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シルクロードの歴史2『それぞれのルート』

*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。



  シルクロードは一つの道の事を指しているのではなく、いくつもの交易ルートを纏めて指しており、中国から西に交易路が広がるとタクラマカン砂漠の北を迂回する北ルートと南を迂回する南ルートが生まれ、この通り道の都市達の商人は、先述の通り、商品を中継しながら運ぶという仕組みに携わっていた。


1. 北ルート


「風の旅行者」様のサイトより引用した北方ルートの地図


 北方ルートは漢王朝の首都の「長安」、現在の西安市からスタートし、1世紀頃から3世紀頃の後漢、つまり長安を首都としていた漢を滅ぼした「王莽」の建国した「新王朝」を、「劉秀」が滅ぼして復興した漢の時代には、首都が「洛陽」に移った事で、北方ルートの起点も洛陽となった。北方ルートはシルクロードが開始したキッカケとなった武帝が中央アジア東部の遊牧民を支配下に入れた際に確立された。

 北ルートは陝西省から北西に進み甘粛省に至った後、「タクラマカン砂漠」の北側の「天山山脈」に沿って進む道と、南側の「崑崙山脈」に沿って進む道、天山山脈より北を進む道の三つに分かれ、一つ目の道と二つ目の道は「カシュガル」という町で合流した後にもう一度分かれる。

 天山山脈の下を通ってきた「コーカンド」を通った後、カラクム砂漠を進み、崑崙山脈の上を通ってきた方はテルメズ、バルフ、また、合流しなかった天山山脈の北を進む道はトルファン、タルガル、アルマトイなどを通る。
 その後、全てのルートがトルクメニスタンのメルブで合流、しかし一部の分岐ルートでは北西に進みアラル海、カスピ海、黒海まで進んだ。

乳香
没薬

 北ルートから中国へ輸入された主な品目として、ペルシア、つまりイランからはナツメヤシ、サフラン、ピスタチオなど、インドからは香木、つまり香りを放つ木としてビャクダン、エジプトからは瓶、ソマリアからは乳香というカンラン科ボスウェリア属の樹脂、つまり植物から分泌される油で、漢方薬で鎮痛、止血、筋肉の詰まりの緩和に使われたものや、没薬というカンラン科コンミフォラ属から分泌されるゴム性の樹脂で中国では線香や抹香の調合に用いたれたもの、皮膚病の薬に用いられるアロエなどがあり、基本的には高価な贅沢品のような品々が輸入されていた。

2. 南ルート

カラコルム・ハイウェイ

 南ルートもしくはカラコルム・ルートは中国を南西に進み現在インド、パキスタン、中国の国境となっているカラコルム山脈を突っ切るルートで、現在でもそのルートは国境を横断する最も高所の道路であるカラコルム・ハイウェイとして存続している。

 南ルートはカラコルム山脈を超えた後、パキスタン北部を通りアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈を越え、北方に進みトルクメニスタンのメルブに至って一度、北ルートと合流、その後は一直線に西に進んで、ペルシア北部のアルボルズ山脈、メソポタミア、シリア砂漠まで進み、そこから、イタリアへ海から向かうルート、陸路で北上してアナトリア、つまりトルコに進むルート、陸路で南下して北アフリカに進むルートに分かれた。

 また、別の分岐ルートではペルシア南部のスーサに進んだ後、カラクス・スパシヌというイラクの港町や海上貿易と陸上貿易両方の拠点だったペトラに行きエジプトのアレクサンドリアなどに出航するというルートもあったとされる。

3. 茶馬道


 南西ルート、もしくは茶馬古道は、四川省、雲南省、チベットの山々の間を進ルートで、茶葉の交易路であった事から中国では昔から茶馬道と呼ばれ、茶の栽培の記録の最初も四川省の山である。このルートは7世紀頃からチベットや雲南と中国の中央部を結ぶ交易路として使われていた。

チベッタン・ポニー

 少なくとも10世紀の宋王朝の時代より前には中国で作った茶と、人に懐きやすく扱いやすい小型の馬ポニーの中でもチベット人が飼育する山岳品種チベッタン・ポニーが交換されるという仕組みができていた。

 これは、当時、中国は契丹や女真などの北の馬に乗った遊牧民を恐れており、その対抗手段に使われる騎兵の軍馬として使われるためで、チベットが中国から茶葉を輸入するというのには、バター茶という山羊乳と塩を入れたお茶、日本で言うところの味噌汁的な立ち位置の飲み物を作るなどの目的があった。

 ちなみに、チベットでは茶が生産できないため現在でもバター茶の全ての茶は中国本土からの輸入品である。

バター茶

 また、この茶葉古道の一部はそのまま南下してインド北東部、つまり現在のバングラデシュやネパールあたりまで続いており、ブラマプトラ川とガンジス川の三角州、つまり両方の川に挟まれている地域は非常に栄ており、前1世紀頃に地中海周辺を旅行した地理学者ストラボンもこの地域について言及しており、二世紀のギリシアの天文学者プトレマイオスは地図を作成している。

 また、このルートは千年以上前から存在したわけだが、最も多く使われたのは百年ほど前の中華民国の時代で、国共内戦で勝利し中華人民共和国を建国した毛沢東により道路整備が使われるまでは普通に使われていた。

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