「くるってない」って思いたいのは何のため?

責任感?主に社会とか秩序とかいうようなものに対する?

自分の感覚がくるっていると感じると不安は増すかもしれない。少なくとも感じた瞬間ぐらいは。

それでもごく限定された項目についてだけならそうでもないんじゃ?

つらいのは五月雨式に「くるってる」「あ。またや。」「え?これも?」「あれも?」「それも!」が連発することだろう。

パニくるよね。。。

といってもだ。

冷静に考えると、隙間の時間ぐらいはある。ゼロではない。隙間ゼロってことは延々継ぎ目なくってことだからね。そりゃないでしょ?

てことはだ。

別にいいんじゃん?折々「くるって」ても。

それこそ長い人生ずーっとくるってないでい続けようって方が無理がある。

理屈では絶対そう。

だけど。そうもいかないのが人間の心。世間。

この「そうもいかない」部分ね。

これとの付き合い方じゃないかな?

くるってないって思いたい、言いたい気持ちは分かる。

でもまあさ。「くるってる」は言い過ぎだけど、常時「ズレる」のがデフォルトと思うぐらいで丁度いいんじゃないか?と。

「くるった状態」を定義して、これには当てはまらないからくるってないと。

そう言えることはあるとしても、くるう要素が皆無で、今後も一切現れ出ないという保証はどこにもない。一人一人の人間には。

間違ってもダメな部分を撲滅し切ったとか思っちゃダメよね。いくら安心したいとはいえね。

そういう弱っちい戦略が大手を振って正しいやり方と思われている。

そこだな。

私が何とかしたいと思うのは。

大きなお世話?

多分ね。。。

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