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初めて語られる動物の「青年期」!『WILDHOOD(ワイルドフッド) 野生の青年期』冒頭試し読み①

いよいよ今週末発売!『WILDHOOD 野生の青年期』から「プロローグ」を2回に分けてお届けします。

ラブソングにときめくクジラ、いつまでの親の巣を出ようとしないワシ、危険な海域にみずから飛び込むペンギン……。動物の若者たちもヒトの若者と同じように、波乱と葛藤に満ちた青年期「ワイルドフッド」を送ります。

思春期から大人へと成長していくこの時期には、ヒトも動物も「SAFETY(安全)」「STATUS(ステータス)」「SEX(セックス)」「SELF-RELIANCE(自立)」の4つの課題に直面します。今まで語られてこなかった青年期の動物たちの、不器用だけど愛らしい生態のすべてがわかる1冊です。

ワイルドフッド_冒頭図版_2

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プロローグ

 青年期とはどのようなものかを理解しようとする私たちの企ては、二〇一〇年、カリフォルニア州の冷たい浜辺から始まった。そのとき私たちは砂の丘に立ち、海を見つめていた。視線の先は広がる太平洋で、「死のトライアングル」という好奇心をかきたてるよび名がついた一帯だ。
 その海岸に行きたくなったのは、ひとりの海洋生物学者から珍しい話を聞いたからだった。彼によれば、「死のトライアングル」という名前が広まったのは、その海域に、確実に死をよぶ恐ろしい生きものの大群がいるからだという。それはホホジロザメ。何百匹もの巨大な捕食者がこの海域にすむ。彼らの貪欲さは知れ渡り、付近のほかの海洋生物さえ関わりを避けることを学んでいた。カリフォルニア沿岸の海底にはたいてい海藻ケルプ〔訳註 コンブ科の大型海藻類の通称〕の森が生い茂っているが、「トライアングル」にその森はない。あえて入りこむ愚かな、あるいは不運な動物には、隠れ場所が皆無の一帯だった。そのあたりは非常に危険なため、実地調査にやってくる科学者たちでさえ、ボートから降りて海に入る気にはなれない。
 しかし、海洋生物学者の話の一番の聞きどころはそこからだった。本能に反しているし、大きな危険にさらされることになるのに、ある動物は「死のトライアングル」になんと繰り返し入りこんでいるというのだ。その動物とは、カリフォルニアラッコだ。ただし、すべてのラッコではない。死の一帯につっこんでいく無謀な連中であり、言うまでもなく成熟したおとなのラッコではない。もちろん赤ちゃんラッコでもない。実は、サメがうようよしている荒涼とした冷たい「死のトライアングル」に決まって泳いでいこうとするとびきりとんまな連中は、若者ラッコなのだ。ときとして、彼らはサメの一瞬の歯のきらめきの下、血を飛び散らせながら命を落とす。しかし、スリルを求めるこうした「ティーンエイジ」のラッコの多くは苦労の末に経験を自分のものにし、新たな自信をつけ、親に頼って守られてきた子ども時代に比べて、海で生きる知恵を大きく増やすことになる。
 当時、私たちは最初の著書『Zoobiquity』(邦題『人間と動物の病気を一緒にみる──医療を変える汎動物学(ズービキティ)の発想』)を書く準備の最中だった。その本では、健康問題はヒトでもヒト以外の動物でも、大昔から根本的に共通するものがあるのを見極めようとしていた。(私たちはチームとして仕事をしている。バーバラはハーバード大学の人類進化生物学の客員教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)心臓内科の教授を務めている。キャスリンはサイエンスライターであり、動物行動学のコースを修了している。私たちは協力してハーバード大学とUCLAで講座を立ち上げて教えている)。「死のトライアングル」のほうに目を向けながら、私たちはラッコの若者のふるまいが、よくいる一〇代のヒトの行動とほんとうによく似ているのに驚いていた。リスクを冒す、危険なことを探し求める、親たちがもう卒業したたぐいのぞっとするようなことをしでかす、といった行動をヒトもラッコもとっているとは。もうしばらく海を眺めてから、海岸の砂丘を越えて戻り、海と入り江を分ける細長く延びた陸地まで来ると、別の風景が待っていた。
