0.1 安全に生きたい

誰だって人は安全に生きたい。

一番の理想は、何も特別考えなくても安全でい続けられること。

でもそんな状態は普通長くは続かない。どころか、一切そんな経験なんてしたことないって思う人も結構いるんじゃないだろうか?

「安全」と一言で言っても、どんな状態を指すか?は様々。物理的・身体的に何ものにも脅かされない、とか、精神的に安定を保っていられるとか。

「安定」というのはキーワードかもしれない。長い人生何が起こるか?なんて予測できるわけないんだけれど、なにがしかのルールであるとか法則性が見出せれば、ある程度の準備はできる。準備ができれば比較的安心だ。

とはいえ、益々変化が急速で多様になって、、、と盛んに吹聴される現代。「安定」なんてあからさまに求めちゃったりしたら、それだけでぶっ叩かれちゃう場合もある。。。「今でしょ!」「変化を厭うような弱者は環境不適合者として滅亡するしかないね!(弱肉強食?)」


人の世の複雑怪奇さは、そこで暮らす人々を「とりあえず生きるしかない」と思わせるには十分だろう。流れにまかせよ。

私はそれで自然なんだろうと思っている。「自然」という言葉はあまり使いたくないんだけれど(そういっちゃうと運命論的、決定論的になってしまうので。。)、70億人からの人々がそれぞれ感じ考え動くことによって様々な連関が生まれ、予想だにしなかった結果がもたらされるのだから、一人一人に対処可能なことなんてそんなにはない、というのが事実と思う。

とはいえ程度や内容は違っても人は一人一人色々と感じ考える。だから希望も抱けば絶望もする。楽観、悲観、どちらか一辺倒なんて人の方が少ないはずだ。私がこのマガジンで集中的に見ていきたいのは、そういった人々が日常的になんとかかんとか「安定」というか「かりそめの平衡状態」をひねり出す技や知識。そうしたものは特に科学全盛の時代になってからというもの「非科学的」「非論理的」「非合理的」といってわりと簡単に片隅に追いやられてしまっている。これはおかしい。だって圧倒的多数の人々が(おそらく立派な業績を積み重ねている科学者だって)日常的に駆使している技や知識。これらが私たちが今見ているような社会を作り出しているはずなのだから。勿論「科学的」「合理的」知識が、かなりなパワーで人々の考え方そのものを変化させている面もあるけど、私が観察するところ、完全に人々の考え方なんかが科学的・論理的思考で書き換えられてしまっているようには見えない。つまり、一体私たちは何を感じ考え、様々得られる情報やアイデアなどを処理しているのか?その技や知識について知る必要があるだろう。

また別の大きなテーマは、お仕事。

私自身も無職になって既に7年以上になるけど、仕事に就いていない、労働していないということよりも、金銭収入が無いということの方に不安を抱く。どうやって生きていこうか?そう。お金がないと生きていけないのよね。。。山村なんかで自給自足に近い生活送っている人々だって、一銭もお金を使わないって人はいないだろう。娯楽や趣味に、ではなく、生きていくために。(水とか、農業するにも種買ったり。。。)

だけれども。ふと考えるのです。最近。

金銭報酬を得るために労働力を提供するという営み。これって今みたいにほぼ全員がデフォルトと考えていていいんだろうか?と。

かなりラディカルな問いかけであることは自覚している。なんせマルクスの頃いやそれ以前からユートピアというアイデアが社会学の(もととなる)文脈の中で論じられていた。それで今があるわけだから。問いかけて論じてみたところで何かが大きく変わるとも思えない。でも気になる。

「資本主義」。この”主義”ってのがあまり好きになれないんだけれども、資本蓄積して投資して雇用を生み出す役割、労働する人、それで色んなもの生産して、引き換えにおカネもらって生計立てて、消費して、、、実体経済(人々の暮らす世の中でいろんな財やサービスが交換という手段でグルグル動きまくるシステム)を成り立たせる役割。つまり高度に分業化された社会運営の仕組み。これは、いろんな個性がある人々がそれなりに生きている中で維持されているのだから、多分根幹の部分は変わらないだろうし、下手にドラスティックには変えない方がいいのかもしれない。

ただ、ちょっと根源的に考えてみたい。

そもそもこの高度な分業の仕組みが必要とされるのは、より沢山の人々が生き易くなってこそだろう。それはお腹が減ったらいくばくかでも食べ物が買える(漁労・狩猟・採集しなきゃなんないんじゃなくて)とかいうレベルのお話として。だから、「そんなに資本主義が嫌なら山でも行って原始生活でもしてな!」なんて言うのはなし。資本主義はもう前提としてある。その上で、さらにより多くの人が、どうすればできるだけ幸せに生きていけるか?

