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天文学史10『19世紀の天文学』

中一の時のやつ、もう次で終わり


  近代以前の天文学の記録は基本的に人間の目によるものだったが、その光を穴から光線として通し中の像面に外の像を写すという墨子やアリストテレスなど紀元前の時点で既に知られていたピンホール現象というのを利用し象の投影を行うカメラ・オブスクラというデッサンなどに使われた装置から、19世紀初めに塩化銀のような光によって色の変わる金属を用いて像を紙にそのまま写す現在のカメラが、中産階級つまり弁護士や医者などのような貴族でも平民でもない人々の増加により肖像画の需要が大きくなった事、新聞や複製画などが作られるようになりリトグラフ、つまり版画の需要が上がったなどの背景から、各地で独自に開発されており、19世紀中期には天文学にも導入され、19世紀後期には凡ゆる天体の写真が数え切れない程撮影され、カメラの入れる光の量を多くする事で今まで見えなかった多くの天体が観測可能となり、これによりデータは大幅に増加しした。

 学者らは、天体の観測が高い精度で可能になった次には、見えない何か、つまりX線やガンマ線、電波、マイクロ波、紫外線、赤外線などの電磁波の研究が行われるようになり、それぞれの見えない何かを研究する分野が確立され、研究の中で様々な恒星の温度、質量、大きさなどが判明、天体から放射された電磁波のスペクトルを分析、つまり見えない波の情報を解析する天文学を天体分光学といい、この分野はヨゼフ・フォン・フラウンホーファーというガラスやレンズなどの研究の中で多くの発見をした人物や、アンジェロ・セッキという恒星の分類や火星の地図制作、透明度版の開発を行なった人物などにより恒星の光のスペクトルの違いが明らかにされて以降、発展し、1868年には地球では少ないが宇宙では非常に多いヘリウムという物質が黄色のスペクトルとして皆既日食中に観測された。

 また、同じ頃には、大量の恒星の位置を記録したフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルや二重星の研究で知られるフリードリッヒ・フォン・シュトルーベらが、視差、つまり時期による地球の位置の差を利用して恒星との距離を測定、星が互いに、途轍も無く離れている事が判明、この頃には二重星の研究が盛んに行われるようになっており、ベッセルはシリウスに見えない二重星が、くっついている可能性を指摘、エドワード・ピッカリングが複数の恒星のスペクトルを同時に撮影する技術を開発、見るだけでは分からないが実はスペクトル、つまり光の性質の違う二つの星がある二重星であるという星、分光連星を発見、シュトルーベやシャーバーン・バーナムなどによって詳細が調べられ、その動きから初めて恒星の重さ、質量が確かめられるようになった。

 19世紀、天文学に多くのデータが蓄積されていく中で、データを計算し分析を行うコンピュータ、日本語では計算手と呼ばれる人々が学者達に雇われるようになり、今まで天文学に参加してこなかった多くの女性が採用され、チームではハーバード・コンピュータなどが大きな活躍をしたとされ、この時代の天文学的発見の多くはこのコンピュータたちによって指摘されたものであったと思われる。

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