 荒波が入ってこない入り江では、人々がカヤックを操り、平らな水面をゆっくりと進んでいた。この入り江はモスランディングとよばれ、ラッコを含め野生動物を観察するのに最適な場所となっている。死のトライアングルに引き寄せられる若いラッコとその拡大家族たちがここにやってきて、えさを食べ、くつろぎ、仲間と交流する。
 その日は数十匹のつやつやした毛皮の生きものが水面に仰向けで浮かび、体をくねらせたりぐるぐる回転したりしていた。あたりの光景はまるで一般開放中の公共プールのようだった──老いも若きもラッコたちは大いに楽しんでいる。プールをゆっくりと泳いでいる年長者が、水を跳ね飛ばして騒ぐ若者グループに進路を譲るような雰囲気なのだ。ウニをとりに水中に潜っては、手にしたウニの殻をなんとか開けようとするラッコや、二匹どうしや数匹の群れで取っ組み合いごっこをしたり、相手の鼻をくわえる求愛時の行動を真似しようとしたりするラッコもいた。その入り江のひとときはのんびりしたくつろぎの時間のようにみえたが、群れの若手ラッコたちにとっては学ぶことがぎっしり詰まった場だったと後になってわかる。
 観察しているうちに、いきなり大混乱が起きた。ラッコのひと群れが入り江の片側から向こう側へとすさまじい勢いで移動し、一面に白い渦が巻き起こる。「いったい、何事?」。私たちはガイド役の生物学者に尋ねた。サメ? この浅い入り江に捕食者が侵入?
 生物学者はいいえと首を振って、指をさした。向こうに見えるカヤックがラッコに近づきすぎていたのだ。しかし、よく見れば、ラッコたちは一匹残らず飛び上がって逃げたわけではない。われ関せずと気持ちよさげに浮かんだままのラッコの一団がいる。頭の毛が灰色なので、成熟したおとなだ。彼らは経験を積んで判断力があるのだ。いっせいに逃げた臆病者は、ホホジロザメとカヤックの「Sea Ghost 130」との区別がつかない若いラッコたちだった。
 あるときはサメに泳ぎ寄り、それから次はプラスチック製の舟から逃げ出す。経験不足のこうしたラッコの若者は、極端に向こう見ずであると同時にあまりに小心だった。しかし、彼らは仲間と元気いっぱいに交流し、性的行動を試し、自分でなんとかえさをとってみようとしていた。ほんとうに私たちヒトと同じ、いやヒトの若者たちと実に似ている。
 動物とヒトの重なる部分を調べ始めてからしばしば心をよぎったのは、ラッコのこうした行動を擬人化しているのではないかという思いだった──この野生の哺乳類のふざけた仕草を深読みしているのではないか。私たちはともに調査の最初から、動物をヒトに見立て、実際には持たないヒトの特性を動物に投射するのを避けようとしてきた。擬人化は科学性をたちまち損なうと考えたからだ。ところが、神経生物学、ゲノム学、分子系統学といった分野の研究についてさらによく知ると、もっと大きな危険は、体や行動について、ヒトとヒト以外の動物の間にあるリアルで明白なつながりを否定することかもしれないと気づいた。ほんとうに恐ろしいのは、擬人化ではなく、その逆の態度、霊長類学者・動物行動学者であるフランス・ドゥ・ヴァールがいう「反擬人化」ではないだろうか。
 私たちは前著のなかで何度となく、ヒトの独自性を主張する見解に異議を唱えた。野生動物はいわゆるヒトの病気にかかる可能性があり、現にそうした病気にかかっている。たとえば、心不全、肺がん、摂食障害、依存症。そして、不眠症、不安神経症にもなりやすい。ストレスを受けると過食する者もいる。異性愛の者もいればそうでない者もいる。気の小さい者がいる一方で大胆な者もいる。人間例外主義の考え方に接するたび、私たちにはそれが正しくないことはすぐわかった。
 そのとき、すぐ目の前の入り江でも、ヒトと同じようなことをしている動物がいた。動物には生後数日から何年後かの間のどこかで、みんな「ティーンエイジ」の期間がある。少年少女は一夜にしておとなになるわけではなく、子ウマから成熟した雄ウマへ、子カンガルーがおとなのカンガルーへ、そして子どもラッコがおとなラッコになるのもすべて、驚くべき独特な移行期が必要だ。あらゆる動物はちゃんとしたおとなになるのに、時間と経験と実践と失敗が必要となる。
「死のトライアングル」を前にしたあの日、私たちは動物の青年期を垣間見た。いったんそれに気づいてしまうと、いたるところで自分の若さと奮闘している動物たちを見つけるようになる。

