見出し画像

かなりな重症

前世紀ぐらいからすっかり根付いてしまった感のある合理的科学的な考え方・ものの見方。

それへの不信感が行き過ぎてしまっているようです。最近の私。

西洋オリジンってことは漠然と理解していたけれど、21世紀の今となっては、オリジンがどこか?ってことより、人間全般にめちゃめちゃ受け入れられやすいワケをこそ十分に知る必要があると考えています。

そのためにも、言っていることが矛盾するようですが、合理的科学的な考え方・ものの見方のルーツを詳しく知りたいと思ったわけです。

ギリシャはかなり大きな役割を果たしているようですね。

とはいえ、「オリジンより合理的科学的考え方・ものの見方の受け入れられやすさ」を探りたいわけなので、ギリシャの役割だって別にギリシャ人やギリシャ語の性質などを云々したいわけではありません。それよりも、私が知りたいのは、神さまというものに対する考え方の変遷。特にユダヤ教・キリスト教との関連。

現代人のおそらく半数以上は神さまを信じていません。少なくとも現実の利益をもたらしてくれる存在としては。それでも、常時ではなくとも、精神的な安定のために信じようとする人は今でも結構な数いるのだろうと推測します。

「現実利益はもたらしてくれない」にしても、「精神的不安からは多少なりとも救ってくれる」にしても、神さまは私たちの外にいらっしゃるようです。精神的な安定を願い祈る場合でも、救いは外からやってくる。一体どうして神さまを一人一人の中から取り出してしまったのでしょう?そこが知りたい。

理屈としては、私たち人間の手の及ばない様々なことをお決め下さっている崇高なる超越者のような存在を想定して、そのお方に祈り、願いを掛ける、というように、外にいると想定することで、個々の責任を限定的にすることができます。一切努力しないということではなく、努力はしないよりもした方がいいにちがいないと思うからこそ、責任の限界を決めておきたい。頑張っても頑張っても永遠に「それでいい」と言ってもらえないのは辛すぎる。

とはいえ、ただの想像上の存在だとしても、超越者にはそれなりの説得力が求められます。当然材料は現実に出くわす様々な出来事。モノやヒト。物理法則などが特に現実世界のあれこれに関して、神さまにとってかわったのも当然のことと言えましょう。

難しいのは、現実に起こったこと、というのがどうしても私たち人間の恣意的判断を免れ得ないというところ。簡単に言えば、神さまにしても、物理法則にしても、より説得力が増すように、データ(既に起こったこと、事実とされるもの)が選ばれてしまうのです。

神さまのようなものを個々の外に取り出すという戦略は、どうやっても平等・公正なものとはなり得ないのです。どれだけ多くの人にとってイメージしやすく、受け入れられやすいといっても。

それよりももっとおっきな問題があります。パワーです。

そもそも神さまのようなものは外に置いておいた方がいいとか言い出すのはパワーのおっきい方の人たちなのです。平民たちは大体において神さまが内か外か?なんてことも気にはしません。

おそらくパワーのある方も、始めはただ神さまって何?ってことを様々考え、議論していただけなのでしょう。当然成果は布教されるでしょう。真に弱者救済のために。

ただそれについて考える。

そんなことで神さまがパブリックになってしまう。

ことばの威力は凄まじい。

そうしてみんなで意味の通じ合うような存在になってしまえば、神さまがいかに私たち人間を遥かに超越した存在とはいえ、所詮その他のオブジェクトと変わりなくなります。どこまで神聖視するか?も個々の心がけ次第。

私の理解では、そうした神さま取り出しプロセスの如何に関わらず、神さまのようなものは個々のものに宿っている。なので私たちも常に神さまのような存在とともにある。にも拘らず、外に取り出されてしまっている神さまがために、そのことをすっかり忘れさせられてしまっている。

現代の科学的合理的なものの考え方・見方。これが信じられない。いや。正確には、それを何の疑問もなく使いまくっている人間を信用できない。個々の中に宿っている神さまのような存在について全く注意を払わず、外にいる神さまのような存在の代弁者を気取っている人たち。そのように振る舞ってしまっていることにも気付いていない人たち。そうした人間が書き記す言葉は読んでいても胸に響かず、喋る言葉は全部無意味に聞こえるのです。

極論すれば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスのラインを”解釈している”前世紀後半以降の文献群はほとんど死んでいるといってもいい。

デカルト、ライプニッツやカントにヘーゲルも。ニーチェやパースにホワイトヘッドも。本人たちの言葉ではなく、それを解釈している言葉は死んだ言葉が大半。

先人を神格化し、その代弁者を騙る者たちはこの上なく醜い。自らの知的活動の責任を先人たちに丸投げしつつ、現世利益を求める。それよりも致命的なのは、先人たちの言葉を曲解したままで、それを正解だと信じ切ったまま死んでいってしまうこと。

偉人でなくとも、自分以外の人間をそのように扱ってはいけないでしょう。

真意はどこに?

これを絶えず問い続けないなら、敬意をもった関係構築なんて不可能です。

対話すること。

たとえ相手が死んでしまった人でも、その人本人が問い返してきたとして、自分なりに立てた仮定について説明することができるかどうか?

自己を批評的に見るのとも少し違う。

相手が死んでしまっていて現実には新たな問いを為せないのであればなおのこと、彼女/彼らの立場は考慮されるべき。

そこまでしても彼女/彼らについて話す必要があるのかどうか?

それを決めるだけの責任はあるのです。

別に人間をケアする気がないなら、話さなきゃいいのにね。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?