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あこがれの南で上田現に出会った話とわたくし

上田現(うえだげん)というミュージシャンがいた。レピッシュのキーボーディストで,ソロ音源も数作発表されている。元ちとせ「ワダツミの木」など楽曲提供も多数。2008年3月9日,肺癌のため死去。享年47歳。

死者をネタにした自分語り。その行為の傲慢さ,承認欲求のみっともなさはわたくしもよく分かっているつもりだ。そして彼のことを語るならもっと思い入れの深い人がたくさんいるはずで,わたくしは決して適任ではないとも思っている。…というエクスキューズを予め置いたうえで,上田現の話を今回書かせていただく。一部ファンタジーも入っている。他人の観た夢の話におおそうかそうかと相槌をうつような優しい気持ちでご一読いただければ幸いである。

原色の渦で鈍色に輝く石のような

最初は80年代末期~90年代の邦楽ロック(の極一部)昔話から始めたい。中年の昔話の引き出しは無限なのだ。過去にどこかで書いたかもしれないが,わたくしが高校生の頃初めて自分の小遣いで買ったCDは尾崎豊「街路樹」で2枚目はレピッシュの「WONDER BOOK」だ。そもそもCD自体がこの頃(80年代後半)からレコードに取って代わって市場に出始めたもので,「WONDER BOOK」は確か大学受験が一段落した時に地元のレコード店で買ったのだと思う。

80年代末期の高校生が如何にして新しい音楽の情報を仕入れていたのかという話。spotifyもない,apple musicもない,Youtubeもない,スペースシャワーTVだってなかった時代,どうやってゴールデンタイムのTVに映らない多くのバンド・アーティストを知ったか。まずはラジオ。それと深夜にローカルTVで流れていたTVK制作の短い音楽プログラム(ミュートマJAPANなど)。それから音楽雑誌。バブル前夜の潤沢なプロモーション費用によるきらびやかなグラビアやアーティストの内面を映し出した風インタビュー記事。少し時代が下ると「JUST POP UP」や新潟で言うところの「M. M. CLUB」など,こじらせた若者達のゲートウェイとなるTVプログラムもふんだんにあった。いかにバブル前夜と言えども高校生にはお金がないので,そうやって自分にしっくりくるアーティストを見つけてやっとCDを購入,ライブ・コンサートへ足を運ぶに至るのである。(当時地方住まいだった同世代の最大公約数的な音楽初体験っておおむねこんな感じじゃないかと思う)

思い出話が長くなったが,言ってしまえばこの後も全部思い出話なので諦めてお付き合いいただきたい。レピッシュの2ndアルバム「WONDER BOOK」とはそうやって出会い,すぐに虜になった。ステージではキャラの立ちすぎたフロントマン3人(MAGUMI,杉本恭一,上田現)のパフォーマンスに目を丸くしていたし,音源にはいままで聴いたことのないきらきらして攻撃的でファンキーで陰のあるおもちゃ箱のような世界が広がっていた。今にして思えばだけど,あの頃のレピッシュは直輸入ではないパンク・スカ・ニューウェーブの日本的解釈を(恐らく無意識に)やっていたのだと思う。そしてライブには深夜の音楽番組や広告費たっぷりかけた音楽雑誌の体感にして100倍ぐらいの情報量が詰まっており,わたくしは大学生になって初めて遠くの街にライブの為だけに遠征することを覚えた。こうして振り返ると「楽しい現場には全部行く」というわたくしのライフスタイルの原点はレピッシュということになる(このあと別のバンドに出会ってこの狂ったライフスタイルに拍車がかかることになるが,その話は別の機会に)。

レピッシュの作詞・作曲は杉本恭一と上田現がその多くを担っており,ひたすら陽の方向に弾けていた杉本恭一の音楽が当時大好きだったのだけど,勿論上田現が作り出すどこか陰がある世界観の音楽も同じぐらい好きだった(あと他のメンバーより少し年上で老け顔という理由でジジイ呼ばわりを受けていたところも)(キーボーディストなのにライブではやたらアンプの上など足場の悪い高いところに登りたがり観客をハラハラさせるところも)。あの頃のレピッシュといえば「原色ライブだ」なんてCMにも出演していたりしてとかくキラキラした色と音の洪水みたいな印象が強いけれど,洪水の中にモノトーンでひんやりとした,それでいて輝きを失わない世界が見えたとしたらそれは多分上田現の作りだした音楽だ。打ち捨てられたものに対する優しい眼差しもそこにはあり,全部ひっくるめてレピッシュの魅力だったと今でも言い切れる。

