見出し画像

逢魔の子 ふたりの母

 4月8日、月曜日。

-よく晴れて、良い日だわ。

 私は1着しか持っていない黒のワンピースを着て、控えめな真珠のネックレスを付けた。
 小さなシャツにブレザーと半ズボンを出して、小さな手と足を通してあげる。のりが効いたシャツは硬くて着心地は悪そうだわ。
「さ、うるま、おいで。お靴履いて、おかあさんと一緒に行こうね」
「かあさん、どこ行くの?」
「うん、今日はね、学校に行くの。前から言ってたでしょ?うるまは今日から小学生。1年生よ?」

 うるまは私のひとり息子。シングルマザーの私の宝物。小さい頃から聞き分けの良いお利口さん。私を困らせることは絶対しない。親バカって言われるけど、違うわ。この子は賢い。

 でも、ひとつだけ困ったことがある。この子のせいじゃないけれど。

「へぇ、学校に行くと小学生になるの?」
 歩きながら無邪気に私を見上げるうるまの瞳はまん丸。可愛いわ。賢いのにちょっと天然なのも可愛いわ。
「そうよ~、小学生は学校に行くの。お友達やお兄さん、お姉さんたちがたっくさんいるのよ?」
「わぁ、友達?たっくんとかひまちゃんとかも来るの?」
「たっくんは来年だね、うるまの方がお兄ちゃんだから。でもひまちゃんは来るよ?一緒の学校で1年生」
「ひまちゃんだけ?でもいいや!早く行こ?」
「うん、きっとね、ひまちゃんだけじゃなくってた~くさん・・」

 ああ、困った。これなのよ。この子と外に出るとすぐ。でもうるまは気付いてないみたい。気付くと泣いちゃうから、今のうちに。

「・・・ふっ!!」

「かあさん、どうしたの?」
「ん?大丈夫よ?だいじょぶだいじょぶ~!アンマークートゥアンマークートゥ。さ、行こっか」

 今日はうるまの入学式。

 ホントによく晴れた、良い日だわ。


 ××小学校の校門前には、大振りの花で飾られた看板が立っている。薄いピンクやらブルーやら、白もある。
 “令和○○年度 ××小学校入学式”、看板には筆で大きく書かれていた。その前で記念撮影をしている親子、そして順番待ちの親子も数組。
 笑顔の両親に対して、子供は概ねつまらなそうな顔だ。緊張の面持ちの子もいる。
 それはそうだろう、これまでせいぜい幼稚園で過ごしていた子供たちが、いきなり大きなランドセルや手に余る教材を渡され、さあ!これからお勉強!お友達もたくさん作ってね!なんて言われるのだから。
 そんな親子たちを、うるまはぼんやりと見ている。写真を撮りたいなんて言うはずない。なんであの子たちにはお父さんがいるの?なんてことも言うはずない。

 きっと分かってくれてるわ。うるまは賢いから。

 私とうるまが校門の入り口まで歩いて行くと、数名の先生が案内と花の飾りを持って立っていた。

「本日はおめでとうございます、こちらへどうぞ」

 私を見ながら声を掛けてくれたのは、女性の先生だった。紺のスーツに白いシャツが良く似合う。ストレートヘアに黒縁のメガネが知性を感じさせるが、スラリとした体躯で背が高く、バレーかバスケットでもしていたか、と思わされる。

「お名前は、うるまくん、はい、1年2組ですね。私が担任するクラスです。どうぞよろしくね?うるまくん」

 私とうるまの胸に白い花飾りを付けながら、先生はうるまのほっぺたをツンっとつつく。とても優しそうな人だ。いや、この人は・・

「・・・優梨と言います、お母様もよろしくお願いしますね」

 私はつい先生の顔を凝視してしまっていた。名字を聞き逃してしまったが、優梨先生、この人はなかなかの力持ちだ。もしかして、私たちのことも分かるかも。

「優梨先生、ですか。先生は例えば学校の怪談とか、信じます?」
「え?学校の?カイダン?」
「あ、すみません急に変なこと。うるまが学校の怪談とか怖がるので」
 私は適当にごまかした。この先生は私たちの力に気付かない。それどころか自分の力にも気付いていないようだ。

 学校というところには怪談が付きものだ。だけどその多くは子供たちが産みだしたストーリー。昔からの噂や都市伝説に尾ヒレが付いて、そこに子供たちの自由なイマジネーションが加わり、新たな時代の怪談となる。

 本物の怪異とは無縁なもの。

 そして学校には、子供たちの生気が溢れている。これから成長するためのエネルギー、疲れを知らないパワー。
 それらが集積した学校という場所、特に無垢な子供たちが集まる小学校は一種の聖域となり、怪異の侵入を防いでいる。

