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『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』への違和感を考える

三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読ませてもらった。いろいろメモをとりながら一通り読んだのだが、ノートが膨大になったので、ここで一度まとめておきたい。労働と読書の現在を扱っている第七章以降に絞って、書いてみたいと思います。


*    *    *

本書は、「かつては本が読めてたけど働き出して読めなくなった」という人たち向けに書かれたものらしい。「働いていると読めなくなった」わけだから、「かつては」読めていた。しかし、客観的にみて、働き出す前、つまり学生時代に(人文・文芸系の)本を好きで読んでいた人たちというのは、人口的にはかなりボリュームが小さいと見積もることができる。

その一方で、本書では「日本人は本を読まなくなった」とか「自己啓発書が売れる社会になった」など、突然主語が大きくなる。「もともと読めてた人がなんで読めなくなったかの話じゃなかったの!?」と思わずツッコミたくもなります。最終的には、「働きながら本が読める半身社会にしよう」と社会変革まで呼びかけられるわけですが、読んでいて、各所にいくぶんミスリーディングな飛躍というか、ピントのずれが散見されました。この本、ある程度ポップな感じの新書だとは思うんですが、以下、あえて「真顔」で、さらに掘り下げていってみます。


ノイズ再考

著者が読書にこだわるのは、本が、他の媒体と違って、多声的なノイズに満ちているからだという主張があります。176ページで、「読書とはノイズである」と堂々と打ち出している。

たしかに、読書は他者の声に耳を傾ける営みです。その中で、自分が欲しいと思っていなかった情報も入ってくる。それどころか、自分が何を知りたいと思っているのか、その欲望のありかを、読書によって逆に気づかされる。自分が知るべきことを、実は自分はよく知っていない。本を読むことで自分が本当は何を知りたかったのかを事後的に知らされる・・読書にはそういうダイナミズムがあると。

著者は、文芸・人文書と自己啓発書、あるいはインターネットを対比させながら、読書こそが自分の欲望のありかを教えてくれる、良い意味でノイズフルな文化体験であると、こう主張するわけです。

本しかノイズを提供できない、あるいは、ネットやソシャゲ漬けの現代人は、ノイズによって自己を豊かにする機会を不当に奪われているっていうのが本当なら、多少無理してでも本の意義を強調するのはわからなくもない。しかし、そもそもの状況認識として、それは正しいのか?

というのも、本と対比される自己啓発書やインターネットの世界も、実は現代人は、ノイズ含みなものとして体験してるように思えるからです。わかりやすいのはSNSですが、YouTubeであれTikTokであれXであれ、自分がフォローしてるもの以外の投稿がふつうに流れてきますよね。しかもそのタイムラインには謎の中毒性があって、延々と流れてくる関連コンテンツを漫然と見続けてしまう。それは、「欲しい情報だけ最短距離で入手する」みたいな構えの対極にある、まさにノイズ性に満ちた体験でしょう。冗長性の体験といってもいい。

自己啓発書も、最近はなんだかんだサウナとか筋トレとか、一見効率性とは無縁な実践を推していますし、あと睡眠の重要性もみんな言うようになりましたよね。睡眠なんか、仕事(や勉強)をする上ではできれば削りたいノイズとみなす「全身全霊」な風潮もかつては強かったのに、最近は、むしろ生産性を上げるためにこそ「ノイズ」が必要っていう認識が、自己啓発書界隈でも説かれている。

さらに、三宅さんはこの本でほとんど言及してなかったと思いますが、漫画やアニメの存在感は過小評価できないですし、教養コンテンツも、ポッドキャストやオンラインサロンのような形で現代はめちゃくちゃ充実してきてるわけです。

つまり結局のところ、現代は、ノイズや冗長性に浸りながら消費できるコンテンツ、プラットフォームが、山ほどあるわけです。その中で、なぜ書物、それも人文・文芸のような比較的「コア」な書物だけが、ノイズを提供できるコンテンツだと言えてしまうのか。「読書という、偶然性に満ちたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのか」(p.208)と書いていますが、すでに現代人はネットやSNSをノイズフルに「使いこなしている」ように思うんですよね。三宅さんの議論の仕方がむしろ短絡的(ノイズレス)な印象すらある。


読書風景への「ピント」は合っているか?

