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バスケでプロになるはずが、気づけば腹痛でトイレにこもる会社員になっていた

ぼくはプロバスケ選手になるはずだった。

小学生のころから夢はバスケ選手。中学時代は、関東圏のガードの中では指折りの選手だといわれ、日本人初のNBAプレーヤー、田臥選手とならんで「平地か田臥か」と評されることもあった。将来はプロバスケ選手になると、自分も周囲も疑わなかった。

でも、現実はそう甘くなかった。

夢だったプロにはなりきれなかった。転職した会社では、慣れない仕事に精神的に追い込まれ、リストラも経験した。

それでもいま、ぼくは自分のことを心から幸せ者だと思う。

10年前に会社を設立し、ついてきてくれる仲間と、自分らしくいられる居場所がある。そしてまた、スポーツ業界に戻ってくることができたからだ。

これは、ぼくがバスケ選手を引退してから、起業するまでの話。

いま、夢を追いかけるのがしんどくなったり、仕事や部活で苦しんでる人に、ちょっとでも希望をもってもらえたら、とてもうれしいです。

推薦がとりやめに

高校3年生の夏。

ぼくはありがたいことに、大学からスポーツ推薦の話をもらった。体育会1部に所属する強豪校からだ。最後の大会で結果を出せば推薦が確実になるので、がんばって練習していた。

ところが、思いもよらない事件が起きた。

最後の大会前の夏合宿で、ぼくの同期が、後輩をバリカンを使って坊主にしてしまったのだ。部活の「ノリ」が行きすぎた結果だった。それが親御さんも巻き込んだ大問題になって、部活は休部になった。

当時キャプテンをしていたぼくは、直接そこに加担したわけではなかったけど、監督不行き届きの責任をとってそのまま退部せざるを得なかった。

最後の大会には出られず、当然だけど、推薦はとりやめになった。

はじめての挫折。目の前が真っ暗になった。

あのまま1部の大学に行っていたら、実業団でプロとしてバスケができたかもしれない。でも、その道はいとも簡単に途絶えてしまった。

バスケひとすじで、そんなに勉強もしてこなかったから、現役では大学も受からなかった。けっきょく一浪して、なんとか電気通信大学に入学した。

1部で活躍する同期を尻目に、6部リーグからスタート

大学時代のぼくは、劣等感の塊だった。

中高では、自分で言うのもなんだけど「スター選手」だったんだ。当時は「俺、神だな」ぐらいに思っていた。いま考えると、ホントに調子に乗ってたと思う。

昔から顔を合わせていた選手たちはみんな、いわゆる「体育会1部リーグ」でプレーしていた。一方、ぼくが入ったチームは、ほぼ最下位の6部リーグ。

1部と6部では、まったく世界がちがう。

1部の選手たちは、そのままがんばれば、だいたいはプロになれる。実業団の、トップリーグの選手に。

でもぼくは、もうここでいくらがんばっても、誰も注目してくれない。そもそも日の目を浴びないのだ。プロになれるとはとうてい思えなかった。

正直「なんで、こんなことになっちゃったのかな」と思った。

置かれた場所でがんばっても、拭えない劣等感

チームは弱小だった。人数も少なくて、ギリギリ試合ができるぐらい。最初のころは、ぼくが出したパスに気づきもしない状態だった。

それでも「とりあえず、いけるとこまでいこう」と思った。「この環境でがんばろう」と。

とにかく厳しく練習した。徐々にチームも強くなって、最終的には4部リーグまで上がることができた。推薦がないレベルだと、いちばん上の部だ。

そしてありがたいことに、4部でがんばっているのを、アメリカのマイナーリーグで働いていた友人が見つけてくれた。ぼくは大学卒業後に、海外に挑戦できることになった。

それでも、トッププレーヤーたちに対しては、劣等感しかなかった。

キラキラした場所でプレーする、かつての同級生。彼らが載っているようなバスケットボール雑誌なんて、ずっと見ていなかった。腹が立つから、見ようともしなかったんだ。

アメリカのプロキャンプに挑戦、そして挫折

ところが海外に行っても、けっきょく日本以上に厳しかった。そりゃあそうだ。

ぼくは半分、夢見がちでアメリカに行った。新しい環境に行けば、なにかが変わるような気がしてた。

でも、現地の外国人たちは、生きるためにそこにいた。

家族を食わせるためにバスケをしてる人。ふつうに生きるのすら厳しい町で暮らしてきて、それでもコーチをつけて育ててくれたお父さん、お母さんのためにがんばるんだ、という人ーー。