 うるまは生来、怪異を呼ぶ体質だ。いや、うるまを狙っているように集まると言ってもいい。そんな連中は雑多なマジムンになりかけの場合が多いから、いつも私が祓っている。そんな力が私にはあった。そしてうるまにも・・

-学校という聖域とうるまが持っている力があれば心配することもないと思っていたけど、この先生がいるなら更に安心か。

 私は優梨先生の顔を見ながらそう思った。

-それに、うるまには毎朝結界を張ってあげてるし、何かあればすぐに・・

「うるまはちょっと変わった事を言うかもしれませんけど、よろしくお願いします。それと、そんなときは私に教えていただけると助かります」
「はい!きちんとご報告させていただきますね!ご安心ください」

 本当に良い先生だわ。この人なら安心。

 その日、私は講堂の後ろの方で、元気な声で校長先生に返事するうるまを見ながら、涙と鼻水が止まらなかった。


 うるまが入学して1ヶ月、平和な日々が過ぎている。
 優梨先生はやっぱり良い先生。毎日うるまが持って帰る連絡ノートには、日々のうるまの様子が書かれている。
 綺麗な文字で綴られた優しい言葉。子供への愛情が溢れているわ。

「うるま、優梨先生のこと、好き?」
「うん!だ~いすき!!」
 満面の笑み。かわいいわ。でもこれは聞いておかなければ。
「おかあさんと優梨先生、どっちが好き?」
 ちょっといじわるな質問、うるまはなんて答えるかしら。
「えっとね、えっと~、えっとね」
「うんうん、どっちかな?」
「ひまちゃん!!」
「へ?ひまちゃん?」
「うん!ひまちゃんがね!今日病気になったんだよ?」

 どうやらうるまの頭の中で学校でのことを思い出す内に、幼なじみで同級生のひまりちゃんのことを思い出してしまったらしい。

-まぁいいわ、優梨先生、次は許さない。

 私は謎のライバル心を燃やしつつ、ひまちゃんの事を聞いた。
「ひまちゃん、病気になったの?おうちに帰ったの?」
「ううん、あのね、ひまちゃんとっても元気だったんだけど、給食に入ってたお肉が食べられなくって、ちょっと食べたら気持ち悪いって」
「うんうん、豚肉かな?ひまちゃん苦手だもんね、それで?」
「うん、で、先生が保健室に連れて行ったの。でも、その後帰ってきたら元気になってたんだよ?」
「へぇ、それは良かった。たくさん食べなかったから良かったのかな?」
「わかんない、でもね」
「でも?」
「ひまちゃん、帰りに校庭で倒れちゃったの。靴を履いて玄関出たらすぐ」
「えっ?倒れたの?」
「うん、それでね、先生たちが走ってきて、優梨先生も走ってきて、救急車!救急車!って」
「そっか、うるまは一緒だったんだ」
「うん、一緒に帰ろって言ってたから。でもね」
「またでも?なに?」
「僕ね、ひまちゃんが倒れるとき、見たの」
「なにを?何か見えたの?」
 嫌な予感がした。うるまが見たものって、もしかして。
「ひまちゃんね、両足に白いものがくっついてきて、ひまちゃん、それに倒されたんだよ?でね、その白いの、ひまちゃんの顔にくっついたんだ。そしたらひまちゃん、とっても苦しそうな顔になって」
「うるま!もういい、もういいのよ、それはもう忘れていい!」
 私は慌ててうるまの頭を胸に抱いた。

-いやな感じだ。明日、学校に行ってみなきゃ。

 私は職場に連絡し、仕事を休むと伝えた。


 翌日、私は小学校に出向き、優梨先生に断りを入れて保健室に向かった。
 聞けば、ひまちゃんは今日も登校しているという。だけどこれは病気ではない。私の中で疑念が沸いた。

-小学校っていう聖域に入り込める怪異、マジムンの中にもそうはいない。キジムナーは入るだろうが、あれは悪戯くらいでこんな悪さはしないし。いったいなにもの?

 私はそんなことを考えながら、保健室の扉をノックした。
「はい、どうぞお入りください」
 中から保険教諭の声が聞こえた。

 保険教諭は斉藤明美と名乗った。年齢は40代前半といったところ。優しい表情と落ち着いた声。微笑みながら話す所作は、相手を安心させる。

「今日はお時間いただいてありがとうございます。それで早速なんですが、息子の幼なじみが倒れた件で、ちょっと気になって」
「ひまりちゃんですね。給食で少し気分が悪くなって来たんですけど、アレルギー反応は無くて、すぐ元気になったんですが、あんなことになって私も反省してるんです。念のため親御さんに連絡して早退させるべきだったと」

