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意外と違う

 こんばんわ、灰音ハルです。

 ここ最近。というか、数日というか。実は数日でもなく、一ヵ月以上にも渡る長旅だったのかもしれない。大冒険ともいう。結局、何だかわからない。つまるところ、仕事がものすごく忙しかったんだ。自分でも、どうして忙しかったのかわからない。結局、この一ヵ月毎日何してたんですか、と言われても答えられない。とりあえず僕の会社のスケジュール見れば良いんじゃないかな。はー、疲れた。

はじまりは忙しくないけど、途中参加はめちゃくちゃ忙しい


 そう、部署異動があったんだ。部署異動の前から忙しかったけど、部署異動の後も忙しかった。そらそうだ。そうだな。忙しくないわけがない。会う人会う人に「忙しい……ですよね」と言われていた。忙しいってどういう状況なんだな。でも、ここ数日は本当に忙しかった。忙しいっていうか、自分の中で確実な答えが定められていないまま、MTGに入ることが多々あった。そういうときは、本当にストレスだった。何かしら答えをださなければ、と思いつつも時間稼ぎをしようとする自分に苛々した。自分で全てを決めきれないことにも苛々した。もう全てが面倒になった。
 部署異動って大変なんだな。僕は割と転職多い人間なんだけど、はじめてのときはそんなに忙しくなかった。途中参加ってこんなに大変なんだって思った。僕の部下が増えたんだけど、元々別部署だった部下の持ってる仕事が増えた感はあった。メールもドンと倍に増えた。返信漏れてるのいっぱいありそう。自分で管理する範囲が増えて、更に僕が回答しないと向こうの仕事が止まるってことが増えて、ひえ~ってなっている。
 一方で、当たり前だけど僕自身の仕事も増えた。ていうか毎年新しいことやってるじゃん。僕は開拓者か何かなんだろうか。どうしてやってしまうのだろうか。何故、自分はやってしまうんだ。意味がわからん。というか、流石にそろそろ人が足りないんじゃないだろうか。僕一人で何足の草鞋を履いているのか不明だ。いつかとんでもないことが起きるのではないか……と一人で戦々恐々としている。
 そんな感じで、多忙アンド多忙な日々を過ごしている。新しいことって、そもそも領域が違うんだよね。社内制度やって、福利厚生やって、社内システムやって、教育体系やって、求人票作って、給与やって、確定拠出やって、就業規則やって、雇用契約やって、イラスト描いて、パンフレット作って、デザイン考えて、広告の文言考えてってやってると脳がバグりそうになる。僕は今何をしているのだろうか。これが僕が論理的で創造的と言われる所以なのだ。多分。マルチな人間であるといえばそう。

実はそうなんだ、って話


 部下が増えると、僕のことを知らない人も増える。どういう意味だ? まぁ、そういう意味なんだ。実は、ってことが多い。
 例えば、僕が小説を書くのが趣味だった、ってこととか。だから、文章にはクソうるさいこと。
 実は、電車とか新幹線とか飛行機のチケットをろくにとれないこと。そもそも旅行をほとんどしないこと。休日はずーーっと家で寝てること。何故か、僕は一人で色んなとこにトコトコ行くように見えるらしい。
 あと、実は物凄く細かいこと。誤字脱字は当たり前で、例えば郵送するときは管理簿でチェックしないと不安で夜も眠れない。僕が管理簿でチェックしてるものに部下が勝手に入れたときは「何で入れたの?」って言って突っ返す。いつもの優しさはない。ちなみに、郵送の宛先は誇張でもなく5回は見直している。
 実は、発表とか人前で話すのが苦手なこと。話す内容は1から100まで紙に起こして、それをひたすら読んでいること。だから、台本がないときは自分で台本を作る。本当に一言一句書く。書いたものを読んでみて、喋ったときにおかしい部分は直ぐに修正して、最終的に「そのまま読めば大丈夫」レベルまでに落とし込まないと怖くて次の日を迎えられない。
 実は、物凄く忘れっぽいこと。物を失くしがちなこと。僕のスマホの待ち受けは「やらなければいけないこと」を書いた壁紙だったりする。次の日やらなければいけないことは会社のデスクに置いて退社する。それぐらいに忘れっぽい。自覚があるので、一応気を使っている。記憶力が良いと思われてはいるが、実際は忘れっぽい。
 実は、友達が凄く少ないこと。少ない。少ないね。
 実は、常に仕事ができないこと。バリバリ働く人と思われがちだけど、実はそうでもない。休まないと仕事ができない。だから普通に寝る。休む。だらだら漫画読む。週4日勤務にして欲しい。というか実際そういう風に無理やりしたい。週5日も働けない。休まないと生産性がアホみたいに落ちるね。

体調悪いときのほうが仕事進むの何で?


