少しでも優しい世界を

不要な敵愾心、攻撃性、怒り、侮蔑などの否定的感情を上手くマネジメントする

己を知ることが大切ではあるけれど、おそらくその営みにゴールはない。つまり生まれて物心ついて、自分自身の性質(嫌なところとか)が割りとはっきりと感じられたりするようになってしまったら、そこからは一生のお付き合いということ。

あんまり深刻になり過ぎても、多分却ってマネジメントを困難にするだけだろう。

無理なく続けられるのが一番。

真剣になり過ぎたり、無理したりすると、「俺の方がよく努力している」「お前はダメだ」みたいな態度が横行しやすくもなる。これでは優しい世界なんて夢のまた夢だ。できることをコツコツと(西川きよしさん風)。

「優しい世界」なんてもの自体、そもそも人間という生き物には無理なのかもしれない。でも、夢見るのがごく少数の人間だけであろうが、またそういう人間だってごくたまにしか思い出さないのだとしても、「優しい世界」というフレーズは存在し続ける。

つまり、いつどこで誰が憧れるか?は分からない。そして、完全に人間全員が思い出さなくなるとも思えない。既に発せられてしまった言葉は、幸か不幸か、無に帰すことはない。必ずやこの現実世界のどこかに生き続ける。

え?そもそも「優しい世界」ってどんな世界?

サブタイトルのとおりです。

ムカッってしてもちょっと我慢しようと試みるぐらいはする。

はい?今でも我慢しようと試みるぐらいでいいならやってる?

はい。続けてください。別に今がダメだなんて言うつもりもありません。けれど、合格点とかゴールとかはないので。続けるのみです。

んなアホな!?

そうです。アホらしいんです。でもやっぱり生きるわけです。死ぬまでは。シバきたくなっても手が止まる。止まらずシバいたらちょっとぐらいは後悔する。何が何でも潔癖でなきゃ生きていけないなんて身の程知らずなこと言って却っていろんな人の迷惑にならないようにする。

そんなもんです。簡単でしょ?でもないんだよねー。だから。。

謙虚に。

ただそこへの道筋をカタチにして遺しておく。

そういう気持ちで己を知る。

堅実着実に続けていくことを阻む要素とは?

己に注意を向けるよりも優先されるべきと判断されることが山ほどある。ように感じられる。

対人関係なら己よりも他者。

社会関係なら、解決すべき様々な問題群。これを解決せねば生きていくこともままなるまい。己がどーのこーのなんてなぁ二の次だ。特に経済的な問題は文字通り背に腹は代えられないと感じられる。いかにして食べていけるのか?食糧は十分にあるのか?作るのか?買うのか?奪うのか?恵んでもらうのか?雨露を凌ぐ場所は?衣服は?作るのか?買うのか?借りるのか?耕すにしても、仮住まいを構築するにしても、それほど国家権力がくまなく威力を発揮していなかったとしても、勝手に使える土地なんてそんなにない。合法的に衣食住に必要な財物を得るにはやはり金銭収入を確保することだろう。仕事はあるのか?仕事にありつけない人間はどのように生きていけるのか?考えなければならないことは無数だ。

パッと目にしたものの方に注意が向くのはごく自然な反応だ。

他者・他物。

目の前にあればそれについて知ろうとするだろう。

目の前にない、つまり想像の場合は?

想像する場合でも、他者・他物の外見などをイメージする方が、自分の今の気持ちは??などと己に探りを入れるよりもはるかに分析的で、論理ステップも冷静に踏みやすかろうし、容易に進捗する感覚が得られることだろう。「分かる」という感覚に至ることをとりあえずの目標とする感じ。

ただ、「分かる」という感覚に至るまでに私たちが何を感じ何を考えるのか?を分析しようとすると分かると思うけど、別に実物が目の前にあろうがなかろうが、感じる・考えるプロセスというものに違いはない。勿論内容や導き出される答えのようなものに違いは出るだろうけれど。

様々な社会問題のような抽象化された物事を考える場合もプロセスは基本的に外から内。社会問題のように様々な要素が因果関係を形成しているに違いない、と直観的に仮定されるようなものであれば、まずは自分自身の存在よりも、自分の外にある要素を見極め、見極められた要素間の関係性を分析するだろう。そうする中で、自分自身の関わり方、存在(性格や持っている技能など)が及ぼす影響などなどを加味するようになるだろうけれど、どの程度自分自身という要素を考慮に入れるべきか?は各々の判断に大きく左右される。

