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ルール、規則、倫理

私達は何らかのルールに従って行動しているように見える。いわゆる主権国家の枠内で生活しているので、国家が制定した憲法をはじめとする様々な法律規則に従っているのだろうか?どちらかというとこれは、立法・行政に関わっていない大多数の人々にとっては”結果論”のような気がする。つまり、法律規則の細部についてはほぼ意識することはないが、あたかもそれらに反しないように行動しているように見えるということ。

では、国家や地方公共団体が規定する法律規則なんてなくても、それなりに私たちは調和のとれた世の中を実現できるのではないのか?

これがすっきりはっきり証明できるなら、かなり多くの権力関係にまつわる問題は解決されるだろう。が。それはほぼ無理だ。なぜなら、例えば「憲法の条項を理解していなくても基本的人権は尊重できる」とは言えても、では、憲法であるとか、基本的人権などという言葉が全くない状態ではどうか?と考えると、どうやら私たちは何かを拠り所として、たぶんこっちの方がより良い方であろう、とか、より自然であろう、とかいうものを判断しているように見えるから。

なぜそれだと法律規則がなくても勝手に調和をとれると断言できないかというと、私たちにはこれといって絶対的な基準がない、或は、そんなものが存在したとしても、いちいち感知できるのか?感知したとして善悪、正誤の判断に活用できるのか?はまったくもって心もとないと言わざるをえないから。

法律でなくとも、宗教のような拠り所もなかったとしても、ある程度調和はとれるだろう。シンプルに毎日・毎時・毎分・毎秒、、、ずっと他者を出し抜いたり、叩きのめしたりして生きていくのはしんどいから。いくらそうしなきゃ死ぬよ、となってもね。。。なのである程度の規模のチームは必ずできる。よって少なくともそういったチーム内の調和は出現し、維持されるだろう。では、そういったチームの構成員たちは一体何を拠り所として調和をとろうとするのだろうか?

勘といってしまえばそれまでなのだが、私は、割と真剣に偶然性の高い現象なのではないか?と考える。いえ、これは単にそう考えた方が、適当に因果関係を結論付けるよりも、引き続き考え続けられていいのではないか?というだけで、因果関係が何もない、と断言して満足したいわけではないのです。

勘と言ったって、人間成長するに従って変わるものでしょう?で、あまり拙速に因果関係を求めないなら、「赤ん坊は、産まれた時点いやそれより以前、つまり胎内にいるときから勘は働かせている」ということが分かる。

成長とともに大きく変わっていくのは予測性と予測不可能性のバランス。産まれた時点というのは、圧倒的に分からないことだらけ。ほぼ次に何が起こるか?なんて予測不可能。但し、勘は働かせているわけで、つまりは予測不可能性というか、わけのわからなさを減らす方向で神経は働いているということ。

人間にとって何が自然か?といえば、多分このあたりではないかと。つまり、すでに産まれる前から「なんかしらんけどわけわからん」ものがあることは気づいているということ。で、これが突き詰めれば規則に従うように行動しているように見える要因なのかな?と。

人間以外の動物になったことがないので断言はできないんだけれども、多分人間以外の動物は、「なんかしらん」ようなもんはいちいち心配しない。感知したら対処する、感じではないか?と。勿論何らかの判断はしているので、うまくいったいかないはメモリーされる(脳みそに、ではなくても、生き残りという結果によって種全体として)。だから、成功の方が失敗よりはいい、ぐらいの違いはあるだろう。ただ多分、起こった証拠も何もないのに、勝手に想像して、対策を練るところまではしないだろう。受けた信号をもとに類推していたとしても、類推にまつわる情報量というか、類推の範囲は人間のそれに比べると非常に少ない・狭いものであろう。つまり、「関係ないもの」として捨てられている情報が相当ある。人間も多分そこは変わらないんだけれども、あんまりにも捨てられる情報が増えると、どっかの神経が何かのパターンめいたものを感知する。そういった機構が既に産まれる前から働いているような感じ。要するに、「気づき」の頻度の問題というか、脳みそとかのハードの問題ではなくて、情報の組み合わせ方というかソフトウェアの問題なのかな?と。

