崩壊しない話

分裂症の人に会ったりお話したりしたことがないので事実はどうか?は分からないのですが、私は分裂するかどうか?の境目のようなものが分かるような気がする。

「あー。このへんかなー?」みたいなの。

現代人は複数のアイデンティティを生きていてそれらの整合性をとるのは結構大変、みたいな考え方がありますが、それとはちょっと違う話。

アイデンティティというのは個人の問題というよりも社会、個人を取り巻く様々な人々との関係性のお話。

分裂症というのはあくまでも個々の内面で何が起きるか?のお話。

勿論個人を取り巻く環境、人々との関係と完全に切り離して考えることはできませんが、分裂しちゃったらその後は中々社会との関係を取り持つことが難しくなる、という点で、個々人の内面のお話。

アクションの意味というのを考えていて、特にナレーションといいますか、普段喋るという行動に含まれている意味を探っています。

何か目的とか義務とかがあってそれに向けて必要なことを遂行するとか、意思表示と伝達、とかいうのは分かりやすい。

私がなんとか説得的に説明したいと考えているのはメタモルフォーゼ、宗教的意味での浄化(斎戒沐浴による効果)、ほんのちょっとした変化でも、アクションをとれば必ず起こるということ。ましてや言葉なんて発した日にゃその変化たるや「ほんのちょっと」じゃ済まされないんじゃないか?とすら考えてます。

そういうかなりな変化について、私たちはほとんど気付いていない。

だからなんじゃないのか?と。

時々分裂が起きてしまうのも。

人間は一生懸命記憶の整合性を取ろうとするとは言われている。

でも記憶の整合性ってのもかなり創造的にフィクションを混ぜ込んだとしても中々すっきりはいかない。

ましてや、生物として様々に活動して刺激を受けたり生じさせたりして自分自身のボディに起こる変化なんつったら、整合性??何ですか~それ??ぐらいのもんで、ただ生きてますってのが整合性が取れている証拠。

なんだけれども、先ほど記憶の整合性のことについて言及した通りで、人間にはたまにいろんな不整合が気になってしまうことがある。ボディの方は元気に活動し続けていて、大して不整合なんて起こってなかったとしても。。。

まさに、

全肉体が自分の予見する未来、明日(つまりは意思の種のようなもの)に反発する

というニュアンス。

逆の見方をすれば、案ずるほどには肉体は脅かされてはいないのですよ、ということなんだけれど、人間の場合、気付いちまったらいくら「まだ大丈夫よ」って言われても、素直に「はいそーですか」とはならない。いくらそのように言い聞かせようとしても信じられない。安心なんてできない。

生きてるだけで丸儲け

中々そんな風には思えない。

でも、ボディあってのものだし。いろいろと思案するのもね。まずはボディの方がとりあえず機能しているということは踏まえた方が、思案を続けるにしてもヘルシーに続けられるんじゃないだろうか?

勝手にやってくれていることとはいえ、いや、だからこそ、ボディがとりあえずバランスとって生きていられる状況にある、ということに感謝してみる。

宗教っぽいですね。

だって感謝の向け先が「勝手に調和とってくれているもの」なわけだし。

本当はどうか?は分からないという意味で一種のトリックでしかない。勝手に調和とってくれているものと人間の感性・理性・意思でもって整える調和との関係性って、どっちの方が力が強いのか?って厳密には分からない。

まあ一般的には勝手にとってくれる方が力は強かろうけれども、人間がそれに対して全く何もできない、というのもちょっと違うんじゃないか?ぐらいの感覚なのかな?

私も「全く何もできない」ってのにはやっぱり抵抗する。無駄だとしてもね。

この無駄な?抵抗を止められないってのも「勝手に調和」の一環というか、まあ、止めようとするのは諦める。

で。どんな抵抗にしようかなー?ときて、私は自分自身の内面を見る、ってことにしている。

そんな感じ。

いろんな外的要因はある。望まざる刺激の数々。望んでいるものが返ってこないこと。

分裂が起こるのは、でも、ただそれだけのことではない感じはする。

つまり「内vs.外」「個vs.その他」ではないと。

抵抗しきれない力を感じつつ、一体それをどのように受け入れ可能なものに解釈するのか?

運命や偶然の要素は完全に否定してはいけないだろうとは思っている。

まあそれもこれも「少しでも優しい世界」のため。

自分自身にせめて偶然とか運命のいたずらとかいう余地ぐらいは与えてあげられる優しさがないとさ、、、他者に優しくなんてなれないんだと思っています。


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