「あぁ、俺ほんと、ぜんぜんダメだな」と思った。覚悟の差に、打ちのめされた。

ぼくは逃げるようにプロバスケを諦めて、ストリートバスケに挑戦することにした。「もうここしかない」みたいな気持ちだった。

試合に出られない日々

日本に戻って、リーグ運営会社と契約した。

当時は、まだBリーグはできていない。ぼくは、日本で初めてできた3対3(現3x3:スリーエックススリー)のストリートバスケリーグの代表に、交渉しにいった。

「選手として雇用するよ。ただ、平日はスポンサーの営業や、ショーをする場所の開拓をしてほしい」という条件だった。ぼくは「それはもうぜひ。がんばります」といって入社した。

平日はスポンサーセールスをして、夜トレーニングして、土日は試合に行く。休みは1日もない。それでもバスケを続けられるなら、まったく問題ないと思った。

でも実際は、試合にはほとんど出られなかった。

どの選手を起用するかは、副社長が決めていた。いま思えば、副社長に気に入ってもらえるかどうかがすべての世界だった気がする。ぼくは、どうしてもそこに馴染めなかった。

当時のメンバーたちが、副社長に「なんで平地を使わないんですか」と掛け合ってくれていたと、ずいぶん後に知った。でも、どうしようもなかったらしい。

最終的に、ぼくは誰かが試合中にケガしたときの、リカバーの選手になっていた。「リザーブボーラー」という肩書きで。試合前のアップはみんなと一緒にやるけど、試合にはまったく出ないのが当たり前だった。

大勢の観客の前で、着ているのは選手のユニフォーム。なのに、試合中はボールに触ることなく、テントが風で飛ばないように支えているーー。

「なにしてるんだろう、俺」と思った。みじめで情けない気持ちだった。

26歳で、選手を引退

リーグの運営も厳しかった。なかなか経営状況がよくならず、やればやるほど赤字が続くような会社だった。

ぼくはついに「もう選手もやめて、とにかくセールス一本に絞ってくれ」と通告された。

気持ちがぷっつり切れた感じがした。

選手になれないなら、ここにいる意味はない。ぼくはリーグ運営会社を出て、やむなくバスケから引退した。26歳のときだった。

リーグでは大学のときみたいに、チームで勝つ喜びすら味わえなかった。

なんで試合に出れないんだろう。出てるやつより、俺のほうがうまいし、キャラクターもいいのに。自分1人でがんばっても、どうしようもない。積もっていく嫉妬と、劣等感。

最後のバスケ生活はとても苦しいものだった。

人材会社に転職……そして、リストラ

リーグ運営会社をでたあとは、ある人材会社の社長に拾ってもらった。

社長は、大学時代に応援団の団長をしていて「スポーツに関わる人を応援したい」という気持ちのある人だった。話をしたら気に入ってもらえて「俺んとこに来いよ」と言ってもらった。いまでも本当に感謝している。

ところが、そこでもぼくは、まったくうまくいかなかった。

毎日100件近くテレアポをして、ほとんどがガチャ切り。いま思えば当然の営業力のなさだった。毎日、社長に詰められた。ぜんぶ正論だったから、つらかった。ぼくはどんどん精神的に追い込まれていった。

出社の時間になると頭がめちゃくちゃ痛くなって、下痢になる。

うちの妻は元オリンピック選手で、超スパルタだ。当時は、もう子どももいた。「子ども育てるんだから、行かなきゃダメでしょ。行けやー!」と、追い出されるように出社していた。

電車に乗ってるあいだも、ずっとお腹が痛い。なんとか会社のあるビルに着く。フロアに降りると、目の前にはオフィスに続くドアと、トイレに続くドア。けっこう小さい会社だったから、トイレはビル共用だった。