ことばなんてものが現にあるのも全部ソフトウェアの問題。但し、ことばのようにシステムとして結構整っているように見えれば、私達の興味は何かの法則性により強く引かれる。で、「ことばの根源は…」というような問いを発したり、’自然言語’なんて概念を想像してみたりする。ちなみに、今はやりのAIとか、様々なコーディングやらアルゴリズムとかは、’自然言語’の概念に強く引っ張られているもので、記号の論理式を様々正確に積み上げられるけれども、全く’自然’ではない。何故なら、これらは、いかにして私たちが記号をそもそも使えるようになっているのか?という’自然’のプロセスについて、全く答えることができないから。電算機でなくとも、手書きで書いたとしたって記号は記号。それはつまり、既に記号化されている私たちの感覚でもって、整合性のある論理式を積み上げられるように作り上げられた記号だ、ということ。

何故既に記号化されている私たちの感覚と、文字や論理式、数字などの記号を区別する必要があるのか?後者は、どこまでいっても、「とある条件の下で」記号として機能するもので、「とある条件」というものを、どこまでもどこまでも、論理的に整合性を保てるように配慮しながらどんどんと「より制限性の少ないように」見直し続けるよう運命づけられているものだから。

私達が産まれる前から持っている「なんかようわからんもんに気づく能力」というのは、別に「記号が整合的であるための条件下で」機能しているわけではない。因果関係が逆で、膨大な量のデータが溜まっていった結果、「ああ。つまりこーゆーこと?」みたいな置き換えが可能になるので、整合的な記号システムが開発されうる。つまり、どんどん溜まっていくデータは、とある物理法則などに従って生成されているであろうけれど、記号の論理や、意味の論理に従っているわけではない(論理学的意味論が説明する’意味‐記号’関係は、確率論的に’有意’である、という条件下で成立しているということ)。

この物理法則にしたがっている部分と、論理学の厳密さとの関係は微妙。何故なら、物理法則を正確に追っていくためには、論理整合的な記号システムが不可欠であるから。簡単に言えば両者は互いに支えあっていると考えられる。従って、特に分析の’科学性’に拘るなら、これらを無視した方法なんてほぼ意味ないとも言えるだろう。が、しかし。既に示唆している通り、これら方法に厳密に従ったとしても、多分多くの人々が興味のある私たち人間の行動や、考え方にまつわる法則性はうまくは説明できない。単純に、多くの人々は論理的には考えないし、実証的方法に従ったりもしないのだから。記号を使えるということは非常に大事なポイントではあるけれども、記号システムがそもそもどのように開発されているのか?を知る必要があるのだ。だって、質的に様々ではあっても、みんな産まれる前から使ってるんだし。

私が規則にまつわる偶然性を重視するのは、別に量子物理とかの影響ではなく、単純に私たちはいろんな人々と接しながら生きているから。つまり、「なんかしらんけどわけわからんもんがある」ということにどうやら気づいているであろうけれども、そのわけわからなさへの対処方法については様々な方法をとるであろう人々と暮らしている。そのような状況では、お互いが目的としていることを共有したり、他者の姿から何を理解するのか?なんて完全にコントロールすることはほぼ無理だろう。で、記号とかことばとかは、個々の仮定やら、理解力やら、好みやらが通じ合ったり合わなかったりして段々と整っていく。整いはするだろうけれど、突拍子もない解釈が善意悪意ないまぜではやったりすたれたりするからたえずダイナミックに変貌しているともいえる。「偶然性を重視する」とは、つまり、自らの為す行動や言動については、いかように解釈されようとも驚かないこと、とも言えます。

これを踏まえ、私たちがとあるルールに従って行動するようになる仕組みを見ていこうとすれば、当たり前すぎるかもしれませんが、二人以上の人間が交流する、という事実を「当たり前」といって過小評価はできない。以前のノートで説明したように、私たちは「おうむ返し的模倣」をする。さらにルール作りのプロセスを分析する上で見逃せないのが、その「おうむ返し的模倣」が特に行為者の明確な意志や目的や動機を伴うとは限らない、という点。言い換えるなら、マネする’つもり’なんて全くないのに、他人からは「マネしている」と理解される。「おうむ返し的模倣」が、、、なんと、「おうむ返し」ではなくて、「マネする意志がある」かのように解釈されてしまうのだ。