 斉藤先生の話にはなんの疑念も無い。ひまちゃんは肉が苦手だが、アレルギーとかではなく、単に嫌いなだけだ。それに倒れたのは病気ではない。その原因がここ、保健室にあるのではと思ったが、思い過ごしか。

「明美先生!」
 いきなり扉が開き、女の子がふたり、走り込んできた。
「あら、だめよ?入るときはちゃんとノックしないと。今お客様なんだから」
「でも明美先生、ゆみちゃんがね、ちょっと・・」
「うんうん、分かったから。すみませんおかあさん。ちょっと対応しなくっちゃ・・」
「あ、はい!こちらこそすみません。お仕事のお邪魔でした。それじゃ」

-明美先生!か。子供たちにずいぶん慕われてるのね。優しそうな先生だもんな。

 私は保健室を出ると、その足で校内、校庭とひととおり見て回ったが、取り立てて怪しいものはなかった。怪異がいるところには、少なからず瘴気だまりがあるはずだが。

-とりあえず明日から、うるまに掛ける結界を強くしておこう。

 家に帰る道すがら、私はそう考えていた。


「優梨先生!おはようございます!」
 ボクは大好きな優梨先生を見つけて、元気いっぱいあいさつした。ボクの隣でひまちゃんもおはようって言ってる。元気になって良かった!

 でも・・あれ?

 給食を食べて、もう帰る時間になった。
 ボクは廊下で優梨先生に会ったから、朝のことを話そうと思ったんだ。

「優梨先生、ひまちゃんのこと、ちゃんと見える?」
「え?見えるよ?ちゃんと?うん、見える」
 優梨先生は目をキョロキョロしてる。ボク、なにか変なこと言ったかな?
「ホント?優梨先生、ひまちゃんがちゃんと見える?」
「うん、見える。うるまくん、ちゃんと見えるって、どういうこと?」
「あのね、ひまちゃんね、体が透けて見えるよ?」
「え!?透けて見える?透明人間、ってこと?」
「うん!透明人間?かなぁ。ひまちゃんの向こう側が見えてるの」

 優梨先生はますますキョロキョロしている。そして手をポケットに突っ込んで、電話を持った。
「うるまくん、今から帰るよね、先生、おかあさんに連絡するから、ちょっと一緒に待っておこうね」
 優梨先生は慌てて電話を掛けている。あ、話し出した。おかあさんと話してるんだな。

「ねぇ優梨先生、おかあさんに言って。ひまちゃんも透けてるけど、ほら、あの子も、あの子も透けてるよ」
 ボクは辺りを見渡して、ひまちゃんとおんなじ透けてる子を指差したんだ。優梨先生はその子たちを見て、ぼそっと言ったよ。

「10人、以上?」

 優梨先生はボクの手を引き寄せて、しゃがんでボクを抱きしめてくれた。
 電話口からかあさんの声が聞こえた。

「優梨先生!すぐ行くから!うるまをよろしくお願いします!!」

 かあさんが迎えに来てくれるんだ。そう思ったらボクはとっても嬉しくなって、先生もボクを抱きしめてくれてるから、それも嬉しくて、ちょっと眠くなっちゃった。

 ちょっとだけ、寝ようかな。


「うるまくん、眠くなっちゃった?」
 うるま君は私の腕の中で体重を預けてくれている。私は子供が大好き。この重さも心地いい。私を丸ごと信頼してくれているんだ。
 私はうるま君のお母さんにもう一度電話を繋ぎ、うるま君の様子を報告した。それと、さっきのことも話しておかなきゃ。
「おかあさん、うるま君、話すだけ話して寝ちゃいました」
「ホント?すみません。でもうるまは本当に優梨先生が大好きみたい」

 うるま君のお母さんはもうこちらに向かっているようだ。お母さんが働いている職場は学校にも自宅にも近い。きっとうるま君のためにそうしているんだろう。

「それで、先ほどの話なんですが」
「子供たちの体が透けてる、ってことですね?」
「はい、私も全員のことは分からないんですけど、何人かは知ってる子たちだったんです。それで、その子たちに共通点があって」
「共通点?」
「はい、実は・・」

 その子たちの共通点。それは、入学式からこの1ヶ月と少しの間に、全員が学校で体調不良になっているのだ。
 原因は様々、朝礼で倒れる、体育で転ぶ、友達と喧嘩する、など。
 その後、全員が保健室に行っていた。そして保健室から帰ると、全員が元気になっている。
 うるま君は、その子たちの体が「透けている」と言う。

「おかあさん、今うるま君は眠ってしまっています。おかあさんが来るまで保健室で寝かせようかと思って近くに来ているんですが、そのことが気になって」
 電話口でうるま君のお母さんが言う。
「優梨先生!うるまを起こしてください!あの子には私が・・いえ、何かあれば分かるので、すぐに!私ももうすぐ着きますから!」
「分かりました、ではお待ちしています」