新しい視点

 それは、ずっとつけていた目隠しをはずしたと言ってもいいほどの劇的な変化だった。目から入ってきたものがそれまでと違うのではなく、私たち側のとらえ方が変わった。おとなになるとはどういうことかを理解するための、まったく新しい方法がだしぬけに身についたのだ。鳥たちの群れ、クジラの集団、若いヒトのグループ、自分の子どもたちについて、そして、私たち自身の思春期・若年成人期の思い出さえ、以前と同じように見ることはできなくなった。
 それからの数年間、私たちはこのはざまの時期にある動物の研究に力を注いだ。子どもとよぶには体が育ちすぎているが、おとなとして扱うには経験が不足している年代の動物を調査のターゲットにしたのである。
 ウィルドビースト〔訳註 別名ヌー、ウシカモシカ。アフリカのサバンナに生息〕の集団がクロコダイルの群がる川を渡るとき、一番に水に飛びこむのは、体つきは大きいがひょろりとした若手たちであるのに私たちは気づいた。未経験さゆえに、危険が潜んでいるのも気づかずに、彼らはわれ先にと川にジャンプする。もっと分別のある年長のウィルドビーストたちはじっと待ち、クロコダイルが若い先陣を追いかけるのに大わらわの間に、安全に流れを渡っていく。
 カンザス州のマンハッタン市では、私たちはよりにもよって二匹のハイエナの若者と顔を突き合わせた。彼らは年齢や体の大きさが同じであるにもかかわらず、一方がもう一方をいじめていた。明確な社会的ヒエラルキーが形成されるには、二匹の若い個体がそろっていればよかったのだ。
 ノースカロライナ州の保安林にあるキツネザルの研究センターでは、大きな目のキツネザルの群れが近づいてきた。そして、すぐそばまでまっすぐにやってきた一匹の愛らしさに私たちは釘づけになった。その子はナチョという名前の若い雄のキツネザルで、恐れを知らずとてもかわいらしかったが、もし私たちが科学者でなくて密猟者だったら、自分の安全を脅かす行動を平気でとっていたのだ。
 親を亡くした野生の若いオオカミが、変わりかけの声を震わせたりかすれさせたりしながら、吠え方を練習するところも聞いた。若いパンダたちが自分で食べていくための最初のステップとして、竹の皮を歯でむこうとがんばっている姿も観察した。途方もなくすばらしいある午後には、野生のウマや、シロサイ、シマウマの群れを夢中になって眺めた。そして、それぞれの群れのなかの若者たちに焦点を絞り、彼らが自分たちのグループのなかで競いながら有利な立場を得ようとするとき、どのような行動や態度に出るかを確かめた。
 調査はたやすくないものが多かったが、なかには苦労が報われたときもあった。北極圏に近いカナダのプリンスアルバート国立公園にすむアメリカバイソンの若者たちの姿は、多数の蚊が群がる湿地帯のぬかるみを三二キロほど歩いたにもかかわらず、ついに見ることができなかった。その日通った道筋でまだ温かい若グマの糞を発見したのだが、このクマもやはり見られなかった。一方、ロサンゼルスで若いマウンテンライオン〔訳註 ネコ科。南・北アメリカに分布。ピューマ、クーガーともいう〕の跡を追っていたときは、近くまで迫れた。途中で休憩したとき、設置してあったトレイルカメラの映像からガイドが教えてくれたのは、わずか数時間前に、私たちが立っているまさにその場所をそっと通りぬけていたマウンテンライオンの姿だった。

