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天文学史6『古代中国の天文学/マヤ文明の天文学』

中1の時のやつの続き


  東ユーラシアに於ける天文学は他の科学と同じく中国を起源とし、前4世紀頃の戦国時代には四季や気候で一年を分ける二十四節気というざっくりとした暦のようなものが完成され、これは東アジア各地に広まり、現在の日本でもここで作られた夏至と冬至、春分と秋分、立春・立夏・立秋・立冬、梅雨や台風などの概念や、それを捕捉するための入梅や土用、半夏生など日本独自の区切り、いわゆる雑節を使う。

中国で天文学の詳細な観測が始まったのは前6世紀頃、春秋時代の頃で、この頃の天文学は主に時間の管理を目的として行われており、当時は太陰太陽暦、つまり月の満ち欠けを基準とする太陰暦という暦ではあるが、太陽の動きによる閏月というものを入れて調節を行う暦を使ったが、月と太陽の違う周期の動きを組み合わせているため、天文学者達により何度も暦が作り替えられた。

また、中国天文学に於いては星の位置による占い、占星術が重要な位置を占めており、特にその中でも例外的な突然現れる客星(ケシーン)という星、要するに激変星、新星、超新星、彗星に関心をむけていた。客星の最古の記録は范嘩により書かれた歴史書「後漢書」の西暦185年にあたる記録で、1054年には客星として蟹星雲が誕生した超新星爆発の様子が記録されており、このような文献は現代の天文学研究においてもよく利用される。

西洋ではヒッパルコスやプトレマイオスなどギリシア天文学者らが多く作成した星表だが、実は世界最古の星表は戦国時代の斉国の甘徳や魏国の石申により作られた物であるとされる。

  ユーラシア大陸のインド、中国、中東、ヨーロッパで栄えた天文学だが、それとは隔絶されたアメリカにおいても発展しており、オルメカ文明の波及により誕生したメソアメリカ文明の一つで、ユカタン半島周辺で大いに栄えた、マヤ文明という都市国家が多数存在したマヤ族の文化圏の文書には、月の満ち欠け、日食の周期、金星の出現と消滅の計算式が残されており、何回か世界滅亡が騒がれる原因となったマヤのマヤ暦は、プレアデス星団、太陽、月、金星、木星、土星、火星の動きを綿密に計算して作られた物である。

また、マヤの天文学では黄道、つまり地球から見て月・太陽・惑星が通る線や天の川が重視され、宗教面においては金星が非常に重要で、マヤの建造物の多くは金星の日の出と日の入りの方向を向いており、金星を戦争の神であるともし、金星の動きに合わせて作戦が行われたと思われる。

このような優れたマヤの天文学文書の殆どはスペイン異端審問により破壊されており、残っているものは四つしか存在せず、特に有名なものにはドレスデン絵文書というものがあり、これは戦争中に水に浸かって損傷した。

マヤ暦は実は、ツォルキンとハアブという二種類の暦の複合体で、ツォルキンはマヤ神話の世界の13階層の概念に因み13日、手足の指の数に因み20日の二つの周期の二重構造になった一年260日の暦で、ハアブは一ヶ月が20日で構成され、一年は十八ヶ月と不吉な五日間で構成され、時は其々の神に支配されており、日の神、月の神、年の神が其々存在するとされ、このツォルキンとハアブの二つの概念を組み合わせて約52年が一セットとして扱われる。

マヤの宇宙感は他の地域と同じように地球に神である惑星達・月・太陽が回っているという天動説で、星々の動きは神々が移動しているものとされた。

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