 私はお母さんの言うとおり、うるま君を優しく起こした。
「うるまくん、うるまくん、起きて。目を覚まして。おかあさんがもうすぐ来るってよ?」
「うん、優梨先生?」
 うるま君は目をこすりながら私を見上げ、そして私の背後に目をやった。私ではないものを見つめているようだ。
 瞬間、私はその場の空気が凍り付くのを感じた。低学年はもう帰る時間とはいえ、小学校には高学年もいる。先生たちもたくさんだ。なのに・・

「静かだわ。ううん、なんの物音もしない。誰も、いない?」

 見回すと私とうるま君だけ、廊下に取り残されたように感じた。心なしか廊下の光量が減り、うす暗くも感じられる。
 ふと、うるま君が私の手を引くのを感じた。
「優梨先生、あそこ、あそこにみんながいるみたいだよ?」
「みんな?みんなって、あのみんな?」
 うるま君が指差す先、そこは保健室だった。
 私は気持ちを集中してうるま君の指差す先を見つめる。なんだろう?そこには、子供たちに感じる生気のようなものを感じる。

-あそこに、うるま君が透けているという子たちの生気が、集まってる?

 そのとき、腕の中にいたうるま君の表情が変わり、とっさに私の後ろに隠れた。
 その目には涙が溜まっている。同時にその目は、一点を凝視している。
「せんせい、ゆうりせんせい、あれ、こわい」

-いけない!なにかいる!!

 そう思ったとき、声ではないなにかが私の頭に響いた。

“なんだぁ、なんだぁおまえはぁ、おまえいいもんもってんだなぁ”
“でもそれよりなぁ、そいつなぁ、すげぇなぁ、ほしいよぉ、そいつのちから、ほしいよぉ”
“おまえのうしろの、そいつなぁ、よこせよぉ、よこせよぉ”

“じゃますんならおまえ、死なす”

 私の膝はがくがく震えている。声を出そうにも恐ろしくて出ない。なんなの?これは!
 私は後ろにいるうるま君に向き直り、しっかり胸に抱きしめた。

-この子は、この子だけは、私が守る!!

 私の背中に、何かが覆い被さってくるのを感じた。
 私の胸の中で、うるまくんが叫ぶ。
「おかあさん!おかあさん!!」

-大丈夫、うるまくん、私が守る。おかあさんが来るまで、待ってね。

 私は無意識に、私の背中から覗く何かを殴りつけていた。
 私の拳に、なにかがひしゃげる感覚が伝わる。
 背中から手が伸びてくる。それを握りつぶす。
 なにかが潰れる感覚が手のひらに伝わる。

 そこには何もいない、はずなのに。


 私は学校に到着すると、保健室に走った。何事もない普通の小学校。下校している子供たち、挨拶に応える先生。何事も、ない。

-違う!うるまに張った結界を誰かが壊そうとしている!急がなきゃ!

 私がうるまに張ったのは、うるま自身を守ると同時に、怪異が触れれば私に伝わる術を入れた結界だった。そしてうるまは、優梨先生と保健室のそばにいる。しかし今のところ、学校にはなんの異常もない。

-何もない、おかしい。

 だが、保健室に向かう廊下に出たとき、何かの壁に当たる感触があった。だが、廊下には誰もいない。見た目はただの廊下だ。

-これ、結界!!

 私は瞬間的に霊気を高め、両手のひらを見えない結界に押し当てた。
「感じる!こんなもので!!」
 私は結界を突き破り、前につんのめる。と、子供たちの、先生たちの、様々な小学校の喧噪が消え、薄暗い空間に放り出された。

 そこに、優梨先生とうるまがいた。

「優梨先生!」
「おかあさん!」
 優梨先生はうるまを胸に抱いて怪異の瘴気に耐えている。
 その背中には、何匹もの子鬼が群がっている。
 優梨先生の顔がゆがむ。そしてしっかりと握りしめた拳で、肩口からのぞき込む子鬼の鼻面を殴りつける。子鬼は一瞬ひるむがすぐにその腕を伸ばし、うるまを掴もうとしている。
「優梨先生、先生にはこれが見えるのね?」
「は、はい、少しだけ。でも、こんなにたくさんでは私にはもう」

-優梨先生、やっぱりあなたには力がある。それも結構な力持ちよ。

 私は優梨先生とうるまをかばうように瘴気に立ち塞がり、その出所を探る。

-あそこだわ。瘴気の出所。

 そこは、保健室だった。その閉まっているはずの扉から、濃い瘴気と共に子鬼がぞろぞろと這い出てくる。
 私は素早く優梨先生の背後に回り込むと、両手の平を顔の前で合わせ、息を吹き込みながら霊力を練り上げる。その手のひらを先生の背中に打ち付けた。

