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ひとのまねごとを

ときどき、乱暴なことを書きなぐってしまいたくなる。
そう、ときどきは。

まったく不気味な夢をみた。
気がつくとそれまでの暮らしから断絶され、見知らぬ女ばかりが20人ほども雑魚寝で同じ空間に眠るような場所にいる。薄暗くて、互いの顔もろくに見えない。
外に一歩出れば知りあいもいて、いつものように集まりもあって、帰りにはうちまで車で送ってくれようとしてくれるのだけど、いつもの相手に事情を話すと驚くほどあっさりとのみこんで「では、今度からは集合場所を変えた方が良いだろうかね。住まいから遠くなってしまうから」なんて言う。
どうしてそんなに物わかりがいいのだ。私の仕事は、家族は。どこにいった。

雑魚寝部屋に一人の少年がやってきて、「ぼくの体からちいさなサカナが出てくるんです」と打ち明ける。ヒフから煮干のようなものをいくつも引っこ抜きながら、女たちにそれを渡すと、女たちはとまどいつつもそれを食べる。
なぜなら、ひとりめが口に運んだからだ。
あからさまに不快な顔をしながらもその運命を受け入れている。
私ひとりだけが、それを固辞した。
睨まれはしなかったが、「あぁ」という顔をする者が何人かはいるのが見て取れた。わたしも、断ればよかった。ほんとうは口に入れたくなどないのに。そう言いたげな顔。

なんだって、夢の中でまで同調圧力と戦わねばならんのだ。
現実世界においてあまりに強く持ち続けているスタンスは、夢の中においても有効らしい。
以前よりもそういう傾向は強まってきているような気がする。つまり、昔はもっと、夢というのは思い通りにならず、恐れたほうの展開になっていくものだった。

いつか、夢は思い描いたとおりの内容になっていくのだろうか?……それも虚しい気もする。
夢を叶えたいのは現実での話であって、虚構の域を出なければ落差にがっくりするだけだ。

そんな夢を見たせいもあって、今日は随分と早くに目が覚めてしまった。
早く起きる予定であったとはいえ、あと2時間は眠れたと思うと少しもったいない気もする。そう、私は眠ることが大好きなのだ。

それで、朝からよせばいいのに、ついSNSなんて開いちゃって。目が冴えてしまった。

朝イチで、いくつもの物語の濁流に身を晒すなんてロクなことがない。不完全で不定形でむき出しで裏がある、それを楽しむツールなのだから、それなりの心の防壁が要るのはわかりきっている。まったく無防備な自分にあきれる。

ひとの営みにオリジナルなんてものはなくて、まねごとのまねごとのまねごと。新しいものはつねに掛け合わせで生まれる。目新しいものをオリジナリティと呼ぶだけで、そんなものは幻想にすぎない。
妙な夢を見ることも、朝からザワつくこともイラつくことも、この程度の現象なら既存の概念ですべて説明はつくだろう。にもかかわらず殊更に書きなぐるのは、私の学習能力の低さゆえという他無い。但し、不機嫌という訳でも無い。
むしろ、饒舌は上機嫌の証ではある。

感情が傾ぐとき、言葉でバランスを取りたがるのもまた人の常なのであれば、これは間違いなく私の「吐き出し」であり「掃き溜め」のようなもので、ついでに「実験」でもあるのだ。

自身の状態変化によってアウトプットがどのように様変わりするのかを見たい。
私が、たった今見た夢をすっかり忘れてしまう前に、その本質をどう捉えるのかということも見たい。

私、まだ寝惚けているんだろうか? 大概、寝惚けている間はその自覚がないものだ。
まねごとに興じている間もまた、その自覚がないものだ。
そんなこと、一生気づかない方が幸せなのかもしれない。
だって、この白々しい朝のカーテンのすきま、夜のつづきみたいな空気が忍び込むこの部屋の、どの細部に神は宿るというのだろう。救いなどというものはステンドグラスの内側にしかない幻想なのか。

今日も今日とて、そういう一日がはじまる。なにかをまねた、似て非なる一日が。

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