このように、ものすごく個人レベルに偏った視点を持っているんだけれども、大した能力もない個人といったって、自分がどんな環境で生きているのか?ぐらいは考えるし、自分なりに理解するだろう。つまり、精度とか視点の幅広さとかは様々なれど、社会の色々なことについて(政治とか国際情勢とかも)感じ、考え、その上で色々と調整が行われているはず。そういった個人レベルで起こるより抽象的なものと具体的なものとの関連付け。イマジネーション。これがあるから社会が今私たちが見ているような姿になっていると想定する。

以上のフォーカス、想定に基づくと、このマガジンで検討すべきなのは、個人個人が資本主義ってもんを一体どのように日々理解し、振る舞い方を決めているのだろうか?ということ。まだ漠然としているな。。。

さらに詰めるために。。。格差拡大の問題を視野に入れてみる。

そう。現時点で言えるのは、知らぬこととはいいながら、格差が拡大する方向で多くの人々が振る舞っているということ。お仕事というのは資本家もしくは国家が創り出す。特に後者は前者のお仕事にありつけない人々のため、という意義が大きい。ただ国家は原則事業主ではないので、直接雇用を創り出すというよりも、最近では失業率などの数字を挙げて、企業などに雇用を促す、或は、労働需要が高まるよう優遇税制などの措置をとって業績向上を助けるなどする。また、お金がないと生きていけないので、各種金銭給付制度なども設けている。年金や健康保険の制度なども含まれるけれど、いわゆる福祉国家というやつだ。現状そうした福祉政策が格差是正に効果を上げていないともいえるし、いやいやそもそも企業が稼いでる割りに絞り過ぎでしょ?雇い入れとか賃金。。。という印象もある。いずれにしても、かなり多くの人々が、こと生きていくための金銭収入を得るためのお仕事に就けるか就けないか?という課題において、相当自分たちのコントロールの効かない立場に置かれているというのが実態だろう。

私が個人レベルのお話から格差の問題も考えてみたいと思うのは、どうしても企業であるとか国家であるとか、個人よりも明らかにパワフルな装置。これらが描く絵に個人個人のイマジネーションは支配されがちと感じるから。ひどい場合には悪名高き陰謀論に陥ってしまう。陰謀論だけではなくて、かなり乱暴にシンプル化された対立軸(若年vs.老年、正規vs.非正規、左翼vs.右翼などなど)がこれでもか!ってぐらい溢れていて、人々のイマジネーションはそういうものどもに抗し難い。「抗し難い」からといって、放置しておれば、永遠に格差拡大の傾向は収まらないだろうし、何よりも、無慈悲な形(戦争、虐殺、暴力)でそれぞれ一度きりの人生を惨めなまま終わらせなければならない人の数が増えていくのではないか?と恐れている。

少し絞られてきたかな?

イマジネーション。知識。パワー。

金銭報酬をいただくようなお仕事なんて一切しない!認めない!というわけではないけれど、少なくとも、「はい。あなたの労働からして賃金は○○万円ね。」とか、「うーん。その情報や知識(を生み出すお仕事)なら△△万円ね。」みたいな、労働力であるとか知識や情報、、、そういった抽象的なものに無批判的にお金の値段を付けることをヤメにしたい。

そもそもお金ってもんには超強力なパワーが既定のものとして乗っかているから。放っておいてもありとあらゆるものを金銭価格で表して、交換を促すことができる。繰り返し強調するけど、パワーが乗っかっているから(国家による信用保証)。もう今となっては「お金なんてなくたって、、、」とは中々言い切れない(かなりコンテクストを限定すればそんなセリフが有効な場合もあるけれど。。。)。つまり、私たちのイマジネーションはお金にはほぼ抵抗できない(お金がないと生きていけない)。ならば、せめて貨幣価値に変換しなきゃなんないものを限定する、という感じでしかイマジネーションなんて広げられないんじゃないか?格差を是正するような方向では。