「はいっ!!」

 その瞬間、両手のひらから霊気が吹き出し、爆発的に盛り上がる。その霊気は優梨先生の背中に取り憑いた子鬼を一瞬で霧散させ、更に優梨先生とうるまを包み込み、巨大な結界を形作った。

-よし、これでひとまず。

 私はその勢いそのままに、自分の体にも霊気を纏わせ、保健室に向き直った。
 子鬼はまだぞろぞろと出てくる。赤鬼とか青鬼ではない。数種類の絵の具を中途に混ぜ合わせたような色。鮮やかさは微塵もない、暗い、不快な色。
 目はあるべき場所に無い。ただ、頭から生えた角のようなものが辛うじて鬼と呼べる特徴だ。

 -こいつらは相手じゃない。

 私は大きく両手を広げ、そして顔の前で合わせた。それは神殿に向かう柏手のように。

 パンっ!!

 体に纏わせた霊気は音と共に前方に飛び、目の前まで迫っていた子鬼共を霧散させる。私はその隙に保健室の扉を開け、中に飛び込んだ。

 うぐっ!!

 体が入り口に押し戻される。保健室は濃い瘴気の塊に埋め尽くされている。保健室の奥に溜まった一層濃い瘴気から、今まさに子鬼が這い出しているところだ。
 私は霊気を限界まで広げ、瘴気の元から出てくる子鬼を押さえた。

-あとは、あの本体を。

 瘴気は子鬼を出さなくなった分本体に集まり、更に濃く凝縮されていく。その中におぼろげに見えるのは、保険教諭の斉藤先生だった。
 机に突っ伏している斉藤先生は、瘴気を自分に取り込んでいるように見える。

-子鬼ではなく、自分が出るつもりか。

 斉藤先生は突っ伏していた顔をぐるりと回し、私を見た。その目は人のものではない。白目は充血しているのに、黒目は白く濁っている。

-死んだ魚。

 瞬間的にそう思った。
 斉藤先生は頭を上げ、上から吊られ、引っ張られるように立ち上がった。まるで重力に逆らうように。肌は青白く変色し、だらりと下げた両腕をゆらゆらとする様は、首を吊られているようだった。
 前に見たときは華奢な女性だと思ったが、その白衣の胸元は、はち切れそうに膨らんでいる。その膨らみは、腹まで垂れ下がっているようだ。

-こいつ、そうか。チーノウヤか。

 チーノウヤ、それは“乳の親”という怪異だ。チーノウヤは子供に強い執着を持っている。伝承では、幼くして亡くなった子供を墓の中で育てる怪異、あるいは子供を愛するあまり、生きている子供を水や墓に引きずり込む怪異とも伝えられている。
 だが、本来は自分の子供を死んでも守ろうとする、悲しい母親の執念が生んだマジムンだ。

-こいつは母性愛の塊、それなら。

 私は両手をチーノウヤに向けて開き、言葉を掛けながら近づいた。
「あんた、チーノウヤだね。どこで子供を亡くしたの?悲しかったねぇ。辛かったねぇ。だから子供がたくさんいる小学校に来て、みんなに好かれてる保健室の斉藤先生に取り憑いたんだねぇ」
 チーノウヤは私を見ながら苦しげに口を開け、何かを伝えようとしている。
「たくさん子供がいるから、あんたの力はこんなに強いのかい?でもねぇ、このままじゃ、あんたが大好きな子供たち、みんな死んじゃうよ?それでいいのかい?」
 パクパクと口を動かすチーノウヤだが、声は出てこない。いや、絞り出すような声が、少しだけ聞こえてきた。

「・・・が・・・・ち・・・・が・・・」
「なんだい?聞いてあげるよ」

 もう少しだ、私の両手をチーノウヤの乳房に当てて、ありったけの霊気を入れれば、それで終わる。乳房は母親の慈愛の象徴、斉藤先生に取り憑いているチーノウヤの力の源だ。
 あと少し、私は瘴気に押されながらも歩を進め、あとほんの少しのところまで、両手のひらが胸に届く距離まで進んだ。
 その時、苦しげだったチーノウヤの声が、保健室に響いた。

「ちがうわ!この間抜け!!」
 その声は、男の声だった。

-こいつっ!!チーノウヤじゃ、ない!

 斉藤先生の胸元まで届いていた私の両手を、斉藤先生は掴み、強く引いて乳房の上に置いた。
「どら!お前の力、入れてみろ!!」

-っ!やってやる!!