それでもどんな人にも共有されているプロセスはある。

外のものの認識の仕方。

私たち人間は全員、そして多分人間以外の動物、しかも相当単純でいわゆる下等動物とされる種でも、比喩的類推(類比)を行っている。どこからどこまでを「知性」と呼ぶか?議論し始めると決着は付かないのだけれど、機械が行う計算を知性(Artificial Intelligence)なんて呼ぶんなら、下等生物の行う類比だって知性と呼んだっていいんじゃないか?と私は考える。

比喩的類推というからにはそこには情報が絡む。

というよりも、情報というもの自体が比喩的類推だ、と言ってもいい。いや、その方が物事の整理がつきやすい。

似たものが存在するだけで情報が生まれる。

例えば「似ている」だけでなく「似ていない」という情報。

銀河が渦を巻いているのも、巻貝が渦巻き型を生成していくのも、今現在辿れるところまで元を辿れば、それは確率のばらつき。

世の中で起こる事象全てが全くの同一確率で発生しているとすると、銀河の渦巻きのようなパターンは生まれない。例えば同一の元素であっても、その動き方にばらつきがあるように、この世の事象は同一確率では発生していない。ばらつきがあるということは、確率が高い事象は、その周囲で生じやすい(発生確率の高い)別の事象を次々と連鎖的に生み出し、やがてとあるパターンとなって表れる。何ものも単独でこの世に存在しているわけではないから。何か(A)が動けば、その傍にあるもの(B)も動く。AとBには何らかの関係がある(例:AがめっちゃでかいからBも影響を受けて動く、とか、逆だ(BがAよりめちゃでかい)からAがチャカチャカ動く割りにBはほとんど動かない、とか。)。

上の例だと、デカいものと小さいものが近くにあった場合の起こりそうな動きが、全く別の場面にあるDとCに遭遇した場合にも、両者のサイズの大小から予想できたりする。情報とはそうした予想を可能ならしめるもの。とはいえ見る人によってはDとかCとかは単に違うものがあるな、と認識されれば事足りる場合もあり、両者の関係性なんてものに興味がなければ、「AとBの関係から類推される情報」なんてものは存在しない。情報自体が比喩的類推である、というのはそういうわけ。

この世に実体を持つものは全て3つの顔を持つ。そのもの自身。そのもの以外を示唆する顔。そして他のものとの関係性を示す顔。

私たち人間のように、物事が発生する様子を(想像ではあっても)俯瞰的に眺められる者の目で見ると、とある事象は、別の何かから情報を受け取って、それについて判断した上で、答えがポジティヴなら発生、ネガティヴなら発生しない、というようにあたかも何者かがコントロールしているかのように思われる。

事実は、そこに繰り返し現れる事象があるなら、その事象の周囲では、別の事象も繰り返し観測される確率が高いというだけのこと。

双方の発生確率が十分に高ければ、両者には因果関係があるということにしておいてもほぼ問題はない。しかし、事実は、統計的に有意といえる相関があるというだけ。

情報とは、もしも人間のような第三者的目を動員可能な存在があるとするなら、そこから見れば、類比をしていると理解されるような関係性を指し示すもの。

Aという事象が繰り返し観測され、Bという事象も繰り返し観測されれば、AとBを関連付けている何かが存在するかもしれない、という類推がはたらき、仮説が唱えられ、検証される。ここでいう類推や仮説検証は勿論人間だけが為しうることであるけれど、人間がいなくても事象Aも事象Bも繰り返し発生している。繰り返し発生する異なる2つ以上の事象が存在するなら、BがAから送られてくる情報を解釈した上で、答えがポジティヴだから発生している、逆に、同じようにAがBから送られてくる情報を元に発生している、というように解釈できる。かもしれない。

情報はいつでもどこにでも潜在していて、とある運動・事象がとあるパターンを成すようになっているなら、そのパターンを探ればざくざく掘り起こせるようなもの。

ところで。。。

これを知ったからといって人は注意深く謙虚になって否定的感情をマネジメントしようとするのだろうか?

