。いつもの夜を期待していたどうしようもない男は笑ってやり過ごす。
「お待たせいたしました」
髭の大男は僕にビール、咲にボウモアのハイボールをサーブしてくれた。カラン、と氷が入った咲のグラスが鳴る。僕もビールを煽ってカラカラになった喉を潤した。
❇︎
「はあ。だいぶ飲んだなあ」
初めて咲が赤くなっているところを見た気がする。普段は僕よりもめっぽう強くて、むしろ介抱してくれるような人なのに。まあ、そういう僕もしこたま飲んでしまったから脳みそが今にも浮いていってしまいそうなのだけれど。
「こけそう、ん。」
そう言って咲は右手を差し出した。僕はそれを左手で握り返す。
3月の夜はまだ寒くて、それよりも咲の手は冷えてしまっていた。
「やっぱりあったかい」
そういって咲は指を絡める。もう慣れてしまったいつもの夜だけれど、こんなにも細かったものかと改めて咲の細い身体が心配になった。
要通りをそのまま北に進むとホテル街がある。もう何度も咲と行った場所だったが、僕の引く手を彼女はパッと離した。
「じゃあ、私帰るね。バイバイ!」
そういって咲は新宿三丁目駅に消えて行った。僕はただ手を振るしかできなかったけれど、今思えばそれが一番の正解だとも思う。
変わらない夜を過ごしていたのは自分だけだった。それでも僕はあの日を追うように、マルボロに火を付けるのだった。
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