とはいえ、私が注目したいイマジネーション。しかも「価値」の「交換」に関するイマジネーション。これは「貨幣価値による交換」からは入らず、コトバから入っていきたいと考えている。一つみんなで考えたいことは「コトバって私たち一人一人を交換可能ならしめる行動ではないのか?」ということ。言い換えるならば、「何でもかんでも貨幣価値に変換して、交換を促進する。そうでもしなきゃ生きていけない」というイマジネーション。これが、格差拡大に大きく貢献しているのではないか?と疑っているんだけれども、それって避けられないんではないか?だって、ほぼ無意識に自分で自分のこと交換可能にしてしまうんだもの。ただコトバを使うだけで。いや。ただそこにいるだけで。いや。そこに安心していたいってだけのために。


世の中には言語学とか記号学という学問があって、私たちが言葉や記号の意味を媒介にして考えていることや感じていることなどをやりとりできるようになる仕組みなどを解き明かそうとしている。そういう試みは引き続き継続されていくだろうけれど、言葉や記号というのは、特に日々の生活においては、論理的に整合的なルールに従って体系的に機能するのではなく、複数人が交流していく中でカタチが整っていったり、時々意図的に崩されたり、、、を繰り返すようなものなのではないのか?であるならば、既に整ってしまったルールのようなものが解き明かされたとして、そうしたルールが一方的に人々の行動を制御する(文法通りにしか言葉が使えない)、ということはありえない。したがって、言葉や記号を媒介にしてなされる意味のやりとりというのは、言葉や記号そのものだけを見ていてもその真相(一体何が起きているか?)は永遠に分からないのではないか?

私たちは日常言葉を使って他者とコミュニケーションをとっていて、そのためには両者間である程度共通した意味(語義)というものがシェアされていなければならないけれども、コミュニケーションによる意味のやりとりというのは、言葉やその他の記号が表すとされる意味がAからB、BからAへと伝送されるのではなく、それらが特定のカタチをもって発せられる(記述される)というイベント(行為)が、受ける側(読む側)の類推を引き起こし、引き起こされた類推によって意味が一旦受け手の側(読む側)で決定され、その決定された意味に基づいて、立場を替えて発言(記述)がなされ、、、という発言(記述)、類推・意味読み込み、という行為の交互繰り返し、と理解する必要があるのではないか?であるからして、私たちにとって重要な意味というものに最終的に決定的な意味などというものはなく、例えば、通じているかどうか?という確信や不安は個々の内心にのみあるということ。

ここで言葉による「価値」の「交換」の見方がどうやら見えてくる。

コミュニケーションを行っている人同士であれば、お互いに言葉のやり取りをしているぐらいの認識はあるはずなのだけれど、意味については通じ合っているかどうか?なんて分からなくて、お互いに「多分通じているだろう(又は、あれ?通じてないんとちがう??)」というぐらいの仮定的なレベルで落ち着いている(確定的ではない)はず。ということは、そもそもコミュニケーションするために言葉を発することの意味(価値)とは、言葉というおそらく共通に認識ぐらいはされうる媒体を使うことで、双方の一部或は全部を交換可能な状態にして相互に(交互に)呈する(晒す)ことと理解できないか?

勿論お互いに何か伝えたいことがあるから言葉や記号などを使おうとする。でも、その伝えたいことが本当に伝わるのかどうか?は発話してしまえばもうコントロールは不能だ。コントロールしたければさらに発話を重ねるしかないが、相手の寛容さを頼みに、延々発話し続けられたとしても、結局どういう意味でとられるか?は相手次第。実際、言葉という割りと広く共有可能なメディアで発話するということは、目的のコミュニケーションが首尾よく終了したとしても、その後全く別の他者によって別の意味に取られる可能性もある。別の意味でとられるということは、つまり、多くの場合、元々の話者の意図した意味とは無関係に、その読み手の意図に従って意味は改変(解釈)されうる。元々の話者とそうした事後のマニピュレーターは直接コミュニケーションはしていないのだから、余程の信頼関係や共通の利害関係などがない限り、オリジナル話者の意味したかったことをあたかもなかったかのように扱うことに対する道義的なブレーキも効きにくい。

それでも私たちは日常的に言葉を使う。必らずしも必要不可欠と思われない場面、用途でも使う。メールにSMSに、ブログにそのコメントに、、、。何故だろう?私の仮説は「交換可能な状態にしておかないといざというときにさっと有効な対応がとりにくくなるので、たとえほとんど実効的な意味(具体的な用事を伝えるなど)がなかったとしても、ほぼ自然に(「天気いーですねー」みたいな)言葉を発するようになっている」というもの。要するに、ほぼ無意識に、でも身の安全のためにとられる行動なのではないか?と。

そのように仮定してみることで分かってくることとは?