ぼくは、オフィスのドアノブがどうしても握れなかった。

ぼくは毎朝トイレに行って、社長に「いま、横のトイレです。腹痛で遅れます」とメッセージを送っていた。

コートで声援を浴びるはずが、気づけばひとり、狭いトイレでうずくまっていた。

仕事はたしかに大変だった。けど、たぶんどこの会社に転職していても、結果はあまり変わらなかったと思う。

「この業界に入りたい!」と思って入社してがんばっている人たちと、「そもそも引退したくてしたわけじゃない」というマインドのぼく。

まともにやりあえるわけがなかった。

まだ、選手としてやれるのに。でも、やれない。もて余す気持ちと、自分ではどうすることもできない現実。その葛藤の中で仕事をするのは、どうしても苦しかった。

それから3、4カ月ぐらいすると、少しは仕事にも慣れ、精神的にも落ち着いてきた。

そのタイミングで、ぼくはリストラされた。

新年1日目の全社会議で「今年もがんばろー!」「おーっ」とやったあとに「ちょい平地いいか」と呼ばれて。

「うち、会社やべえんだわ」「悪いんだけど、2カ月後に辞めてくれるか」と言われた。正直、ぜんぜん役に立てていなかったから「まあ、当然だよなあ」という気持ちだった。

だからトップ選手になれなかった

リストラの通告をうけたぼくは、いよいよ崖っぷちだった。

とにかく食べていくためには働くしかない。バスケへの未練を感じている場合じゃなくなってしまった。必死で転職活動をした。

転職先は、SEOなどをやっているWEBコンサルティングの会社だった。

入社すると、約1ヶ月後にはお客さん先に出向することになった。つまり1カ月間で「出向先からなにを聞かれても大丈夫」な状態にならないといけないわけだ。

WEBの知識なんてまったくない、ゼロからのスタート。

でもやるしかない。

思えば、ぼくはバスケ選手時代、ホントに必死でやりきれたとはいえなかった。

バスケは、もともと得意だった。体格もよかったから、習いはじめてすぐに上級生とプレーするようになった。「俺はできる」という感じで、自己効力感がとても強かった。

得意だったがゆえに、努力しきれなかった。

「ほかのやつよりもできるし、そんなに練習しなくてもいいや」と、どこかで思ってた。人の何倍も努力しようと思えなかった。だから、トップ選手になれなかったんだと思う。

1ヶ月でWEBの知識を身につける

その反省があったから、とにかくすべての時間と体力を、仕事に費やした。

SEOの知識だけを学んでも、断片的すぎてわからなかった。だから自分でサイトをつくってみて、そこで実践をくりかえした。

最初はHTMLも触れなかったし、デザインもできなかった。でも、なんとか覚えていった。もちろん、昼間の仕事が終わってからだ。睡眠時間は毎日3時間ぐらいにした。周りと差をつけるには、それしかないと思った。

そして1カ月後、なんとか実戦に耐える知識が身についた。

社会に出て、はじめて努力が報われた気がした。

仕事は大変だったけど、それ以上におもしろかった。結果も出したから、給料もどんどん上がった。やれる内容も増えて、早い段階でマネジメントもやらせてもらえるようになった。

仕事とスポーツは、根底では同じなのかもしれない。

ひとつでも成功体験を得ると、元アスリートは強い。称賛され、スポットライトを浴びる気持ちよさを、誰よりも知っているからだ。もうバスケ選手には戻れない。でも、ビジネスパーソンとしてなら、もういちど上を目指せるかもしれない。称賛してもらえるかもしれない。

「今度こそ、一流になってやろう」 その一心で働いた。

業界を離れて、はじめて「ヤバさ」に気づいた

人材会社とWEB会社で得たものは、とても大きかった。

人材会社のお客さんは、採用をがんばっているだけあって「伸びている会社」だ。勢いのある業界やマーケットを見て、初めて「おれ、いままでけっこうヤベえとこにいたんだな」と思った。

外の世界を知って初めて、スポーツ業界のヤバさに気づいたのだ。

みんなスポーツが好きだし、夢を持ってるからがんばってる。でも土日も仕事で、平日もあまり休めなくて、給料も高いとはいえない。中にいるときは、それがあたりまえだと思っていた。

ウェブ業界に行ってからは、より違いを痛感した。

まず「成果を出せば給料が上がる」ってことに驚いた。実はアメリカから帰ったあと、ぼくはバスケのアパレルショップで1年半働いていた。けっこう売上もあげたのだけど、給料は最後まで1円も上がらなかった。

