「デス・ゾーン」を読んで
きっかけはタイムラインに流れてきた、どこのだれか知らない人の、ある本についてのつぶやき。しばらくしてまた別の幾人かが同じ本を紹介していた。買ってみた。読んだ。そして読み終わった。
わたしは栗城だった。
あたり前だが、わたしは栗城史多ではない。彼をあの世から口寄せてわたしの身体に憑依させたわけでもない。ただ、わたしの身体のどこかには間違いなく『栗城』が棲みついている。
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本書は、夢の共有という旗印を掲げながら単独無酸素登頂と謳ったその「栗城エベレスト劇場」が、およそ"単独"でも"無酸素"でもなかったことが、著者による栗城氏本人への取材や周囲の関係者からの聞き込みを基に暴かれている。どうやらその実態は、「だまし絵をつかった紙芝居」といえる代物だったようだ。そのような不誠実といえる行為をさせていたのは、彼の、世間の人々から自分へ向けられた期待に応えようとした虚栄心の挙げ句だった。しかしもしかしたら、ただただ自分の夢の実現を、彼なりの手段で純粋に追いかけていただけだったのではないだろうか。彼には少しの悪意さえ自覚していなかったようにすら感じられる。
2018年、彼は8回目のエベレスト登頂挑戦を断念した下山途中に滑落し、死亡した。
北海道放送のディレクターという肩書きの著者は、エベレスト挑戦の度重なる失敗に悩みもがいていた彼のようすを克明に記していく過程で、自身のジャーナリズム精神を優先させてしまった後ろめたさと後悔を覚え、また改めてテレビマンとしての強い責任感を再認識していた。
同書はまた、彼の劇場型ともいえる過激なパフォーマンスやそれに対する世間の反応を見ることで、近年のインターネットシーンにおける諸問題を読者に提起している側面もあるだろう。
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ここからはわたしの話をしたい。
わたしは匿名でSNSをしている。SNS上でのわたしの振る舞いは、実像のわたしの姿をそのまま正確にトレースしてはいない。そこに登壇させているのは、わたしと似ているものの、容姿やキャラクターを少しだけデフォルメさせたパペット人形であり、それにわたしの言葉を代弁させているにすぎない。わたしは腹話術をしているのだ。
なぜわたしは腹話術師になったのだろうか? じぶんの素性を際限のない異空間に晒し拡めたくない照れ隠しや警戒心からなのか、それとも反対に、現実では相手に無自覚に壁をつくることで伏せていた本音や愚痴といった胸の内を、過保護に匿名性を帯びた電子情報通信の力を借りて、不特定多数の人たちにひけらかすことができる安心や快楽からくるものなのか。いや実のところは、そのどちらでもあるのだろう。
しかし、わたしの手に嵌めているそのパペット人形は、目まぐるしく話題が移り変わるネットの中で、徐々に表情を変化させ、身体をデカく膨らまし、声色もまるで別人のようになり、そしてわたしの予期しないところで勝手にしゃべるようにもなった。
SNSでつながった、そしてSNSだけでしかつながっていない、" 誰か "が求めるわたしの「人形」像に、わたしはそれに応える形で「人形」に栄養をあたえ成長させてしまっていた。本当は、" 誰も "その「人形」に求めてるものなどないのに、わたしはその存在しない期待にいつの間にか応えてしまっていた。それに応えなければいけないと錯覚してしまった。結果「人形」は親元から離れた。
実像のわたしと虚像のパペット人形は、ひきつづき乖離をしている。いつか肥大化しきったその「人形」は化け物となり、今度は「わたし」のことを手に嵌めあやつり出すかもしれない。わたしから「わたし」の実権を奪っていく———。そういう事態になりはしないだろうか。
まるで生まれたときからじぶんの手のひらにあるホクロのように、昔からそこにあると勘違いしてしまいそうになる「SNS」というイレギュラーをまぎれ溶け込ませてしまった日常生活のなかでわたしは何気なくスマホ画面をいじっていると、ふとした瞬間に不安におそわれる。
「じぶんは栗城だ」と。
そしてまたこうも。
「あなたはどうして『栗城ではない』と言えるのだろうか」と。
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栗城史多は化け物になった自分の「人形」によって命を奪われた。いや、彼は自分の化け物に完全に飲み込まれそうになるちょうどその前に、" 運よく命が絶たれた "のだろうか? 実像としての彼自身がギリギリ残っているうちにこの世から逃げ切ることができた、と見ることもできるかもしれない。
だがどちらにしても、彼はもうこの世にいない。
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