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シルクロードの歴史1『シルクロードとは』

*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。


 「シルクロード」とは前2世紀から15世紀中期まで機能していたユーラシア大陸の交易路網で、全長は6400キロメートルに及び、歴史的には東洋と西洋の経済、文化、政治、宗教などの交流の中で中心的な役割を果たした。

 シルクロードという名前は19世紀頃に考案されたもので、昔、中国やその周辺のみで生産された「絹織物」が特に高価で取引された事に由来し、その起源は前114年頃、「漢」の「武帝劉徹」により「匈奴帝国」に対抗する同盟の結成のため西に派遣された「張騫」の使節団の調査で、張騫は同盟締結には失敗したものの西の情報をもたらした。

 それを元に武帝は中央アジア東部を征服、そこから中央アジア西部や西アジアを支配していた「アルサケス朝パルティア」を通ってアフリカやヨーロッパなどとつながる道が形成され、そこから数十年が経った前1世紀初頭には、中国で作られる「絹」がローマ、エジプトなどで求められるようになった。

 この絹貿易が言わずもがなシルクロードの由来で、他にも中国からはお茶や染料、香水、磁器などが輸出され、逆にヨーロッパや中東からは馬、駱駝、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、各所の商業を大きく発展させ商人に大きな富を与えた。

 シルクロードは1500年に渡り「モンゴル帝国」などの国家、民族、思想、科学技術の移動、「黒死病」などの疫病といった世界史上重要な出来事などに大きな関わりを持っており、商人達は盗賊などの危機に怯えながら砂漠や山など厳しい地形の輸送を行っており、基本的には一つの集団でシルクロード全てを移動する事はなく、ある地点まで行ってそこで商品を売り払い、その後、その商品を買った人が次の街にそれを輸送し、また売る、という様な感じで遠くまで輸送されていった。

 ちなみに絹とは、「蚕」という「桑子を家畜化した」蛾が蛹になる際に作る繭を加工した物のことで、絹の生産は前3000年頃の中国から開始したとされるが、前6000年頃の賈湖遺跡という中国の主体となった「黄河文明」の始祖的な存在である「裴李崗文化」の遺跡から見つかった遺体から、絹が検出されている事や、天文施設でも知られる「青台遺跡」という黄河文明の「仰韶文化」の遺跡から前37世紀頃の絹の織物、いわゆる「紗」が発見されている事などからそれ以前と考えて間違いない。

 その後の前3世紀頃から始まった漢の時代には既に蚕の養殖法は完全に確立されており、四川省では名産の蜀錦が生産れており、6世紀の「北魏」で作られた農書「斉民要術」には現在の養蚕技術とほぼ同じ記録が残っている。その後の10世紀頃の北宋の時代には需要が高まった事で、税金が「銅銭」から絹に実質的に移り変わっており、それ以降は税を納めるために農村の人々も「養蚕」を始めた。

 中国では絹の国外の持ち出しは、現在の中国が一つの国に初めて纏められたとも言える、「秦」の時代により強く禁止されて以降、全く行われず、日本には秦朝それ以前に伝来し、朝鮮には前2世紀頃に漢王朝が「衛氏朝鮮」を征服して設置した「楽浪郡」を通して伝わっており、インドでも独自なのか中国由来なのかは不明だが古くから養蚕が行われていたものの、ヨーロッパに伝わったのは6世紀頃と比較的遅い。

 シルクロードの終わりは15世紀頃で、「オスマン帝国」がトルコ東部で誕生し、アジアとヨーロッパを繋いでいた「ビザンツ帝国」を滅ぼし、西アジアや北アフリカまで支配下に置いてしまった事が要因で、これによりアジアの様々な品が入って来づらくなったヨーロッパでは、スペインやポルトガル、イギリス、フランス、オランダなどが「大航海時代」を経て、アジアやアメリカ、アフリカ各地を植民地化して直接、様々な品を手に入れる事となる。

 ちなみに先ほど、シルクロードという名前は19世紀頃に考案されたものであるとしたが、実際はそれ以前から使われはおり、現在の定義が定められたのが19世紀という意味である。

 シルクロードの定義を定めたのは近代地形学の父と称されるドイツの地理学者「フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン「で「プロイセン」の使節団に参加し、中国、日本、シャム(タイ)を周り、そこで書かれた著書の中で、絹の道を表すザイデンシュトラーセン、つまりシルクロードの概念が使われた。

 ちなみにプロイセンは現在のドイツ連邦共和国の元になった国である。その後、リヒトホーフェンの弟子のスウェーデンの地理学者「スヴェン・ヘディン」によりシルクロードに関する著書が書かれ、それ以来、シルクロードという言葉が普通に使われるようになった。

 しかし、シルクロードという名称には批判もあり、例えば、絹の貿易よりも香辛料の貿易の方が歴史的に重要であるとして絹(シルク)を象徴みたいに扱うのはおかしいとしたり、そもそも、シルクロードのような東西を結ぶ交易路自体、13世紀にモンゴル帝国が中東・東欧・中央アジア・東アジアを支配して東洋と西洋を結ぶまで存在しなかったという説もある。

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