現代では「マネ」というのは、あまり肯定的にイメージされない。笑かしてくれる「モノマネ」?とか唸らされるぐらいの完コピ?ぐらいかな?例外は。つまり、模倣、イミテーション、マネ、、というのは、非常に微妙なニュアンスを宿しているということ。その微妙さにこそ、私たちの当たり前に積み重ねている「善悪」「美醜」の判断の素が潜んでいる。ルールの起源

マネは必要に応じてやりたいというかやってしまっているんだけども、多分マネされる方はいつも嬉しいわけではない、ということ。私たちはみんな知っているのです。ルールであるとか、価値観であるとか、道徳観のようなものは、おそらくほぼ例外なく、このようなどうしようもないことにまつわる微妙な感覚(「おうむ返し的模倣」は自由意志では完全に抑えられないし、他人の「おうむ返し的模倣」は意志あるかのように解釈してしまうというジレンマ)から発展する。何が一番微妙って、マネが別にプラスの効果を発揮しなければいいんだけども、グループで行動する私たち人間にとっては、マネはそもそもの根源にあって、かつ、グループ全体にまあまあいい結果を及ぼすこと。

そういったプラスの効果の中で、実は最も忘れられがちなのが、「不安や予測不可能性を減らしてもらえる」というもの。’もらえる’がポイントで、マネする側の時はそもそもマネなんてするつもりない場合が圧倒的に多いわけだから、「マネ」って選択肢があればそりゃ予測不可能性とかはないわ、、、なんてことは実際どうだっていいこと。不安とか予測不可能性を減らして’もらっている’のです。私たちは。誰から?当然自分以外の人々(そして時には人間以外の生き物やモノ)から。お互いの仮定というか勝手な他者の行動についての想定が、行動する側、観察側と入り乱れるのでえらく複雑な話になるので、不安やら予測不可能性が減らして’もらえない’ケースを思い浮かべてみるのが分かりやすい。

シンプルに「もしも周りのみんなが自分のマネをしなかったら???」

繰り返し述べている通り、ここで他者がしない「マネ」とは、「おうむ返し的模倣に当たるもの」なわけだから、他者の行動(あなたのマネをしない)に、その他者の意思はほぼない。つまり、ほぼ別の生き物のような感じになる。コワいねー。でも。そんなときは普通はあまりに違うので、余計な期待はしないで、より期待できる存在のもとへ走ればよい。もっとコワいのは、、、。他者が’わざと’マネをしないようなことがフツーにできているとしたら???あー。モー何もかも信じられなくなりません???ということで、そんなことは起こらない。少なくとも恒常的には。でも。起こりうるのは当然の理屈、かつ、人類の歴史上枚挙にいとまはないだろう。ということは。。。感謝しなきゃね。ってこと。

マネしてくれて??別にマネする時は意志なんてないんでしょ?なんでそんなもんに感謝しなきゃなんないのよ???

だからーーー。そんな存在がただ自分のまわりにいてくれること自体が幸運なのよ。いくらたまにだまくらかされてもね。たまにだからさ。それ以前にマネしてくれる存在がなかったら、私たちって自分の姿かたちも今みたいにははっきりは分からないと思うよ。何で?って。。マネして、マネされてって。。。要するにコミュニケーションだから。それがないってことは、コミュニケーションする相手がない=そもそもグループで行動しているという事実すらない、ってこと。もしもそんなことが起こるなら、人間は物理的パワーとかは劣るし、死ぬしかない。その他グループの前では。(多分そんな状況でも、可能な限りマネはするし、ある程度脳みそが発達した哺乳類なら、マネしてくれると思うけど。多分ね。)

このマガジンの主要テーマである「ことば」からはちょっと離れたように感じられると思いますが、実は全くもって主要テーマを扱っています。本ノート。「ことば」ってただの記号ではないので。どちらかというとアクション。私の好みなのは、「私たちの分身」。うつせみのーー。と。

私たちの生来持たされた想像力というのは深いです。深い、とはいっても、普段日常的に使って、そうしてある程度調和のとれた世界、21世紀現在を「進んだ」と安易に言ってしまっていいのかはちょっと慎重さを求められますが、長生きもできる、衛生的な生活もできるということで「よりよい」世界を作り上げようとしてはいる。「ことば」の持つ意義。そういった「よりよい」世界を望んでいるらしい、私たちの生活や、そもそもこの世に存在するということに持つ意義。より深く知る必要があると信じています。



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