ぼくがいたストリートバスケのリーグ運営会社も、経営が厳しくて、一緒に働いていた仲間は3カ月ぐらい給料が出ていない状態だった。

いまはだいぶ改善されてきてるけど、当時のスポーツ業界はホントに厳しい環境だったと思う。

でこぼこなキャリアがひとつになった

外の世界を知ったうえで、もう一度スポーツに立ち戻ってみると「スポーツ業界って、ぜんぜんウェブ活用できてないじゃん」と気づいた。

「届けたい人に、情報がぜんぜん届いてないじゃん」と。

夢も熱量もあるけど、ぜんぜん稼げなかったスポーツ業界。 これまで見てきたなかでいちばん利益率が高く、いちばん伸びているWEB業界。

でこぼこで、行きあたりばったりに思えたぼくのキャリアが、ひとつにつながった瞬間だった。

「スポーツ×WEBマーケティングの会社をつくったらいいんじゃないか?」

いま、スポーツ業界でWEBをうまく活用できている会社はほとんどない。ということは、 結果さえ出せばマーケットを押さえにいけるんじゃないか。

いまのぼくなら、このモデルでなら、スポーツ業界で勝ち目があるかもしれないと思った。

かつての自分のような人を減らしたい

2011年、31歳のときに、ぼくは起業した。

起業するときに決めていたことがある。「最初の3年間は、絶対にスポーツビジネスに手を出さない」ということだ。まずは、確実に稼げるWEB事業で売上をつくることに集中した。

「スポーツに関われる」と思ってついてきてくれた社員からは猛反発をうけた。それでも方針は曲げなかった。

「規模は小さくても、好きなことをやれたらそれでいい」とは思わなかった。いずれこの会社で、ぼくのような「元スポーツ選手」を、ビジネスパーソンとして育てたいと思っていたからだ。

元アスリートは、決して「即戦力」にはならない。

ビジネスパーソンとして一人前になるには時間がかかるし、精神的に病むこともある。それはぼく自身がいちばんわかっていた。

一人前になるのに時間がかかったとしても、ちゃんと雇用を守っていけるだけの売上基盤が、どうしても必要だったんだ。

もう一度、満員のスポーツ会場へ

それから3年後。ぼくらは念願のスポーツ事業を立ち上げた。

初期のお客さまに、Bリーグの千葉ジェッツさんがいる。足だけで地道にチケットを売ることに限界を感じて、ぼくらに依頼してくれた。

ぼくらはWEB事業のノウハウを生かして、SNSでの発信を強化したり、試合の「お知らせページ」をリニューアルしたりした。試合の見どころやグルメ情報などをカッコよく載せて、お客さんが会場に足を運びたくなるように工夫した。

結果的に、4000人の会場は何度も満員になった。

千葉ジェッツが成功事例となったのがきっかけで、いろんなクラブさんから「うちでもやりたいです」とお声がけいただけるようになった。10社、20社とお客さんが増えていって、いまでは80社以上のスポーツクラブを支援させてもらってる。

セカンドキャリア支援も少しずつ進んできた。元なでしこリーグの選手など、ぼくを含めて4人の元アスリートが、うちに在籍している。

いまはもう、コートで活躍する選手を見て、嫉妬や劣等感に苦しむことはない。

仲間といっしょに満員のスポーツ会場を見て、自分たちの仕事を心から誇りに思える。仕事で、涙を流すほど熱くなれるんだから。

挫折は「転機」でもある

ぼくは26歳でバスケを引退した。 プロになりきれなかった。 中途半端に終わってしまった。当時はものすごく悔やみ、苦しんだ。

でも、あのタイミングで引退したからこそ、 いまの自分がある。

リーグにいたころは、プロとして活躍する選手たちが目の前にいた。だから、どうしても夢を諦めきれなかった。

でも、会社員になってバスケと距離ができたことで、気持ちの区切りもつけやすくなった。嫉妬も執着も、ある程度は時間が解決してくれた。

会社をクビになったときは、すごく焦った。でもあのときリストラされなかったら、WEB業界に転職することも、いまの会社をつくることもなかっただろう。

バスケ引退も、リストラも、ふりかえれば「転機」だったのだ。

挫折は、その後の自分次第でいい転機になる。これから先、また苦しいことがあったとしても、たぶんもう病んだりしない。「あん時のあれは、ラッキーだったなあ」って、未来で笑いとばしてやれるように、その後を全力で生きるだけだ。

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