語義や語法に忠実であること、丁寧にこれらに沿って読むということは、基本的には”分断”、”境界線の明確化”。そうすることでやっとこ他者から「何か意味ありそうやな?」ぐらいの注意が引ける。他者にもそれなりに(発話者の真意なんてわからなくても)理解はできるから。(交換可能化)

そもそもの「交換可能な状態にしておく」というほぼ本能的(反射的)戦略からすれば、発話や様々な記述(数式による記述、写真や絵なども含む)は、他者とのつながりを緩く保っておこうとしている

この、他者とのつながりを緩く(なるべく柔軟に動けるように)保つ、という中々微妙な要望。この微妙さのために、語義・語法に忠実に!が却って誤解やコンフリクトを生んでしまう傾向に否応なく私たちを陥らせる。(「字面上そう言ってるやん!他にどー読めるのよ?」「あのさー。文脈読んでよ。字面だけじゃなくてー。。。」)

「様々な価値が等価交換されうる」という仮定には、恐ろしいほどのパワーが作用している。(だって相互に意味が通じているかどうかは誰も分からないのに、「ほら。一緒じゃん。」とか「おらおらー。グダグダ言ってねーで一緒ってことにしとけやー。先進めへんやんけー。」とか言っているようなもんなんだもん。等価交換なんて。。。)

「緩いつながり」というのは強くても弱くても誰もが求めるもの。言い換えるなら「人として生きていることそのもの」

ではあるけれども、どうしても強い方が自在に「緩さ」を調節しやすい。コトバはかなり広く共有されるメディアでもあるから。或は、自分の都合のよいように時には「緩くしとこ」とか「締めちゃお」とかできるかどうかがパワー。より具体的には、語義の解釈を通じて「ああ。そこんとこはまだ未決ってことで。」「ちゃうちゃう。何言ってんの?そこんとこの解釈はもう決着済みでしょ!?」みたいな感じ。

つまり、勉強はしなきゃならない。。。

が。

大前提として、私たちは生まれつき持たされているものが違う。つまり、パワーはいつでも不均衡だということ。

コトバのあるなしに関わらず、リーダーは出てくるし、それ以外の人々はリーダーに(理想的には「積極的に」なんだけども)とりあえず従う。そこはもう「なんで??」ってきいても仕方がない。(勿論疑問に思い続けることは大事で、それこそが現代のような複雑な社会を築いてしまった人間にとって必要なことなのだけど。。。)

そうなんです。パワーなんです。世の中。

コトバのパワーはしかし、既に述べた通り、様々なチャンスを多様な人々に提供するチャンスがある。だって何事も解釈次第なんだし。原始人はどうだったか?正確には分からないけれど、きっと昔々に遡るほど腕力・武力の影響は大きかっただろう。(今もか。。。)

いやいや。やはりゆっくりとでも知恵は蓄積されているはずで、実際大昔では知る由もなかった人々の暮らしぶりなんかも想像ぐらいはできるようになってきている。それがために、強大なパワーを持っている者たちだって、恣意的な武力行使なんてのは大昔よりは困難になってきているはずなんだ。


話が大きくなってしまった。個人のレベルに戻ろう。とりあえず現金入手できなかったら生きにくい世の中はすぐには変わらないんだし。。。その中でどうやってより生き易くなれるか?

まあ手っ取り早いのは現に稼げる人が余分なもの(稼げる機会や装置を含む)を差し出すようになること。

さあどうする?

コトバとか知識に宿るパワーの問題について考えたところでどうなる?

なるんですよ。それが。

てか。考えなきゃ多分変わらない。持ってて生きてける人だけが生きて、ただそれだけなのに「自分らは正しかった」とか信じ込んで死んでいけて、持ってない人はさようならー。って歴史。

知識も含め今現に持っている人に語りかけます。

このマガジンを読んでいる方々。あなた方は今現に持っている側の人です。安心して生きていくためには多分何も十分に持っているなんて思えていないでしょう。ならその求めている安心がどれだけ過剰で、だからどれぐらい持っていない人々に分け与えられるかが理解できればいいでしょう?

