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【観劇レポート】ラ・ボエーム、和解のなかの分裂【5月5日公演】

文:相馬巧
写真:岩﨑梨瑚

なぜ男と女はこれほどまでに異なる世界を生きているのか。ジャコモ・プッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》に登場する男女にとって、この隔たりは恋の破綻を生む決定的な要因となった。たしかに、そんな彼ら/彼女らに寄り添う音楽は儚く美しく、まるで現世の葛藤を忘れさせるかのように響く。しかし、あのボヘミアンたちの屋根裏で、ミミは死んだ。彼女は、そして彼女を死に至らしめたロドルフォは、いかにして救われると言うのか。

 オペラ企画HAMA projectが4年ぶりに実現させた本公演《ラ・ボエーム》の舞台がこの作品に投げかけた問いは、それほどに大きい(2023年4月30日・5月5日、池袋・としま区民センター:多目的ホール)。指揮は現在新国立劇場の副指揮なども務めている濱本広洋、伴奏は一般大学の出身者等で構成された弦楽オーケストラ(第2幕と第4幕の幕切れで管楽器と打楽器も登場)が担当し、公演二日目のこの日はオーケストラとともに角田貴子が伴奏のピアノを弾いた。ロドルフォ役の藤原拓実は特に中音域のアンサンブルでの歌の滑らかさで目を引き、ムゼッタ役の和田奈美は実に強気な女性像と歌の安定感によってこの日最も説得力ある立ち回りを見せた。演出とマルチェッロ役の両方を務めた伊藤薫は全体を俯瞰するような振る舞いでロドルフォを諫め、ミミ役の衛藤樹もまた儚げにならず聡明さを保つ女性を演じた。

5月5日公演・第2幕より

貧しさのために男は、病に沈む恋人に十分な治療を与えることができず、やがて女が命を落とす。今回の演出のロドルフォは一貫して、未熟である余りに現実を直視することが出来ない弱い男性として描かれ、最終的にミミを死に至らせた彼の罪深さが弾劾される。第4幕の終盤で、彼は恐怖のあまり、床に臥すミミの傍らに行くことすらできない。幕切れに至っては、孤独に取り残されたまま突っ伏し、”Mimi!”と叫びながら泣き崩れるだけだった。この舞台では冒頭から、黙役の老人(喜多村泰尚、ベノア役/アルチンドロ役も兼任)が舞台に立っていたが、これは言わば、深い後悔に沈み、いつまでもミミを想い続ける老ロドルフォの姿だろう。その亡霊のような姿に呼応するように、舞台面は全幕を通して黒い背景に5枚の大きな白布を吊り下げた、簡素ながら抽象的なものであった。

5月5日公演・第4幕より

 その意味で、演出の伊藤が描いたロドルフォは、この登場人物が元来持っているミソジニー(女性蔑視)的な性格を拡大したものに映った。女性を恋い慕いながらも相容れないものとして遠ざける自らの微かな倒錯に気付くことができず、そして老いてもなお、過ちを悔いながら舞台を亡霊のようにさまよい続ける。いつまでも、彼のなかで「女性=ミミ」は、均しく一体であることを望みながら、異質なものであり続ける。そんな彼の未熟さと対照的に、この舞台のふたりの女性、ミミとムゼッタは賢明で気丈な女性として登場している。 

だがそれでも、プッチーニの書いた音楽はやはり美しい。このことは《ラ・ボエーム》という作品を考える上では大変に重要な問題で、どれだけ台本が相容れぬ男女の隔たりと不遇さを描こうとも、得てしてプッチーニの音楽は、そうした要素をすべて覆い隠してしまいかねない。実際、世界の歌劇場の《ラ・ボエーム》上演の多くで、音楽に陶酔させることで物語の悲嘆さを忘れさせるような工夫がなされているのではないだろうか。おそらく演出の伊藤は、そうした傾向に対抗するために、ロドルフォの罪深さ、そして女性たちの気丈さというふたつの面を執拗に描いたのではないか。
しかし、この日もやはり《ラ・ボエーム》の音楽は美しく、伊藤の描いたロドルフォの悲哀もまた、「ロマンティックな恋愛劇」のうちに取り込まれていた様に見えた。この結果をいかに考えるべきか。

舞台奥は喜多村泰尚(ベノア役、アルチンドロ役、老人役/両日出演)、舞台手前左から伊藤薫(マルチェッロ役/5月5日、演出)、藤原拓実(ロドルフォ役/5月5日)、四方裕平(コリーネ役/5月5日)

 すでに述べたように、《ラ・ボエーム》という作品には、物語と音楽のあいだに決定的な矛盾がある。男と女の相容れぬ運命の物語がポリフォニックに構成された音楽に取り込まれると、まるでそこに男女の相違が消えて無くなったかのように流れ出す。第3幕終盤のミミとロドルフォの二重唱が、得てして別れ話の場面には見えないことなどその典型である。伴奏の束のなかに登場人物たちの歌が入り込むと、そのポリフォニーの内部で両者は同じだけの重さを持って旋律の網目を作り出し、様々な相違を抱えていた部分の総体は、やがてなんの矛盾も無いかのように振る舞うのだ。この音楽のなかでミミとロドルフォの差異は、音高のほかにほとんど無くなってはいないだろうか。