あこがれの場所に行く

上田現がソロミュージシャンとして活動を始めたのが1991年。通常何らかのバンドのメンバーがソロ活動を始める場合,所属バンドの音楽性と全く異なるものになるか,もしくはその音楽性を一点突破で深化させたものになるかのどちらかだと思っているのだけど,1stソロアルバム「コリアンドル」は後者だ。ジャケット写真もその音楽もモノトーンで,不穏なのに温かみもあったりしてレピッシュの世界とは別物ではあったのだけれどやはりどこか地続きで,「コリアンドル」は殊更に好きでよく聴いていた。

話変わって,90年代前半のバンド追っかけ勢が如何にして同好の士を見つけていたかという話。SNSもない,ブログもない,魔法のiらんどもtcup掲示板もなかった時代,どうやってファンコミュニティを広げていたか。まずは文通。当時の音楽雑誌には「○○が好きな人と友達になりたい」と記され住所・本名がずらりと並んだ文通コーナーというものがあったのだ。個人情報を晒して新しい友人を探すのだ,#○○好きさんと繋がりたい みたいなお手軽な仲間募集とは気合が違うのだ。時代が違うのでどちらが良い悪いという話ではないのだけれど。あとはミニコミというかファンジンというか(※何かピンときた方,本稿の主旨はそれではないのでスルーして頂きたい)。でもわたくしに限って言えば,ライブ会場で一緒にステージを観て一緒に踊り尽くすという経験を共有できた人々のほうがその後もずっと付き合いが続いたように思う。やはり女子のファンコミュニティなのでメンバーの誰々が好きとか○○派とかも多少あったりしたのだけど,レピッシュ繋がりで当時から付き合いの続いている友人には何故か上田現の熱心な(むしろ度を越えた)ファンが多い。彼女達は上田現の一連の企画ライブ「百物語」にも足を運んでいてわたくしも何度か一緒に観たし,2002年にレピッシュを脱退した後もずっと動向を追っていた。そういう思い入れの強いファンが周囲に多いからこそ,(ここまで3000字近く書いた時点でも)あの人達を差し置いてわたくしが上田現を語るのはおこがましいなという想いがある。

話を上田現の音楽に戻そう。1stアルバムの表題作でもある曲「コリアンドル」はこんな一節から始まる。

エジプトに行くのさ 砂漠が見たくなってね
でも着いちゃったのはマレーシア あこがれの南の…

いやそこ間違える!?と言いたいところだが上田現なので通常営業だ。当時音楽雑誌に載っていたソロアルバムについてのインタビュー記事で,なにぶん20年以上前なので記憶も曖昧なのだけど,上田現自身がマレー鉄道に乗って国境を越える旅をした時のことを歌ったのだというエピソードが紹介されていた。電車で国境を超えるのロマンあるな…と思って,ディテールはすっかり忘れたけれどそのエピソードだけはずっと覚えていた。

俗語としての「聖地巡礼」という言葉がある。元々は文字通り宗教上の聖地を巡り祈りを捧げる行為のこと,転じてアニメ,映画,ドラマなどの舞台となった場所に趣き何らかの想いを馳せることを広義に含む言葉。フィクション以外で分かりやすく知られた例を挙げるなら,アビーロード・スタジオの前の横断歩道を4人組(うち一人は裸足)で歩いて写真を撮るあの行為が正にそれ。宗教上の聖地の話は脇に置くとして,ポップカルチャーの聖地巡礼,とりわけ音楽のアルバムジャケットやミュージックビデオの1シーンの現地を突き止めてその場に赴くという行為,割と好きな人は多いと思うのだけどわたくしも好きで近年よくやっている。クリエイターが見た目線に自分も立てる,同じ視界を共有できるというひそやかな興奮があり,一人遊びが好きなわたくしにはもってこいの地味な趣味である(SNSにその場所の写真をアップするのはおまけというか隠し切れない承認欲求というか)。そういった聖地巡礼の概念がどこにもなかった1991年に,上田現がその音楽の中で見せてくれたマレー鉄道の車窓風景。列車はゆっくり走る。ココナッツの葉っぱが揺れる。気怠い暑さの中であてのない旅に出る,この目で見たこともない光景の中に自分が居る,そんなシチュエーションをよく夢想していた。いつかその場所に行くのだろう,上田現がかつて見た光景を自分も観るのだろう。何の予定も計画もないけれどそんなことをぼんやり考えていた。