科学一辺倒に欠けているものとは?

私の考えでは、今アカデミック界隈で行われているのは科学ではない。何故なら、科学とは別に傲慢になることではないし、また、因果関係に確からしさの判定を丸投げにして、自らの弱さを糊塗することでもないからだ。

科学をやればやるほど人が傲慢になり、尊大になり、成果は全て自分自身の努力と才能のお陰と勘違いし、自分よりも劣るものをあからさまに侮蔑するようになるというのはおかしな話だ。

科学に向き合えば向き合うほど、思い知るのは自らの無力さ無能さのはず。ならばできない人間の苦悩は理解できるばかりか、共感すら抱くのが自然だろう。知識なるものつながってなんぼ。一人でできることなんてタカが知れている。

それが真逆に働いているということは、間違いなく科学なんてしていないということだろう。

そうした倒錯は、方法論がきっちりとしているからこそ起こり得ることだ。

「それを守ってさえいれば文句なんてないだろ?」「守る能力も意欲もないなら淘汰されるのが自然だね(なんでオレが助ける必要がある?)」という幼児的な考え、そして生き方。

方法を確立させ、基準を設定するのは、そうすることによって手を差し伸べるべき対象を具体的に検討しやすくするためではないのか?世の不平等を全部一気に面倒みられるわけがない。

倫理や道徳が大事だと言うのなら、利他的行動をとりやすくするための条件を試行錯誤し、明示することを目標とすべきで、「どんな人であろうとも、ここをクリアしさえすればOK」というような基準をきれいにまとめた気になって満足しているなら、その行為自体が非倫理的で不道徳と言わざるを得ない。「基準値を満たさないものは自然淘汰だから仕方ない」宣言。。。

「どんな人でもクリアできる基準」などあるはずがない。もたされた能力・性質や生まれ落ちた環境には大きなばらつきがあるのだから。”最低限”なんて人間が人間に対して宣言なんてできない。キリがなくなるっていう人も多いんだけど、全部いっぺんに、が無理だから的を絞りやすくするんであって、的は設定してハイお終いって性質のものではない。それを基準によりマシな分け方を検討し続けるためのもの。

方法論の確立にしたってそうなんだけど、情報の見方が、まるでモノなのよね。だから尊大にもなる。「俺ならとびきり上手く扱えるぜ!」

やっていることといったら「だから俺様にできるだけ沢山よこせ!」。

人間にとって情報はそれで食っていけてるってぐらい死活問題的に重要なんだけど、一人一人求めるモノが異なる以上、情報と見做したいものも違う。てんでバランバランじゃあ交換できないし、情報で食ってなんていけない。けれど同じ人間。生命維持に不可欠なモノなら、結構似ているだろうし、それに関する情報なら交換は可能。

本当はニーズの異なる人々だから、情報と見做すものだってバラバラなところ、できる限り標準化してしまおう、というのにも一理ある。

ただ。人間って食ってけりゃいいってわけでもないので。。第一、どんだけあれば食っていけるな、と安心するのか?も判然としない。

やっぱり「優しい世界」を見たいなら、情報って呼ばれているものの見方も根源に遡ってね。人間としての幸せ、生きがいって何かなー?とかいうことも加味するような方法・仕組みを考えないといけないんじゃないだろうか。

多分大多数の人間が、一人一人の人生、各々が責任をもって、、、なんて生き方はしていない。特に、考え方であるとか気持ちの整理の仕方なんて、自分自身のことだって、いちいち全部に気を回してなんかいられないし、「それ。きちんと責任とれてますか?」なんて言われたくもないだろう。

ただ、話は整理した方がいい。

基本、個人で責任はとらされる。いくら「とらせる方の人」が無責任に振る舞っていたとしても。

理不尽なようでこれが当たり前。親子関係とか見てもそうでしょ?別に親がなんでもしっかり責任とれるから子供をそれなりに躾けようとするわけじゃないし、それだって別に親が「悪い人間」ってことでもない。明らかに異なる人間同士なら、違うなりに振る舞おうとするのが自然。