お金やモノじゃないんです。安心です。分け与えるのは。

安心を分け与えるためには、まず、字面通り読め!だの文脈読め!だの言って読み方を決めてはいけません。そうすることはつまり、正義は自分にあり、と主張すること。事実そうであっても、いや、そうであるからこそほぼ同等かそれ以上の正義が相手にもあると弁えること。

え?面倒くさい??でも。。。安心したくありません???ではこう言ってみましょう。「分け与える」というよりむしろ「”自他の境界を敢えて曖昧にする”という方法で他者と関わり合う」と。いつまでも、どこまでも、「これが自分」「ここまでが自分の領域」「ここまでが自分の手柄」「ここまでが自分の責任」、、、etc.ということにばかり注意が向いていては、誰も安心なんてできない。そういうことを首尾よく定義できるような人は、それらが実際多くの人々も「はっきりくっきり見えていたいなー」と憧れるようなものだろうか?というのを考えてみるといい。何故なら、しっかりと定義されたものは、もはやアナタだけのものにとどまらず、全くそんな大それたことは考えていなくても、相当多数の人々にも当て嵌められてしまうものなのだから。

字面の論理整合性や証拠の確かさを”自分で”確認して、確認できたから安心できる、という方法では、実はどんどんと社会全体としての不安を煽るばかりです。何故なら、論理整合性なんてほぼ唯一だし、確かな証拠なんて誰もが平等にアクセスできるものではないから。要するにみんなが持てるようなもんではないんです。そんなの言われなくてもみんな勘で分かるから、何しているか?っていうと、虎の威を借る。つまり、論理整合性だとか証拠の確かさなんて、「それこそが大事!」と煽れば煽るほど、各々で確認なんてしなくなる。そんなことしている暇もないし、残念ながら知的な能力も違えば、性格も人によって違うから。強そうなやつをめっけて「そうそうそれそれ。それ俺も思ってた!」とか言ってそいつの仲間の振りをする。そういう愚かしい修羅場を横目に「俺ら勝ち組♪」ってほくそ笑む輩もいる。

そんなだから、結局不安は解消しないし、もし後付けででも「ふむ。やっぱり正しかった。」とかいって論理整合性などを確認したとしたって、結局のところ先行者の後追いしかできない。先行者の後追いというのはパワーの集中と強化につながる。つまり”集中”に乗っかれない人々はずぅーっと日陰で暮らす。さらに、パワーの集中と強化というのは、どんどんどんどん落伍者を増やしていくしかない。実際そんなには極端な状況にならないのは、集中と強化によるパワーは別に単一なわけではなく、様々な経路があるから。武力・腕力、お金に知識や文化的社会的資本、、、。但し、パワーが不均衡であることに変わりはない。新しい経路がどんどん出てこないなら、沢山あるはずのパワーの経路もどんどんと強いもののところに集中する。それが今。

ならば、パワーの経路を多様化し続けられる仕組みを知れば、完全に平等で何ものも排除されない世の中なんて無理にしても、パワーの一極集中は和らげられるのではないか?

そこで私の仮説。

交換可能にして緩いつながりを維持する

安心とは、基本的に、自分が人間であるということをあまり感じない方が高い。

交換可能なモノにする以上”質より量”には対抗できない(もともと沢山持っている人たちが勝つ。知的活動であれば、より迅速により多くの抽象化パターンを繰り出せる者が勝つ)。

人間であることのクォリティを追求するのか?または、安心を求めてパワーを頼みにモノとして生きていこう!と、自らのみならず他者にも賛同を求めるのか?

安心したいなら断然後者。

でも交渉は必要。何故なら、モノとして生きよう!と声をかけるのは強い方だから。自分だけ「モノです」って言ってもバカなだけだからそんなことは言うわけないし、賛同者を募るんだけど、そういう行為って実は言い出しっぺだけがヒトであろうとしている(人間であることのクォリティを追求できる)。パワー。要するにパワーの行使は生きていれば不可避。だからこそその行使に当たっては道義的な正しさについて熟考を求められるということ。

パワーの経路を多様化し続けるためには、交渉のやり方を学ぶ必要がある。

押し付けるのではなく、他者の真理を拾い、そうすることによって他者の積極的関与を引き出す。

「押し付け」というのは、他者の行為を理解しようとする場面で否応なく現れる。「交換可能である」というのは、言い換えれば、「抽象化できる(まるっとまるめ(られ)て『ほら。一緒♪』と言える/言われる)」ということ。