永遠の夏を生きる人と,今はどこにもいない人

仕事で東南アジアに出張する機会がこれまでに何度かあった。毎日朝から晩までもわりと湿った熱気に包まれているうちに色々どうでもよくなる感じ,決して嫌いではなかったしむしろこの熱帯の国々が好きになれそうな気がした。シンガポールでは現地の大学生と話す機会があり「日本には四季があるの?」という質問を受けた。あるよ,冬にはどっさり雪が降るしそれが融けたら春が来るよ。ここには冬は来ないの?「来ない。四季なんてないよ。ずーっと夏」それがとてもつまらない事であるかのような口調で答えてくれた。なるほど永遠の夏とはこういうことか,と妙に腑に落ちた。わたくしには手に入れられない永遠の夏と,彼ら彼女らが観たことのない冬。一度だけ言葉を交わして分かりあえないまま,わたくしもあの人々も平行世界を生きている。

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もう10年以上も経つけれど上田現の訃報を耳にした時のことは覚えている。「現ちゃんが亡くなった。肺癌だったんだって…」古くからの友人のメールにはそれだけ書かれており,目にした瞬間足元に穴があいてすとんと落ちるような感覚に陥った。だって去年レピッシュに一時復帰してライブやってたじゃない,腰痛を理由にツアーファイナルしか参加できなくて「現ちゃんもいよいよ名実共にジジイになったな」なんて友人達と冗談を飛ばしてたじゃない。癌ってどういうこと。(後々知ったのだが,表向きは腰痛だったけど実はその時点でもう長くなかったことを上田現本人もメンバーも知った上でのライブだったとのこと。己の不実を恥じ入るばかり)

身近ではないけど長いこと聴いて慣れ親しんできたミュージシャンの死への向き合い方が今でもわたくしはよく分かっていない。親しい人や身内ならぞんぶんに弔う事も出来るかもしれない。いつかは彼や彼女がいない世界にも慣れてしまう日が来るかもしれない。人は得てして,一方的に憧れていた対象をある日突然失った時,お別れも言えず死との距離感もつかめずどうしていいか分からなくなり,ずっとその事実を受け入れることができなくなるものだ。ここ数年はレピッシュや上田現の動向を追っていなかった負い目も多少はあったのだと思う。上田現の葬儀には親交のあったミュージシャンやレピッシュのメンバー,そしてたくさんのファンが訪れたと聞いたが,わたくしは仕事を休めずかけつけることもできなかった。その年の秋にあった上田現追悼ライブには友人達と出かけてステージを眺めてみんなで大泣きして夜行で帰ってきてそのまま仕事に行き,ぼんやりした頭で「あれ,でも現ちゃんほんとにあの場にいなかったんだっけ?」とありもしないことを考えたりしていた。やはり受け入れられてはいなかったのだと思う。

それから10年が過ぎ,2018年の秋のこと。晩秋の週末の予定が空いて(※アルビレックスがJ2プレーオフ進出しなかったからです)珍しく仕事にも余裕ができた。ふと思い出す,そういえばマレー鉄道に乗って国境越えするヤツやってなかったな。それは普段は思い出さないけど時折記憶の底から不意に浮かんできて「いつか行けたらいいな」と思うだけのぼんやりした憧れに近いものだった。今がチャンスなんじゃないか。仕事以外で東南アジアに行きたいとも思っていたし,エジプトに行くとみせかけてマレーシアに着いちゃうアレをやるなら今しかないんじゃないか。もう完全に楽しくなってきて,勢いで一週間の年休を確保し往路シンガポール行き復路クアラルンプール発のフライトと宿を押さえた。マレー鉄道のオンライン予約も手こずったけど無事完了。シンガポールからクアラルンプールまで列車で旅をするのだ。地味な趣味こと聖地巡礼の海外版だ。わくわくしてきた。