 私は両手のひらを合わせ、そして指を組み合わせて複雑な印を結ぶ。私の体を包んでいた霊気は一瞬のうちに膨れ上がり、そして手先に収束した。

「どぅあーーっ!!」
 魂魄の気合いと共に、収束した霊気は斉藤先生の乳房に突き刺さる。
 斉藤先生を包んでいた瘴気は、体を貫く霊気と共に霧散した。
「や、やった?」
 斉藤先生は確かにチーノウヤに取り憑かれていた。そして今の一撃でチーノウヤは祓われた、はずだ。
 俯いていた斉藤先生の顔がゆっくりと上がる。その目は、保険教諭、斉藤先生の目だった。
「・・わ、わたしは?」
「やったわ。斉藤先生、大丈夫?」
「は、は!」
 斉藤先生の目は、私の後ろに釘付けだ。私は背後にいやな気を感じて振り向く。
 そこには、うるまを抱えた優梨先生がいた。チーノウヤの両腕が、優梨先生の胸元に入り込もうとしている。
「だ、だめよ!優梨先生!がんばって!!」
 優梨先生はかなりの霊力を持っている。それに子供を守ろうとする気持ちは人一倍強い。責任感もある。その優梨先生が心を奪われないように必死の抵抗をみせる。だが、それも続かない。
 優梨先生の胸が異様に膨れ上がってきた。
「だめだ、チーノウヤになる」

-でもおかしい、さっきので祓えないなんて、チーノウヤなのに、強すぎる。

 優梨先生はついにがくっとうなだれ、そして上げた顔、その目は、死んだ魚の目だった。
 優梨先生の手がうるまの首に回る。優梨先生を見上げるうるまの目にみるみる涙が溜まる。

「あーーー!かあさん!あーーーーー!ゆうりせんせいーー!!」
 必死に叫ぶうるま。その時、うるまの体はまばゆい光に包まれ、優梨先生の体からチーノウヤを吹き飛ばした。
「はっ!!わたし、いまなにを」
 正気に戻った優梨先生は、うるまの首に回した手を離し、本能的にうるまを抱きしめた。
 うるまの体を包んでいた光はすでになく、泣きじゃくっている。
 私はつかの間ホッとした。うるまが自力でチーノウヤを祓ったのか。

-だけど、強すぎる力を使えば、うるまは・・

 考える間、隙が生まれた。私は後ろから巨大な瘴気に包まれた。
「ががっ!!」
 とっさに印を結び、霊気を高めて抵抗するが、すでに瘴気の塊が胸に入り込んでいる。くるしい、胸が締め付けられる、うるまの姿が愛おしい、自分のものにしたい。
 違う違う!うるまは私の息子、可愛い私の宝物、お前のものじゃ、ない!
「な、舐めるな!!チーノウヤごとき!!」
 私は印を結んだまま手を広げ、高まった霊気を両手のひらに集中、自分の胸に叩き込んだ。
「あーーー!!あーーーーー!!」
 私から離れた瘴気が黒い塊に結晶していく。それは人の姿。それは、女に見えた。

-チーノウヤ、今度こそ、やったか。

 私は目の前の女に集中し、霊気を練り上げる。

-ここで決める!!

 その瞬間!私の霊気は肩から腰に掛けて切り裂かれた。
「っ!っつ!」
 体が切れたわけじゃない、霊気が切られたのだ。だがチーノウヤは目の前だ。後ろにいるのは?
 振り返った私の前には、目の前にいたチーノウヤの瘴気とは比べものにならない大きさの瘴気が立ちのぼっていた。
 瘴気は次第に形を成し、人型となる。頭とおぼしき位置に爛々と光る両目が見えた。鼻はよく分からないが、口はある。大きく開けている。瘴気は更に収束し、人型を際立たせていく。その頭のシルエットは、坊主。そして、両耳がない。

「こいつ!ミミチリボージか!」

 ミミチリボージ、耳切坊主と書くその怪異は、女に取り憑き、子供を呪うマジムンだ。元は徳の高い高僧だったものが、俗欲にまみれてその手を汚し、悪逆の限りを尽くしたと伝えられている。そしてその報いで討ち取られる際、両耳を切り取られたという。
 元々高僧であったミミチリボージの力は強い。その力は古くから恐れられ、唄にも歌われて伝承されるほどだ。

 巨大なミミチリボージの瘴気は人型に結晶した。その両手に刃物を持っている。

-包丁か?いや、あれは鎌だ!
-まずい、目の前にはミミチリボージ、それにチーノウヤもまだ祓えていない。
-あのチーノウヤ、こいつと一体化していた?いや、チーノウヤは本来優しいマジムンだ。こいつに、ミミチリボージに憑かれているんだ!

