文体は思考であり、思考は生き様である

文体は、その人の生き方である。わたしはそう思う。しかも、「文体がその人の人生をあらわす」のではなく、「文体がその人の思考、すなわち人生を作る」のだと思う。

ライター 佐藤友美(さとゆみ)さんの言葉に、ハッとした。

私がここ最近、ぼんやりと感じていた輪郭について、見事に言い当ててもらったような気がしたからだ。

私は幼い頃から、読書が大好きだった。

母には物心つく前から図書館に連れて行ってもらい、絵本や紙芝居を読んでもらい、いつしかそれがギリシャ神話になり、古事記になり、偉人伝になり、児童書になった。
(残念ながら、内容はほぼ覚えていない)

小学生の頃、休み時間にあまりにも集中して本を読んでいて、友達の呼びかけに気付かなくて怒られたこともあったな。

一方で、文章を書くことは苦手だった。

読書感想文では何を書いていいかわからなかったし、お引越ししてしまった友人との文通を途切らせてしまうのはいつも私だった。

読むことは大好きなのに、書くことは途端に何を書いていいかわからなくなる。

そして、たまに書く手紙は自分でも薄っぺらくて辟易した。

自分の言葉で、自分の感情をさらけ出せる友人が羨ましかった。

そんな幼少期の記憶を残しながらも、ひょんなことから文章を書いてみよう!と、再び「書くこと」と向き合うことになった。

自己開示が苦手だった女の子は、年齢を重ねていくらか図々しくなって、「私ってこんなやつです」ってさらけ出すことに抵抗が無くなっていた。

書けば書くほどに夢中になり、つい2週間ほど前からは毎日noteを更新するようになり、感じていたことがあった。

「結局、自分が生きて感じてきたことしか、文章に書くことは出来ない」

ということ。

私は私の目で見て、耳で聴いて、身体と心で感じたことしか、書くことはできないのだ。

ことばには、その人の人間性が現れる。

だから、ふとその人の人間性に触れられる文章はワクワクするし、人間性が感じられない無味乾燥とした文章は、読み進めることができないんだ。
(だから敢えて主観が取り除かれている類の文章を読むのはすごく苦手だ)

そんな風におぼろげに感じていたことを、「そう、それです!」と言い当ててもらった。

言葉はその人が持つ語彙力、経験値、価値観、あらゆるものを内包している。

隠していても滲み出るものだし、ごまかしもきかない。

誰かから借りてきて、取ってつけたような言葉は、とても居心地の悪いものになってしまう。

さとゆみさんが村上春樹さんのエッセイの中から、引用している部分がある。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。

まさに私は、さとゆみさんからウィスキーを貰った気持ちだ。

読んだ人の心に溶け込み、その人自身のことばになり得る文章。

私もそんな文章を綴れる人になりたい。

私は「私の文体」を、これからも探し続けよう。

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