どこにもいない,でも確かにそこにいる

11月末,シンガポールで行きたかったところを急ぎ足で回り,4日目の朝早くに宿を出て国境の街ウッドランズへと向かった。わたくしが20年来列車での国境越えを夢想している間にウッドランズ~ジョホールバル(マレーシア)間の路線は廃止されていて,バスでイミグレーションを通過からの鉄路に接続するシステムになっていたがそれは大した問題ではなかった。朝からの雨もあがり,もんやりと熱を持った曇り空の下,ジョホールバルからクアラルンプールまで乗り換え含めて9時間の鉄道旅が始まった。

オンライン予約ができるぐらいだからマレーシアの鉄道網も発達しているのだろうと信頼してホームに向かったが,停まっていた車両は控えめに言って30年前の磐越西線普通列車だったし出発後の風景はだいたい30年前の東長原(植生だけは熱帯雨林)と言ってよかった。年季の入った座席に身を沈めて車内を見回すと,スーツケースを引きずった旅行者なんてわたくしぐらいのもので,あとはローカルの人々がわいわいと楽しそうに話をしながら,時折スマホゲームの音を激しく響かせながら(マレーシアに音量ミュートという文化はない)乗り合わせていた。わたくしはといえばたまにうとうとしながら窓の外の変わらない景色をぼんやり眺めていた。他にすることが何もなかったのだ。ゆさゆさと風に揺れる椰子の木,低い屋根の並ぶ村,簡素な駅の簡素なホームで誰かを待っている若い家族。かつての上田現もこんな風景を観ていたのだと思う。

少し眠ったり起きたりを繰り返して曖昧になった頭で,ぼんやりと「現ちゃんはここにいるな」と思った。彼がかつて観た光景とかつて歌った世界がそこにあって,恐らくこの列車のどこか,もしかしたら通路を挟んだ隣の席にいて窓の外を眺めている。一度すれ違ってもう出会う事のない永遠の夏を生きる人達に思いを馳せている。ポケットの中でしおれていた香草を口に含んで,窓を開けて地平線に落ちる夕日に何かを叫んでいる。いなくなったけど,上田現は確かにここにいる。

(このあと何の気なしに「そういえば現ちゃんの『バオバブの木の下で暮らすとか言ってごめんなさい』みたいな曲なんだったかな」と思って不用意にスマホで検索して出てきた「Happy birthday」の歌詞に涙ぐむなどしていた。なお上記の一節は正確には「バオバブの木の下で暮らすと言って困らせたりもうしませんから」だ)

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80~90年代バンド追っかけ勢の昔話に始まり,聖地巡礼を気取って海外旅行に行って幻覚を観ただけの長い話にお付き合いいただき恐縮であるが,わざわざ海を渡ってマレー鉄道に乗らなくても上田現はいつだってどこにでも居たのだと思う。彼が遺してくれた音楽の中で,彼の目を通して見えていた光景を知っている人なら分かっていただけるかもしれない。住宅街のお祭り屋台で体に悪そうなものを食べている。北京で蝶がはばたくのを見ている。アマゾンに雨が降るのを見ている。繁華街の真ん中でケーキを切っている。ラーメン屋台を引いてユーラシア大陸を横断している。桜の花の下に立っている。ピアノを弾いている。歌っている。上田現はいつだってどこかにいる。

あの時彼にきちんとお別れを言うことはできなかったけど,もしかするとお別れを言う必要はなかったのではないか。一度好きになったものは10年でも20年でもずっと好きでいるといつかは会える。いつまでも彼の不在を受け入れられなくても,そういう形で憶えていればいいんじゃないかなと今のわたくしは思っている。現ちゃん,また会おうね。



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