「ふん!なら話は早い!!まずお前からだ!」
 私は足を開き、両手を広げた。ありったけの霊気を体に纏い、両手の指でそれぞれ印を結び、霊気の刃を作りだした。
「だぁーー!!」
 私は前のめりになりながら突っ込む。目の前に立ち塞がるミミチリボージの口に、霊気の刃を突き立てる。
 ミミチリボージは両手の鎌で私の霊気を切り裂く。だが、濃く練り上げた私の霊刃は切れない。
「がぁーーーー!!」
 霊刃が貫いた真っ黒な顔に、刃以上の大穴が開く。そして次に、頭が吹き飛んだ。

-まだだ!!

 私の耳に、優梨先生の声が響いた。
「おかあさん!!」
 とっさに振り向くと、優梨先生の体にチーノウヤが取り憑こうとしている。
「また!こいつ!!」
 優梨先生に走り寄る私は、また後ろから切られた。それも脳天から真一文字に、そして、胴体を横から輪切りに。ミミチリボージはまだ祓えていないが、ダメージはあったはずなのに。それにこれは・・ひとりじゃない!
「がぁ!!」
 私は悲鳴を絞り出した。血は出ない。だが、霊気がずたずたにされた。

-なんで?ふたり?さっきのヤツじゃないの?

 息も途切れ途切れで、そいつを見る。
 私を切ったのは、やはりミミチリボージだ。だが、瘴気の塊は3体分。「ま、まずい」
 私の脳裏に、このマジムンの伝承を唄った歌詞が浮かぶ。

 ウフムラウドゥンヌカドゥナカイ
  (大村御殿の角のところに)
 ミミチリボージヌタッチョンドー
  (耳切坊主が立っているよ)
 イクタイイクタイタチョウガ
    (何人立ってる?)
 ミーチャイユーチャイタチョンド
  (三人四人、立ってるよ)
 イラナンシーグンムッチョンド
   (鎌や刀を持ってるよ)

-だめだ。伝承のとおりなら、ミミチリボージは四体。もう一体いる。
-そうか、チーノウヤ。あいつの中に、もう一体いるんだ。
-ミミチリボージに取り憑かれていた。だからあんなに強い。
-気付くのが、遅かった。
-逃げるべき、だった。

「うるま」
 私はひざまずき、息子の顔を見る。
 うるまは泣きながら、私に手を伸ばした。
「かあさん、かあさんかあさん、かあさん!!」
 チーノウヤが優梨先生に迫る。次に取り憑かれれば、祓うのは困難だ。
 優梨先生がうるまを庇い、その胸に抱きしめ、そして叫んだ。
「だめよ!触らせない!!この子は私が守るの!!」
 突然、ふたりに迫っていたチーノウヤの動きが鈍り、天を見上げて叫ぶ。
「が、がが、ががが!がぁーーーーー!!!」
 チーノウヤを形作る瘴気から、更に大きな瘴気が離れた。
「あ、あれは、四体目のミミチリボージ!」

-うるまを胸に抱く優梨先生の姿に、チーノウヤが応えたのか!

 チーノウヤの体が優梨先生を包む。取り憑こうとしているのではない、逆だ。優梨先生の霊気がチーノウヤを取り込んでいるんだ。

 優梨先生の霊気が膨れ上がった。

-大きい!優梨先生とチーノウヤの霊気!だけど、まだ足りない。

 優梨先生とチーノウヤの霊気が四体目のミミチリボージからうるまを守っている。だが、四体目はその両手に持った包丁で、ふたりの霊気を切り刻む。
「うっ!うあーー!!」
「ががが!がぁーーー!」
 人間とマジムン、ふたりの霊気では強大なミミチリボージには敵わない

「うるまーーー!!」
 私は叫んだ。同時に、うるまの両目が見開かれ、そして輝く。
「うあーーーーーーーー!!」
 うるまは再び、その体に輝く霊気を纏った。
 その力は、優梨先生とチーノウヤの霊気と混ざり、瞬間的にミミチリボージの瘴気を吹き飛ばす。

 四体目のミミチリボージは、消え去った。

「やった、うるま!」
 私にはもう、あまり力が残っていない。だが2回も霊気を放った小さなうるまに、これ以上の負担は掛けられない。子供の身で霊気を使い果たせば、魂が散って昏睡する。それどころか、もう目覚めないかもしれない。
 マブイ(魂)を落とすのだ。

 ミミチリボージはあと三体。もう、残す手はひとつだ。
 私は立ち上がり、三体のミミチリボージに立ちはだかった。残る霊気全てを体に纏って。
 ミミチリボージたちは私に群がる。両手に持った鎌で、そして包丁で、私の霊気を切り刻んでいる。
 私はその全ての攻撃をあえて受けた。その代わり、ミミチリボージの瘴気も、私の体に取り込む。
 最後の一手、私は、私の魂を差し出すのだ。私の魂は、人の魂の形を保てなかった。