本の終盤に至って、著者は、仕事への全身全霊のコミットメントを求める日本社会を「トータル・ワーク社会」と言い換えながら、たとえば以下のように言っていますが、

トータル・ワーク社会に生きていること、そしてだからこそ本を読む気力が奪われてしまうことを、私たちはまず自覚すべきではないだろうか。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』p.254

この書きぶりだと、あたかも私たち日本人全員が本を読みたくてたまらないのに、仕事に全力でコミットさせられて消耗する結果、読書から遠ざけられているみたいなニュアンスになってしまうように思います。が、実際はそんなことないですよね。「働いていると本が読めなくなった」人たちというのは、もともと本が好きで趣味・娯楽として読書を楽しんでいた人たちなわけですが、それは人口のボリュームとしては極めて小さい。それを「読書ができない社会」といって、あたかも全員が読書をしたがってるかのような話に一気に昇華させて、社会変革だ!と呼びかけるのはちょっと手際が雑すぎる。

あと、少し思ったんですが、この辺で著者が説いている読書の意義も、「果たしてみんなそんなふうに読書してたんだっけ?」と首を傾げたくなるところがあります。

ノイズを通じて自分の世界を広げ、知的な人間になるために本を読めと三宅さんはおっしゃるわけですが、学生時代に読書を趣味としてた人の中で、そういうストイックな読み方をしてた人は、かなり限定されるというか、その時点でかなりエリートなように思うんですよね。

ガチのエリートなら、忙しくても本を読むものですし、忙しいから読めなくなったんだよという人たちに、こうやってエリート主義的な読書の意義を教えるというのは、この本をむしろ新手の自己啓発書として機能させようとしているのかなと勘繰ってみたくもなります。


麦くんは世の中のリアルを知った

三宅さんは、基本的に「やっぱ本は素晴らしい!」って考えで、読書の楽しみを忙しさによって奪われるのは不当だ、本好きを代表して私が物申す!というノリで読書を擁護しているんですが、

その一方で、本書でもたびたび取り上げられる『花束みたいな恋をした』という映画のあるシーン。

本が大好きだった麦くん(菅田将暉)が虚無の表情でパズドラをやるシーンで、これ、もちろん麦くんに同情的に解釈することもできるんですが、一方で、労働して世界のリアルが分かり出すと、とても以前のようには素朴に本を楽しめない、素直に本は素晴らしい!って言えなくなったんじゃないかとも解釈できると思うんですよね。

僕はどちらかというとこっちの解釈成分強めにあのシーンをしみじみ鑑賞しましたが、「虚無の顔でパズドラ」からは、かつて本を楽しく読んでいた自分、偉そうに社会人の見識の浅さを嘲笑していたかつての自分への「恥ずかしさ」も読み取れると思う。

なんとなくですが、半世紀ほど前、学生運動でマルクス主義を叫んだ若者たちが、いざ就職したら、わりと会社に適応していけたのもこれと似てる文脈かもしれません。不本意ながら適応していったんじゃなく、「なんだ、マルクス主義が言ってたことってけっこう的外れじゃないか」という実感が徐々に形成されていった。生きるというのは「そういうことじゃない」んだと。


現代もすでにそこそこ「半身社会」である

なんだか、反読書論みたいな感じになってしまいましたが、僕自身は読書が好きで、月20冊ぐらいは読みますし、本の「官能的価値」を愛し、それなりに理解しているつもりでおります。しかし、今日は、技術革新のおかげで、知識を得るインターフェースは多様化し日進月歩で進化を続けている。

使えるものはなんでも使っていけばいいと思うんですよね。料理とかYouTubeで学ぶと理解が早いですし、またしょーもない動画をだらだら見続けるのも知らず知らずのうちに「癒し」になってると思う。

一方、社会人も社会人で、忙しい忙しいと言いながら、しだいに抜きどころを覚えて、余暇をうまく作り出していくものでしょう。会社も社員を「搾取」しますが、社員も会社を出し抜く余地はあると。文化への渇望感がある人はその中でギリギリ今日もひっそり本を読んでいるわけです。

また、本書を読んでいると、読書をエリート階級的なものから解放したいという著者の「民主的」意欲も垣間見えるんですが、一方で、読書で得られるような快楽は、現代では本以外でフツーに得られるので、そんな中で「なぜ本が読める社会でなければならないか」の必然性はどこにあるのかとも思うわけです。それどころか、こんな状況でなおも読書を推すのは、読書という知的体験の上質さにベットしてる点で、読書の構造的な階級性やエリート性を結果的に追認し、その延命に加担することになっていないか? 

読書の権威性に対する大衆のうっすらした負い目を梃子にしつつ、同時に「権威や階級性は良くないよね」と大衆に寄り添い、本の素晴らしさや意義を訴えて商売するというのは、見方によってはグロテスクというか、あまり気持ちのいい光景ではないと。

ちょっと意地悪な書き方になりましたが、結局、「読書とはノイズだ」ってことだと、「その程度のことならボクはせいぜいYouTubeやPodcastあたりでいいや」って反応が大半になりそうですし、その結果が今日のスマホ・SNS社会でもあるんじゃないか。

本はインターネットと違ってノイズがある、インターネットでは自分の知りたいことしか検索できない・・そんな謎の仮想的世界線でしか読書を擁護できない、また、そういう雑な切り口でしか人々を読書に誘惑できないということを鑑みると、「こりゃSNSや自己啓発書の方が流行るわ」という観測がいっそう確からしくもなってくるんですよね。僕自身も自戒を込めて、現代世界で本を読むということの困難について、ひたすらマゾヒスティックに考え続けていくほかないのかもしれません。泣ける。

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