左から衛藤樹(ミミ役/5月5日)、藤原拓実(ロドルフォ役/5月5日)

 だからこそ演奏は、このポリフォニックな構造の音楽を物語のなかに投げ返す必要がある。そして今回の公演の角田貴子のピアノの音は、ある程度その役割を担うことができていたように見えた。角田は、弦楽オーケストラのなかでボーカル・スコアに音を足すかたちでピアノを弾いていたが、弦によって音が補強され、伴奏全体は音の増幅されたピアノ伴奏の様相を呈していた。しかし、だからと言って単調にはならないのは、角田が本来のオーケストラの楽器の音色を明確に弾き分けていたことによる。木管にはふくらみを、金管にはハリのある音を、そして目の前にいる弦楽器に音を密着させることで、ポリフォニー内部にある個々の部分の差異を明るみに出していた。これによって、通常のオーケストラ伴奏に比べて構造はずっと明確になり、また室内楽的な響きとなることで歌手の旋律を覆い隠すことがない。いわば、分厚い音の壁によって物語の悲嘆さを覆い隠すのではなく、伴奏の線の束が歌に寄り添うのだった。余韻を残しつつも機敏なリズムで進める濱本広洋の指揮のもと、オーケストラもよくドラマティックな響きを出していた。

はまぷろ管弦楽団(指揮:濱本広洋、コンサートマスター:伊澤拓人)、ピアノは角田貴子(5月5日)

そのように考えて行くと、《ラ・ボエーム》という作品の矛盾を解決させるためには、演出ないし演奏、もしくはその両方に、ひとつの「危機的criticalな状況」を作り出す必要があるのではないか。つまり、ロドルフォの後悔と懺悔をより極限的な状況に置き、さらには《ラ・ボエーム》のポリフォニックな音楽をある完全に異質な旋律の束として捉えることである。そうして、既存のかたちを一度粉砕し、作品自体を再構成する必要があるのではないか。このことは、今回の上演の方針と決して矛盾していない。

 だが、少なくとも私は、「危機的」なまでにポリフォニックな《ラ・ボエーム》の演奏に出会ったことがない(世界の歌劇場を探せば、そうした試みがなされているのかもしれないが)。それでも演出に関してなら、模範となり得る舞台をひとつ挙げることができる。2017年にパリ・オペラ座で初演されたクラウス・グート演出の《ラ・ボエーム》である。ここで舞台の設定は、19世紀のパリから謎の惑星に不時着する宇宙船に移し替えられ――明らかにスタニスラフ・レムの『ソラリス』をオマージュしながら――、そこで意識朦朧とするボヘミアン(宇宙飛行士)たちの目の前に地球に置いてきた追憶のミミとムゼッタが現れる、という演出だった。第2幕最後の軍隊の行進はミミの葬送の行列に変えられ、いわばそこでロドルフォは、地球にいた頃の自らの過ちを象徴する女性に出会うのだ。

一見奇抜なだけの舞台に見えるかもしれないが、しかしグートの手腕は作品の本質を鋭く突いていた。傑出していた点は、第4幕の幕切れの”Mimi!”というロドルフォの叫びの場面にある。謎の惑星に不時着したロドルフォは、荒涼とした大地の上でひとり、残りの酸素も尽き果てた自らの最期に、ミミの死に再開する。故郷を離れて辿り着いた惑星で、強烈な後悔に苛まれながら息絶えようとする彼は、”Mimi!”と叫ぶのだった。その極限的な感情のなかで初めて、ロドルフォは他者としてのミミを真に受け入れられたのではないか。

もちろん、それだけ切迫するリアリティを持った舞台を作るには莫大な資金が必要なのだし、グート演出を参照してHAMA projectの舞台を批難するつもりもない。というのも、およそ世界で上演されている《ラ・ボエーム》の舞台のほとんどが、この「危機的」な状況を作り出せていないのだから。それでも我々は、引き裂かれた男女の運命を偽りなく和解させなくてはならない。
そしてここで、第3幕の最後にあるムゼッタとマルチェッロのケンカの一場面が思い出される。静かに別れを歌うミミとロドルフォのカップルと対照的に、このふたりは口汚く互いを罵り合う。

―Vipera !(毒蛇がっ)
―Rospo !(なによ、ヒキガエル!)
―Strega !(魔女め!)

左から和田奈美(ムゼッタ役/5月5日)、伊藤薫(マルチェッロ役/5月5日、演出)

マルチェッロは、ムゼッタのことを自らとは異質な「魔女」として見ることができた。ジュール・ミシュレの中世ヨーロッパの世界を描いた本『魔女』に登場する、あの若く美しかったがために魔女と疑われ、村を追い出された末に森で異教の神々と出会うあの女性のように。その意味で、ムゼッタは自ら魔女の衣装を着ようとするし、マルチェッロもこのことを認めている。少なくともロドルフォとミミの関係よりはずっと健全に、このふたりは異質な者同士でありながら互いを分かり合おうとしているのではないか。この日、和田奈美が演じたムゼッタの生き生きとした強さは、そのことを教えてくれた。


公演情報


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