死刑はない方がいいと思った

最近は被害者遺族の苦しみに対する配慮もいわれていて、難しい問題ではあるけれど、相手が罪を犯した人間、しかも最愛の人の命を奪った人間であったとしても、気持ち悪くなるぐらい恨むのは体に悪い。

際限がないから。

「死刑」という極刑があると、楽ではある。

ともかく罪人への刑事罰として、最高のものを目指す。

でも裁判だから。。いくら目指してもダメな場合がある。

そうなるとどうなるか?

おそらく恨みは益々募るだろう。やりきれなさも半端ない。なんでおれの最愛の人はもうここにいないのに、殺したやつは生き続けるのだ?

ってなる人はいなくなる方がいい。それって辛すぎるから。

最愛の人が命を奪われた。

どうする?

勿論答えなんてない。

でも生き残った人が不幸すぎるのはよくない。

恨みつらみというかなりネガティヴなエネルギーの強い感情からはできるだけ早く穏便に解放されてほしいと思う。

裁判は長い。

裁判に入る時点で「死刑はないんだ」って思うのと、死刑の可能性があるのとでは、恨みつらみの矛先が、罪人の方に向かう強さとか時間の長さとかが相当違うと思う。

約束なんてされてなくたって「死刑」があるなら期待もするし目指すだろう。それは誰かに誰かを殺してくれと言い続けること。

辛すぎる。。。


「死刑」は殺人の抑止力にはならないともいわれる。

真偽は結論できないけれど、私の感じるところでは、命のやり取りが制度化されている、という点で、逆に命の重さが軽くなってしまうのではないか?と恐れる。

命を大事に思うなら、国家であるとかそれに類するような組織なんかの手に、それは委ねない(なるべく直接的には)、ことが必要と思う。


人間が人間を殺すという問題はゼロにはならない。

諦めてしまうのではなくて、どうすれば突発的に殺したくなるような状況って少なくすることができるか?考えた方がいいということ。中々イメージしにくいだろうけれど、突発的なことってそこまでテンションがかかっているということ。またそのテンションってかかっている本人だけではどうしようもないことが多い。

そういう気付かれにくいものに普段は注意が向いていないわけだから、突発的な事態に巻き込まれることがあったとして、それは運が悪かったということもあるけれど、巻き込まれるようになるのに責任は皆無だ、というわけでもない。

防げることを全力で防ごうとはしていないのだから。

そして、現実的には全ての人が平時から抑圧されやすい弱者に注意を向けるなんてことはできない。やってもらいたいところだけれどそれは理想でしかない。

そして弱いところへのテンションは往々にして継続し、悪化し続ける。

それが現実。それでも偶然の不幸に巻き込まれたくないと強く願うのなら、そのように生きればいい。常に社会のアンバランスに注意して。できる範囲で、でしか無理だけどね。現実的には。でも命というものを大事に日々生きるというのに近づけるとは思う。



くっそー殺されたー

国とかに「お願いアイツ殺して」

ってのはなしにしよう。

なしの状態で殺人とか罪とか命について考える状況を作るのが先決と、これを書きながら考えるのでした。。。


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