役に立つ学問

日本語としては何ら誤った語法でもない。

ただ私は違和感を覚える。

「役に立つ」という言葉が何となく言い訳じみて聞こえる、というのが第一。「学問」を修飾する語として適当かどうか?というのも疑問だけど。

「役に立つ」っていうのは、私がこれこれこういうことをしたので、私自身及び/又は他者の利益になった、という意味だとちょっと傲慢な感じ。

「役に立」ったらいいなぁ、ぐらいで丁度いいんじゃあないだろうか?

なので、別に「役に立つ」なんてどーでもいいって思っているわけではない。何をするにせよ、折角やるんだから役に立つならその方がいいに決まっている。

でも、やる前から役に立つかどうか?を確認して、どうもダメそうだからやらない、とか、絶対役に立つこと間違いなしってことしかやらないってのは、どっちにしても、他所の基準に支配されていて、自分自身の気持ちとか信念ってのがお留守な感じがする。自分が「やりたい!」「大事だ!」と感じれば、できれば他の人たちにも好影響が及ぶといいな、と念じつつ、真摯に取り組めばいいのではないか?

ちょっとストイック過ぎるようにも感じられるけれど、これがこと「学問」ってことになるとそうとも言えない。

「学問」というのは知識を扱う。

私は「知識」というのはただのモノではなくて、それを得ることで自動的に偉くなれるとか徳が上がるというわけではなく、「得た」という人によって使われることによって意味を成すもの、完全に「知識」なるものになり得るようなものだと理解している。

だから、学問をするということ、知識を扱うということは、開始する時点で既に自分以外の人々に、かなり積極的に関わっていこうという意思が内包されている。いずれ「使う」ということが前提にあるので。

得た知識を使う、というのは、セラピーとかコンサルティングとか、はたまた、とあるプログラム開発の一員として貢献するとかいうように、必ずしも他の誰かを直接助けるということではない。

まず最初に来るのは常に自分。自分がどのように考え、どのように手足その他の身体の部分を動かすことができるか?つまり、何も知らない状態でいるよりは、考え方や動き方を学ぶことで、より安心感をもって頭や体を機能させやすくする。できればよりよく。「よく」というのは見栄えの良さもあるだろうし、自他の物的利益につながった方がいい、という場合もある。要するに、できれば自他関係なく、みんなハッピーなのが理想。そうなるかどうか?は、特に他者にとってどうか?という側面については常に想定通りとはいかないけれど。他者というのは多様だし。

学問というのは、だから、役に立つかどうか?も大事だけれど、「人間としてよりよく生きる」とか「いい人間であり続けたい」とかいう気持ちに駆動されているから、何かの役に立つ可能性がある。私の感覚としては、そのようなもんなんじゃないか?と感じられる。

あんまり「役に立つ」が前面に出過ぎると、かえって自他の間に紛争が生まれやすくもなる。健全・建設的な議論や批判は必要だし、その範囲内で済めばいいけれど、これをあまり突き詰めすぎると結局内容が複雑・高度になってしまって、一部の専門家にしか理解できなくなる。つまり、広く一般の目には何の役にも立たないと見えてしまう。でも「理解できる」ことが一つのステータスになりうるのでできる方の人々は「理解できる」グループに入ろうと血眼になり、自然の流れとして「理解できない」グループを見下そうとする、という悪循環。

「役に立つ」をあくまでもラッキーな結果、と弁えておくなら、各自「俺様のお陰だ!」とはなりにくいだろうし、それよりも、他者への目線が優しくなる。「あー。この人たちも『役に立ったらいいなー』って思ってんだろうなー。自分と同じように。」

これは対等な者同士の間だけではなくて、明らかなドシロートに対する態度についても言える。いくら高度な知識を身に付けていたとしても、それを携えた自分の振る舞いがどのように解釈されるかは分からない。そのように理解するということは、スーパー専門家であろうが、ドシロートの門外漢であろうが、その人たちの目線や考え方感じ方をまずは尊重するということ。「俺様の正しい理解」を押し付けようとするのとは真逆。

知識は使われてこそ、というのは、使う人の地位や名誉のためではない。だから頻繁に行われているように、具体的に何に役立つかをリストアップしようとなんてしなくたっていい。もっとざくっと、全人類の幸福度を僅かなりとも上げる。そういう気持ち。そこには当然知識が使われる過程で、様々な論争が起こりうることも織り込み済み。だから、いかに真摯にとある学問に取り組んで、内容の理解だって正確であったとしたって、いつでもどこでも何にでも善にはたらくとは限らない。知識が誰かに使われると、当然の如くまた別の人の知識行使につながる。もしもつながった先でクォリティが落ちているように感じられたとしても、それを修正はできても、それぞれの人なりの知識行使自体を妨げたり、ないものとすることはできない。そして修正の根拠もみんなの幸せ。無用にアグレッシブになったり、理解の拙さを侮蔑したりしいてはそこには近づけない。

人文系の学問は人をより道徳的にするとか、共感力を上げるとか言われ、それはあながち間違った理解というわけでもない。でも道徳であるとか共感であるとかは非常に曖昧な概念で、これさえ押さえればとか、この基準さえクリアすれば合格!とかいうものではない。他人がどう感じているかなんて誰も断言はできないし、「道徳的である」なんて主張した時点で道徳性に疑念が生じる。何人も排除せずに自らの正しさを証明し切るなんて論理的に不可能。でもだからといって一体自分が正しいかどうかについては不問に付しておいていいってわけでもない。各自ご勝手にってのは望ましいようにも見えるけれど、各自勝手にと言いながら気の合う仲間同士で徒党を組んで仲間内だけの利益を確保するという動きにもつながりやすい。私たちがずぅーーーっと観察してきている通り。グループ間、派閥間、国と国との争いなんて枚挙に暇がない。究極的には道徳的に正しいかどうか?その根拠は何か?という話し合いは止めるわけにはいかない。

「学問」って役に立つのか?

もしもそれに取り組んでいくことによって、人間社会からはそうそうなくならない難題に敢えて粘り強く関わっていきたい、というような考えや行動が一人一人に根付いていくなら、それは「役に立っている」と言ってもいいかもしれない。

でも、そんな「役に立つ」だから、どの学問が役に立ってどの学問が役に立たない、というような性質のものではない。逆に「役に立つ/立たない」で仕訳けようなんてのは、一人一人がいかようなカタチ、クォリティであれ日々行使する知識への尊重を損なわせる可能性が高いので本当は言わない方がいい。

極々限定的な場面で(師匠と弟子の会話とかね)、「そんなんやって意味あんのか!?」とか言い合うこともあるかもしれないけれど、基本、私たちの目に映った時に何がしかの意味が生じるようなものって完全黙殺とか完全否定とかは無理だから。そうして生じる意味が否定的なものであった時にいかにそれをポジティヴに持っていけるか?それが腕の見せどころ。短絡的に攻撃して殲滅しようとしたり、蔑んで優位に立とうとしたり。。。まあそういう自分自身のあまり好ましくない動きに敏感になれるようにする。そういうことに学問も役に立てればいいよねー。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?