そういうのを「自然」といって放置することに違和感を覚えるのも珍しいことではないのだけれど、その辺からはかなりばらつく。

「自然」で済ませていちゃいけないって気付いたら、でも、速攻全力で自己弁護に走らないこと。

一般的に「悪い」とされることも、やっちゃうにはわけがある。みんなしてそのわけに注意を向けないのはアブナイ。

でも、極限状態にある人に言えることは少ない。むしろ、何とかしたいな、と感じるのは余裕のある人が、その余裕に気付かずに、「このぐらいなら許される」って線を、仲間作ったりなんなりして巧みに設定して平気で善人と思い込んで済ませられると信じ切っている様子。

別に乱暴もしてないし、平穏に生きたいって気持ちが満たされちゃいけないとは言わない。

それでも余裕があるなりにできることってまだまだあって、安易に「ここまでやったら最低限許されるに違いない」ってのは目指しちゃいけないだろう。しかも余裕のある者同士が徒党を組んで。。。許される許されない関係なく、生きておれることに感謝する。

どうしてそうすべきなのか?は、やっぱり安心安全を求めてしまうんだけども、それって、沢山のおカネやモノや食べ物を確保するだけでは満たされなくて、道義的正しさもくっつけざるを得ないから。道義的正しさが気になる以上、「自分さえよければ」という行動、考えはご法度だろう。

なんだけれども、利他的に振る舞えば許されるのか?というと、、、。理屈ではそうかもしれないけれど、実践的には利他的振舞いなんて、圧倒的な物的資源の違いの前では、持っている方だって、「自分一人にできることなんて微々たるもので、なら、やってもやらなくても変わらんじゃないか」となりやすい。つまり、一人一人が普段からできる利他的行動なんてタカが知れている。それを無理矢理「できる方がエライ」「できなくてもやろうとはするべきだ」とか強制で何とかなるものとしようとするから文字通り無理が来る。

利他的行動ってのはもっと緩く、その訪れをラッキーぐらいに思っていた方がお互いのためだ。

ラッキーの確率を上げるためにやるべきこと。

私は私の生に感謝しています。と言うこと。

これがないと、ついつい自分の生以外のモノに評価を頼ってしまう。自分自身の生に感謝するということは、そのものずばり。他所がどうだとか、他人より何かが上(下)回っているとかは気にはなるだろうけれど、生の価値には何の意味もないこと。

そもそもみんな違うわけだから。

内面で自分の生に向き合っていますなんて言い続けるのは、利他的行動をとらない言い訳ともとられるかもしれない。

それも仕方のないこと。だって困っている人にパッと何でもかんでもはあげられないでしょ?できるかもしれないのにやらないことなんて山ほどある。ならせめて「いや。できたかも。。」って感じないんじゃ、一向に改善もしないわけじゃない?確率低いまんま。。「お前。もっとできるやろ?」って思われているかもしれない、なんてのは当然のこととして、開き直るんじゃなくて正面から受け止めるべき。それぐらいのしんどさなんて生きていられるんだから当然でしょ?

そういう他者関係の煩わしさも結構大変だけれど、そりゃ他者の顔色伺ったって根本解決は無い。だって何だって言ってくるわけだから。どんなに気を付けてみたところで。

だからなんです。

自分自身の生そのものに感謝するべきだ、というのは。

安易に「お前らだけ楽しやがって」とか言わなくなる。

まず、ならず者に殺されることはあっても、自分は絶対自殺はしない。と誓うこと。

そこから始める。

他人を殺すかどうか?殺さなきゃそれでいいのか?というのは誓いの後。

自分の生そのものを慈しめなければ、他殺もいじめも何気ない差別感情も全部一緒。

持たされたものは人それぞれ。

面倒見切れるのは自分のものだけ。

それぞれがそうやって苦楽ないまぜで生きている。

相互の尊重なんてそうした認識あってこそ。

まあ現実は大半の人がいい加減に生きて死ぬ。

いい加減ってのの最たるものは安易な道義的正しさの主張。

それやっているうちは「優しい世界」なんてありえない。

私が夢を見るのはそんないい加減でもポテンシャルがないわけではないから。強制したって変わらないわけだけども、それって別に夢を諦める理由にはならない。そもそもラッキー頼りの夢。叶わないからって絶望するほどのことでもない。できることを粛々と続けるだけです。



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