「私は、ワタシはこれから、マジムンに、なる」

 ワタシの体は崩れ落ちた。だがそこにはまっすぐ立つワタシがいる。霊気と瘴気が混ざり合ったワタシの姿だ。
 ワタシの体は、肉体の時と比べものにならない大きさに膨らむ。それはもう人間のものではない。
 ワタシは両手を広げ、三体のミミチリボージを抱え込んだ。ミミチリボージの瘴気は強いが、その瘴気をも自分のものとしたワタシには敵わない。だが、そこまでだ。

 ワタシは優梨先生とうるまに顔を向けた。

「ワタシが、押さえる。こいつらを。ワタシが、押さえるから、優梨先生」
「・・・に・げ・て」

 ワタシの心が絞り出した音ではない声を、優梨先生は受け取った。即座に立ち上がり、うるまを抱いて駆け出す。
 優梨先生は走った。その体には、自身の霊力と共にチーノウヤの力も纏っている。優梨先生の体はほのかに輝いていた。
 優梨先生は走る、信じられないほど速く、わんわん泣いているうるまを抱きしめながら。
 ふたりは、異世界と化した廊下の結界を突き破った。

 ワタシは走り去る優梨先生の背中を見つめ、最後の言葉を掛けた。

「うるま、うるま、ワタシの可愛い、カワイイ、コ」
「アンマークートゥ、アンマークートゥ、かあさんのことだけ、みておきなさい」
「かあさんがずっと、まもるから」
「ミミチリボージから、オマエヲ、マモルカラ、ナイチャ、ダメよ」

「ナチュルワラビヤミミグスグス」
 (泣く子は耳を、切られるよ)
「ヘイヨウヘイヨウナクナヨ」
 (さあ、ないちゃだめ)
「ヘイヨウヘイヨウナクナヨ」
 (さあ、泣かないで)

 遠ざかる優梨先生の肩越しに、うるまが顔を出している。ワタシに手を伸ばして、涙で頬を濡らしている。

「アア、カワイイ、コ、ワタシノ・・・ウルマ」
「かあさん!かあさんかあさん!!」

 ウルマノコエガ、ワタシヲヨブコエガ・・・・キコエタキガ・・シタ。


「うるま君、学校はどう?楽しい?」
「うん、おかあさん、楽しいよ?1年のときの友達がまた一緒だし!」
「そう、良かったわぁ、うるま君も2年生だもんね!またお友達が増えるわね!」
「そうだわ、うるま君、ひまちゃんなんだけど・・」
「え?ひまちゃん?」
「うん、ひまりちゃん」
「それ、誰?ぼく、ひまちゃんって知らないよ?」

 あのとき、僕の言葉に母は寂しそうな表情を浮かべていた。
 そうだ、僕はあの頃、母はおかあさんだと思っていた。いや、つい最近までそう思っていたんだ。
 でも今はもう知っている。ひまりちゃんは幼なじみの同級生。あいつに憑かれて体が透けていた。

 母は僕の先生だ。小学1年生の時の、あいつから僕を命懸けで守ってくれた、担任の先生。母には強い力がある。その力で、あれからずっと僕を守ってくれていた。そして母の中のマジムン、チーノウヤも、母の一部になって僕を守っている。

 今はそれが分かる。

 母の名前は、真鏡優梨まきょうゆうり
 東京で過ごした母との日々、沖縄に住んでいたことだけは覚えていたけど、あの頃のことは霧の中の出来事のようにおぼろげだった。

 どうして忘れていたんだろう?
 僕の本当のおかあさん、名城明日葉なしろあしたばのこと。

 僕が覚えていたのは、母の胸の温もりと、あの言葉だけだ。

「アンマークートゥアンマークートゥ、おかあさんのことだけ、見ておきなさい」

 剣道部の監督、安座真さんが僕の力を見抜いて、そしてこの力を引き出してくれた。そして僕は、全てを思い出した。

「うるま君、今日は剣道部の朝練でしょ?もう出ないと。はい、お弁当」
「ありがとう、母さん。じゃ、行ってくるよ」

 母は6歳の僕を引き取って、そして東京に移り住んだ。沖縄では僕を守り切れないからだ。結婚もせずに僕を育ててくれたのは、きっとチーノウヤの影響もあるんだろう。
 チーノウヤは、母性の塊だから。

 僕が全てを思い出したことを、母はまだ知らない。

 ありがとう、母さん。
 でも、もう少し強くなったら、僕は沖縄に帰るよ。
 おかあさんの、名城明日葉の魂を、あいつらから解放する。

 もう僕は、決めたんだ。
 もっと強く、ならなくちゃ。

 もっともっと、強く。

 僕は名城明日葉と優梨先生、ふたりの母の子供。

 真鏡漆間まきょううるまだ。



逢魔の子 ふたりの母  了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?