理解してあげているのではなく、まずは他者の姿(コトバ)を抽象化して自分なりの理解を構築する。「他者のことを理解してあげた」と少なくとも思えるためには、自分なりに構築した理解を、「自分の一部として」相手に晒さなければならない。「いかようにも理解していただいて構いません。何故ならあなたの御本意はあなただけにしか分からないのですから。」

難しいね。

でも、ちょっとフォーカスを絞ることで簡単になるかもしれない。

まず、「交換可能化」はみんながほぼ無意識的にやる。ということは、私たちが日常触れるコトバ、それが理解できる、ということは、誰もが「抽象化のパワー」は行使できているということ。このパワーの行使がマテリアルな効果を及ぼしたり及ぼさなかったりするのは、「抽象化の度合いの差」。つまり、一番強力なのは数値。よって、「数値で示せ」と要求したりするのは自分で自分の首を絞めるようなもの。なぜなら、「私を数値で表してもらっていいです」と言っているし、加えて「私は数値で示せるほど抽象的には世の中のことが見えていません」と言っているに等しいから。「数値で示せている、見えている」人は、粛々とパワーを行使するのみ。圧倒的多数の凡人たちがやるべきことは、抽象度のチェック。数値を盾に迫ってくるものに対しては「かなり大まかに丸められているな」と注意し、できればそれを受け入れるのか?(レジスタンスはほぼ不可能)を検討すること。あと、「可視化」の教条(エヴィデンス・ベースト)を掲げてくるものに対しては、「ふーん。この人たちには私たちのことが今の状態では”見えていない”んだー。でも、”丸められるようには見たい”のね。」と理解すること。「抽象化のパワー」は粛々と行使される。そう。行使する者たちには既に「そのように(抽象化されて)」見えているのだ。


他人に何かを教えられるような人。

こういう人々は明らかに強い。何故なら、教えを垂れる対象よりも、物事がまるっと丸めて見えているから。そうでなければ教えるなんてできない。

教えるという行為自体はどちらかというと善。

でも、行使する抽象化のパワーには敏感であるべき。

教えられる人たちが一人一人自発的に学び続けるようになるのが理想だけれど、そもそも抽象化のパワーに関しては、教える人を含め、先人たちを超えることは至難の業だ。つまり、抽象化のパワーに関しては、ほぼエンパワーメントなんて無理ということ。じゃあ教えるという行為によって何がエンパワーされうるのか?

可能性として残されているのは、「教えようとしている事柄」に対する希望や意義深さ。これらについて真摯にコミュニケーションするということ。

私たちが交換できるものはあくまでも媒体であって、意味や価値は実は交換なんてできない。交換できることにしているのは強大なパワー。お金もそう。知識もそう。特に知識にまつわるパワーは無視できなくて、そもそも知識が知識として複数人間で認められるためには、強いも弱いも関係なく、特定の枠組みの中に嵌め込まれる必要がある。つまり、何か特定の技術や知識が教え教えられする状態というのは、それに参画する人々に漏れなく一定の制限がかかっている。しかも、そういった枠組み(制限)というものは、参画者間に全くの平等関係をもたらすのではなく、常に非平衡に作用する。なぜなら、伝え・伝えられしなければならないから。媒体(知識)自体は参画者全員に共通でも、それが意味するところや価値というものは異なる。そもそも教える方は既に知っていて、教えられる方はあまり知らないし。なので、そういった各自まちまちの価値観について、自分自身のものについては常に確認し、他者にも他者なりに当該知識を獲得すべきと信ずる価値があるに違いないと前提する。

そのような価値はやり取りされる媒体自体からはお互いに見えない。よって、コミュニケーションは同じように見えても、参画者達の内心についてはうまく調整が取れているのかどうか判然としない。だからこそ、その見えない価値に注意を払う必要がある。

つまり大きな理想。現実的にはほぼ無理な理想。これは絶対に棄ててしまってはいけない。「とりあえず生きていかないかんから」というのは理想とは対極のもの。人は生まれてきたからには生きざるを得ない。そこんとこの避けがたさを狡猾に利用した騙くらかしだ。

さて、そろそろイントロダクションの締めに向かおう。

ここまで延々書いてきたこと。実践に移すには抽象的でさらに複雑すぎる。(最悪。。。抽象化するならシンプルでなきゃ。。。)

ただ一点。確認しておきたいことは、どんなに複雑であろうとも、自分自身と他者との関わり合いについては、生まれてきてしまった以上、そして、今現に生きている以上、考え続けるしかない、ということ。