 何故か、体調悪いときのほうがすんなり仕事が進む。多分、元気なときは色々考えすぎてしまうからだと思う。あれこれ考える余裕がないときのほうが、仕事が進む不思議。普段から気配りの鬼なんだと思う。というのも、先日「ハルさんの気配りは素晴らしいですよね」と褒められたからだ。気を配って得になるなら配って損はない。無料配布大歓迎。
 そして、これは実はあんまり良くないのかもしれない。普段は頑張って愛想良くしているので、体調悪いときは流石に愛想を良くできない。だから、もう最初から「テンション低いのは、機嫌が悪いわけじゃなくて体調が悪いだけなんだよね。だから気にしないで声かけてね」と言うようにした。逆に声かけずらいだろって説もあるけど、向こうに色々考えさせるよりはマシという結論に達した。
 パラダイムシフトという言葉があって、見方が変わるってやつなんだけど。僕の反応がいつもより悪くて口数少ない状況って、相手から見たら、僕の機嫌が悪いってなるじゃん。でも、事実として、僕は不機嫌じゃないんだよね。ただ、体調が悪いだけなんだよね。だから、相手のパラダイムシフトを促すためにも、事実は言うようにしたい。

改めて、僕の家と自立について


 これまでも色々書いていたけど、僕が精神的に自立したときのことを書いておきたい。
 ただ単に、僕の母親が精神病だっていうだけの話なんだ。父親は自称自閉症だったわけなんだけど、そういうことで、僕は精神病に対してあまり好意的ではない。身内に精神病患者がいて、精神病患者に好意的になるもんだろうか。僕の場合、物心ついた頃というか正しく記憶がある頃にはもう母親がおかしかったんで、あんまり良い思い出がない。
 が、僕もこういう家庭あるあるの悩みであったり困難があった。なんていうのかな。まぁ、やっぱ親に愛されたかったんだよね。無償の愛が欲しかったんだよな。でも、精神病患者にそれを求めても絶対に返ってこないんだよね。自分のことしかないから。自分しかないんだよね、本当に。子供というか僕に対して愛はあったかもしれないけど、それも「子供を愛している自分」を愛しているに過ぎないんだよね。
 過去の僕は、母親に対して試し行為というか、我儘を言ったりしたけど、でも途中で気づくんだな。「これって母親と同じことしてる」って。我儘を言って相手を困らせることが、母親と同じだって思ったんだよね。だから、そういう風にしなくなった。そういうもんだな。
 僕がある意味では、家庭から精神的に自立したのは、結局は長いこと自問自答を繰り返したからだと思う。データ入力をしていた頃、時間が無限にあった。定時で帰れたし、定時内もほぼ機械的に作業するだけだから、脳内は自由だった。行き帰りで電車を使わずに往復2時間歩いたりしたこともあった。それだけ、時間が無限にあった。だから、ずーーっと色々考えることができた。考えることは大好きだったし、だからデータ入力という仕事は天職だと思ったんだけど。
 それだけ考える時間があると、小説を考えるのにも飽きて、親のこととか自分のこととかも色々考えることになった。今日の議題、みたいなね。それで、多分ツイッターかなんかだと思う。誰かのツイートで「貴方が求めているものは二度と手に入らないものだ、と医者から言われた」という類のものを見て、また色々考えた。今思えば、ここが僕の岐路だったんだと思う。
 あのツイートは、事実としてそうだと思う。僕が親に求めているものは、もう二度と手に入らない。そりゃあそうだ。後悔に未来なんてない。過去を振り返って後悔するんだから。その後悔の先が親なんだから。「あのとき、こうして欲しかった」「あのとき、こうして欲しかった」そればっかりだ。だから、悩むんだと思った。でも、そのときの僕は「だったら何だよ」と思った。ツイートの内容は事実だ。だから何だ。そういうことだった。
 それから、僕は割と長いことそのことについて考えていた。つまるところ、二度と手に入らないものを求めることは悪いことなのか。全く以て意味がないことなのか、ということだ。で、僕は「こういうところが、人間なんだよな」と結論づけた。何というか、僕が過去に救いを求めることは、多分悪いことじゃない。でも、それを母親に求めることが間違いなんだ、と思ったんだよね。間違いというか、諦めたんだ。良い意味で。この人は、もう一生変わらないんだ。だから、僕に都合の良い未来を求めても、ただ自分が苦しむだけなんだな、ってことを理解した。だとしたら、自分のことは自分が救ってやらなければいけない、とどっかのタイミングで結論がでた。
 何ていったら良いんだろうな。僕は変えられない過去に期待していた筈だったんだけど、結果として何の確約もない未来に期待をしていた。ってことに気づいたんだよね。でも、その未来に期待するのは自分を苦しめるだけだってことにも、どっかのタイミングで気づいた。じゃあどうするんだ、ってなったら、それが正しく諦める行為に行き着いたんだと思う。僕は今も実家で暮らしているので、そのときから数年間、母親と一緒に暮らしている。こう書くと、自立できてなさそうなんだけど、心の部分で自立している。ただの同居人になったのは、あのときだと思う。
 そういうのもあって、カウンセラーに通ったときに、カウンセラーから「家庭環境の割に……(良い意味で)」と言われたんだと思う。今思えばだけど。まぁ、何はともあれ、やっぱり深く考える時間があったのが良かった。自分の中で、何度も何度もあーだこーだやってだした答えだから、自分にとって正しいと今でも思う。結局、答えは自分の中にあるんだ。なんでもかんでも人間が考えたものなら、同じ人間の自分でもできる筈だよな。
 ちなみにもうすぐ一人暮らしします。つまるところさ、当時の自分の心境の変化っていうのか、当たり前の事実を突きつけられても納得できない、1+1は2じゃないかもしれない、って思ったり考えたりするのが「やっぱ人間なんだよな」って感じたんだわね。だから人間って良い。正しさが直ぐにあるんじゃないし、だした答えはいつも正しいわけじゃない。だけど、それで良いんだ、って肯定すること。あと、当時僕は過去に救いを求めていた。でも、それも悪いことじゃないんだよね、って過去の自分を肯定すること。そうして藻掻いていた自分も、悪くはなかった。そう思ってやること。
 それが人間なんだな、って思ったという話です。

もう寝る


 色々書いたんですが、色々憶測を呼びそうなのでここら辺で。
 皆さんも良い時間をお過ごしください。

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