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生産性の低さは「問題」か?

日経新聞で「生産性停滞、要因と対策 『豊かさ』への新たな戦略探れ」という記事があった。いろいろと考えさせられるところがあったので、少し書いておきたいと思います。

記事はまず、日本の労働生産性の低さを指摘しています。各国と比べ、特にここ 10 年ぐらいで大きく順位を落としているんですが、この間、政府はアベノミクスに代表される、財政・金融政策頼みの経済運営に終始してきた結果、生産性向上のための構造改革が看過されてしまったのではないかとの問題提起は鋭いです。しかし、だからといって他に有効な手立てがあるわけでもなく、人口減少や既得権益の強さを考慮すると、今後は、GDP に代表される経済的豊かさの概念をアップデートし、カネだけでなく、自然環境や生活の質にも留意した、より包括的な豊かさへ向けて戦略を練っていく必要があるとの結論に至ります。

読みながら、最初は、いつもの「もっと生産性を上げよう!」的な議論かと思ったんですが、だんだんとトーンダウンしてきて、GDP や労働生産性を上げていく方向で頑張るのは実はもう無理で(昭和的)、豊かさの概念を(令和的に)修正することで、より現実的な路線を目指そうと半ば開き直るような格好になっています。

でも、それがなんだかんだ「賢い」というか、合理的な態度なのだと思います。現代の日本に必要なのは、良い意味での開き直りでしょう。

そもそも、生産性の低さとは、ただ単にネガティブな現象にすぎないんでしょうか?


ざっくりした話になりますが、生産性が低いとは、逆にいえば、そのぶん多くの人に仕事が割り当てられているということでもあります。仕事の中身を希釈して、より多くの人に分配しているわけです。仕事とは居場所であり、稼ぎの手段であるだけでなく、社会的尊厳の備給根拠でもある。一見無駄で余計な書類仕事や人間関係上の感情労働も、見方を変えて、「そんなことでもお金をもらえるんだ」と思えれば、むしろありがたい境遇なのかもです。意味のある、生産性のある仕事だけしか社会に存在できないなら、日本のサラリーマンのほとんどは失職の憂き目にあうでしょう。

労働生産性の国際比較(上の記事から引用)

生産性に関する議論では、必ずといっていいほど欧米諸国の動向が参照されます。記事のグラフも、全世界と比べるのではなく、あくまで G7 諸国とのみ比較している。では、その「生産性の高い」欧米諸国ではどうなっているかというと、高い失業率に治安の悪化です。また、体感レベルでも、欧米のサービス業はクオリティがあまり高くないですね。マクドやスタバの店員のやる気のなさには当惑させられます。もちろん、これは日本が異質なのであって、「低賃金なんだからその程度の働き方しかしませんよ」というのは、こっちの方がむしろ世界標準でしょう。

日本は、失業率も低く、治安も良い。街も清潔で、人々の公徳心の水準も高い。コロナ禍も「自粛」だけで乗り切った国民性というのは、良い悪いはともかく、過小評価できる事実じゃないと思うんですよね。外食のサービスのクオリティも指折り。世界標準では「安かろう悪かろう」なのかもしれませんが、日本では、どういうわけか、安い普通のチェーン店の満足度がそこそこ高い。高い、というか、日本ではこれがもはや普通になってしまっているわけですが、それが普通ではないということを、海外に行くと嫌でも痛感させられることになります。 

生産性を欧米並みに上げるということは、ややもすると、これらの日本の美質を捨て去ることかもしれません。普段は当たり前すぎて意識しないけど、それだけに、失われて初めて気づく豊かさ。企業が生産性の低い部門を切り捨てると、労働者の方も、要領を覚えて、給与に見合う仕事しかしなくなる。マクドやスタバも汚くなるでしょう。店員さんもスマイルをくれない。相応のサービスを期待したければ、相応のカネを支払わないといけない。サービスだけじゃない。安全や衛生にも、相応のカネが必要になるでしょう。かくして社会はあからさまな格差社会に突入する。カネを持っているかどうかで、受けられるサービスが決まってくる社会になる。

もちろん、どちらの世界線がいいか、軽々に判定できるものではありません。無駄な仕事に苦しめられることも多いが、そのぶん、安く民主的にいろんな店を快適に利用できる豊かさと、仕事ぶりには相応の評価がきちんとなされるが、有金の多寡で受けられるサービスが決まってくる社会の豊かさと、どちらがいいか、客観的に決める権利はないと。

しかし、生産性の低さにクローズアップするあまり、失われて初めて気づく豊かさを、後から惜しむような無粋さはできれば避けたいものです。「求められてることだけしてたら人間ダメになる」「見えないところでズルしてもお天道様はちゃんと見ている」といった類の日本人の見えざる精神的資産、美徳が、おそらく、労働生産性を上げようという安直な動きに対する、いわば文化体力としての歯止めになっているんじゃないか。

こんなことを書いていると、ふと、以前 NewsPicks で山口周さんが話していた、日本人の生産性の低さに関する辛辣な(そして的確すぎる)分析を思い出しました。

みんな人生を持て余している。 わかりやすく言うと、暇つぶしで仕事をやってる。 仕事が大変というのは嘘で、仕事を早く辞めてまでやりたいものがない。 仕事辞めてまで帰りたい場所がない。 それほど家が素敵じゃないということで・・。

【山口周】独立研究者としての学びから「働く」をRethink

山口さんは、要するに、多くの日本人は、人生を主体的に楽しめる、広い意味での「教養」がないと言っています。教養がないから、家にも居場所を確保できず、他律的に、会社に依存した人生を送るしかないと。

しかし、だからこそ、意識を高めてやりがいのある生産性の高い仕事をしましょうとか、だからこそ、家での時間も楽しめる教養の深い人間になりましょうとか、そういう結論には必ずしも持っていかなくていいと思うんですよね。日本人の生産性の低さを、解決すべき問題として捉えるのではなく、それ自体がすでに一つの答えであると解釈する余地は残されているからです。

無駄に思える仕事や雑務も、みんなに仕事が与えられ、安価に世の中がクリーンで快適な場所であるための「必要経費」かもしれない。生産性が向上してしまえば、質の高いサービスを受けるために高いカネを支払う必要が出てくるでしょう。日本の飲食の強みもなくなる。安かろう悪かろう、高かろう良かろうの明朗会計な世界です。また、生産性が向上し、みんなを包摂できなくなると、疎外感を抱えた人がますます陰謀論と新興宗教に吸い込まれていく。謎の付加価値系ビジネスも増えてしまう(まあ、これについては現に蔓延してもいますが)。


記事は、最後に、GDP がより包括的な豊かさを取り入れた指標へ進化することを期待しつつ、単なる過去への回帰ではない豊かさへの戦略を練るべきだとして、締め括っています。しかし日本は、もしかすると、そこで言われているような豊かさを、「生産性の低さ」でもって、すでに体現しているのかもです。

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