日常生活における具体的な振る舞いに少しでも反映させるために、有効と思われる施策について、今後書いていきたいと思っていますが、キーワードを少々並べておきたいと思います。とっかかりとして。

繰り返しと真似と反転(転生)

後追いどうのこうの以前に、私たちは誰もが交換可能な状態にしておこうとする。それには時間の経過がどうしても必要で、繰り返し繰り返し同様の刺激を受け続け、自他に起こる反応を確認しなければならない。

既にかなり高度な抽象概念の操作ができるようになってしまっている読者諸氏におかれては、この繰り返す時間というものが極端に縮められている。もう一瞬で相当多様な事象・現象から似ているもの、そうでないもの、関係ありそうなもの、そうでないものの判別がつく。

それはそれで好ましいことではあるのだけれど、盲点もある。かなり丸めちゃうからね。実際に受け取っている情報。

理想としては、自分なりのクセというか傾向を知ろうとするのがいいんだけれども、まあ善後策というか実践しやすい方法として、他者のコトバについて、そういうもんだ(同じようなこと繰り返しつつも、かなりの抽象化が行われている。とある傾向をもって。)というふうに観察してみる。

そうすることで、観察結果はあなた自身に反映されることになる。真似。

最初っから誰かの本心とか胸に大事にしまっているものについて想像することは難しい。また、場合によってはひどいヴァイオレーションにもなり得る。

でも、外面に現れるものの背後に何らかの傾向を読もうとすることぐらいなら許されるのではないか?間違っても、「読めた!」ってことに安易に優劣や善悪の判断を含めたりしなければ。。。

そう。気持ちとしては、コピーさせていただいております。科学的冷徹なる精神でもって。やや前進すれば、真似(学)ばせていただいております。という感じ。

もしもそのように自覚されるようになったなら、もうその時点でただのコピーなどではない。自らに他者の素振りが取り込まれ、新しい自分が生まれる。

そして、ありがとうございます。


誠実さとウソ

コトバはウソをつく。間違わせる。

誠実さなんてものはワンショットで示せはしない。積み重ね。

自分が何でもいいけどそれに誠実であると言いたいなら、絶対に止めないこと。そう望み続けること。

ハッキリ言ってしまえば、長い人生、嫌になるときもあるし、隙も出る。「これが大事!」ってもんだってコロコロ変わって当然。

別に何でもかんでも全部自分一人で背負い込むことなんてない。いや。むしろそのようなことができると思うのは思い上がりと理解した方がいい。

私たちの人生は常に他者との関わり合いの中で進む。

もしも気付かせてもらったなら、その都度は無理でも、思い出した時に感謝すればいいこと。

ウソ言ったらゴメンナサイ。これも気付いたときに言えばいい。それが誠実さというものだ。


生きさせられているだけなのに真面目にやらなければならない理由(利点?)

もう余計なことは言わなくてもいいだろう。

私たちは一人一人、そこにいるだけで意味がある。

本人がそう思っていなくたって他者はそう見る。善きにせよ悪しきにせよ。

さらに、私たちはみんなもれなく繋がっている。それは同時代の人間同士だけではない。この宇宙に存在するモノ、存在したモノ、これから存在するであろうモノ全てと。

既に言った通りで、人間の感覚なんてものはあまりにも不完全でいい加減だ。だから「全てと繋がっている」なんていったって、そんなの一々納得できるわけがない。

生まれてから死ぬまでの間いろんなことがある。

その中で学んでいけばいい。

できることなら、自他を分離してスッキリしようとするのではなく、より納得できる形で自他を融合させられるように。


延々書いてきたのに漏らしてしまっている重大事項

お仕事について。。。

食べ物の確保。生きていくために必要な物理的なエネルギーの制約・交換。

意味だの価値だのじゃなくて、それどーすんのよ!?

これについても追々書いていきたいと思います。

算数も(最近不人気の?)経済学も必要。

でも、生きている人間を”生かす”ように。。。(だから意味や抽象的な価値とも完全に切り離すことはできない。)

ストーリーは有力なツール。でもきちんと形になった小説などではなくとも、コトバ。ほぼ無意識になされる交換可能化の準備としての、生存戦略としての行為。つまりそれに触れる人が類推を呼び起こされ、その人なりに意味を考えてしまうようなもの。note上にも沢山溢れているそのようなリソース。ヒントにさせていただきたいと考えています。

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