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非日常の中の日常

その耳元に重厚なハーモニーがまっすぐのびていると気づいたのはいつのことだったか。

夜の空気にはホワイトノイズが混じっている、と思っていたそれは、どうやら中音域から可聴領域を超えるあたりまで余すことなくブリリアントな、耳鳴りだったらしい。
蝉の鳴く声、と喩えられるのを、そういえば聞いたことがある。

蝉の声は倍音豊かだ。ひとりでも何個体も存在するかのようにみずから共振し増幅して、夏を焼き付けていく。
生命を謳歌している、と表現するのは人間の勝手な押し付けだろう。

蝉がこぞって鳴くあの夏も、もう真裏ではなくなった。春なのだ、と思う。
なんにせよ私の耳には、まだ蝉の声は早すぎる。

……そんな耳障りとしか言えないような「耳鳴り」の存在は、一方で、安堵をもたらしているのかもしれなかった。
いつどこにいても、同じ音を聴いていられる。それが鳴っている限り、私はひとつづきの世界の上を歩いていると思える。

私は、音が急に鳴り出したり、予告なしに耳から情報が入ってきたりすることをとても苦手とする。
視覚情報も聴覚情報も繊細な表現や心揺さぶる作品も。とにかく意識と心がごっそり持っていかれてグッタリしてしまう。
これはHSPという特性を持つ人にはよくあることだと自覚はしていた。
しかし、最近はそれが急に「消える」時にもストレスを感じるということに気づいた。

まったく、難儀なことである。

人と関わることも、気持ちとしてはそうしたいのはやまやまなのだが、そこに割くことになるいちいち膨大な精神力に対して怖気付いてしまう。
結果、内向的なタイプということになるらしい。

定義なんかは、きっとどうでもいいことなのだろうけど。

耳鳴りも、苦手といえば苦手だけど、でも慣れてしまえば「急に」変化することはない。
それどころか、もしかしたらヴェールのように自分を守ってくれるものになるかもしれない、とさえ思う。聴覚過敏者用のイヤホンには、ホワイトノイズを流すものもあるそうだから。
(なんとなくだけど、耳鳴り用の「ほぼ逆位相サウンド」を鳴らすイヤホンもあるのだろうか?)

外界はなんて、刺激に満ちているのだろう。
それが苦痛でもあるけれど、たしかに、エキサイティングでもあるのだ。
外界が私にとって取るに足りない刺激レベルだったとしたら、私は音楽の世界に入っていなかっただろう。
歌を歌っていることはなかっただろうし、文章を書くこともなかったのだろう。

私の「日記」は、我ながら、どこかどろりとして恐ろしいものに半身を突っ込んでいるのだろつな、という感触はある。
そのことを表に出すべきか否か、迷ったし、いまも迷う。
ただ、自分としては特段「恐ろしいモード」について書いているつもりもない。
これが日常なので、いたたまれない気持ちにさせてしまうとしたら、それはとてもいたたまれないことだと思う。

ラーメンズという、コントやお芝居を中心に作るお笑いコンビがいて密かに敬愛しているのだが、
このお二方がかつてインタビューで答えていた(と記憶している)言葉を借りるなら、私の綴るこれは
「非日常の中の日常」
という位置づけになるのかもしれない。

#日記 #エッセイ #HSP #日常 #ラーメンズ #蝉 #春 #耳鳴り

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