地球規模で横に広くつながる若い仲間

 生物学者たちは、動物──ヒトとヒト以外の動物──において子どもからおとなになる間の時期に、肉体と行動面の変化があることにずっと気づいていた。次のような特徴は、ほんとうにすべてヒトだけのものだろうか? わき起こる不安感やくるくる変わる気分、ロマンスを求め心が乱れるのはもちろんのこと、あえて危険を冒す、仲間と始終つきあう、性行動を試す、親のそばから離れ成功をめざしたり自分探しをしたりする、そして、どっと分泌されるホルモンや、急速に変化する「ティーンエイジ」の脳さえも、ヒト独自の現象だといえるのか。いや、断じてそうではないのを私たちは知ったのだ。
 すべての生きものは細かな点でそれぞれ異なる体験をする。ある者は勝利を収め、ある者は悲劇に見舞われる。ほとんどの者はその両極の間にある体験をする。一方で、私たちが青年期動物について、種の違いを越えて調べ始めると、ひとつの普遍性を見いだすことができた。動物の種類、地球上の生息地、あるいは生息していた時代の違いを問わず、成長段階のはざまの時期に入ったすべての動物は、四つの大きな課題に直面する。そして、無事にその課題を克服することこそ成熟のあかしだと、私たちは考えている。
 バンドウイルカからアカオノスリ、カクレクマノミ、ヒトまで、この移行期を旅する動物の若者は、お互いにたくさんの共通点がある。それは、自分の分別ある親やまだ小さな弟妹たちとの共通点より多い。青年期の動物たちは、ノンフィクション作家アンドリュー・ソロモンが「ホリゾンタル・アイデンティティ(横のつながり)」とよんでいるものを共有しているのだ。ソロモンは著書『「ちがい」がある子とその親の物語』で、個人とその先祖たちとの「縦のつながり」と、家族のきずなはないが似た特性を共有する仲間を結ぶ「横のつながり」を対比してみせた。私たちは、ソロモンの考えをヒト以外の動物にまで広げ、同じ立場の青年期の動物たちは横につながっていると考える。ヒト・動物の区別なく、若者はみな、全地球にすむ青年期グループの一時会員なのだ。
 本書の主題は、世界中の動物が経験する青年期の旅路と、そこをうまくくぐりぬける方法にある。私たちの議論の前提は次のとおりだ。ヒトの青年期は、大自然における祖先の動物のありようが根底にある。この年代のそれぞれの喜び、悲劇、情熱、目的は訳のわからないものではない。そこには進化的に見て大きな意味があるのだ。

地球上でおとなになること

 二〇一八年の春、本書のための調査をもとにして、ハーバード大学の学部生向けに「地球上でおとなになること」というコースを開講した。クラスの初日、学生にはバックパックを背負ってついてきてもらった。ピーボディ考古学・民族学博物館に入り、カチーナ人形のケースやマヤ文明の背の高い記念碑を過ぎて、トザー人類学図書館へと向かう。木製の長テーブルの上のひときわ高くしたところに置かれ、私たちを待っていたのは、マーガレット・ミードの『サモアの思春期』の初版本だった。一九二五年、二三歳(現在の基準では、彼女自身が青年期にあたる)のミードは、南太平洋の島国を旅し、アメリカとは異なる文化圏の青年期を研究し、当時の近代アメリカ青年が抱える問題をもっとよく理解しようとしていた。ミードは特に文化に焦点を当て、個人と社会を形づくるのに最重要な働きをするのは、生物としてのヒト特有の生態ではなく、文化であると主張した。ミードのこうした比較研究法は、それまでの人類学のあり方に根本的な変革をもたらした。後に、彼女の研究手法はときとしてデータにもとづかずに自分の印象に頼るものだったと批判された(多くの人が不当な批判だとも述べている)。しかしながら、ミードはヒトの発達、とりわけ青年期を理解するうえで、二〇世紀の知性を率いたひとりだという評価は未だ変わらない。
 青年期についての学者たちの関心は、一九世紀の終わりごろ、アメリカの心理学者、G・スタンレー・ホールの活動によって一気に高まった。ホールは青年期の状況を表現するのに、ドイツ語の「Sturm und Drang」〔訳註 疾風怒涛。もともと、ドイツの文学運動を指した言葉〕を使った。二〇世紀を通して、ジグムント・フロイト、アンナ・フロイト、エリク・エリクソン、ジョン・ボウルビィなどの精神分析学者たちは、子ども時代と青年時代の発達課題について、環境を重視した理論を提唱した。一方、認知心理学者であるジャン・ピアジェは、青年期の精神形成に影響を与える要因として生物学的要素にスポットライトを当てた。動物行動学の創始者であり、鳥類学の教育も受けているノーベル賞受賞者のニコラス・ティンバーゲンは、ヒトの発達に動物としてのルーツを探った。当時、青年期は病的な状態とみなされることが多かった。つまり、そうした状態にある若者は、何らかの病気で落ち着きがなく、反抗的で、危険なことをやりたがり、不幸せなのだというように考えられていたのだ。
 しかし、そうした風潮を変えたのは、一九六〇年代に始まった神経生物学のめざましい進歩だった。マリアン・ダイアモンドによる脳の可(か)塑(そ)性(せい)についての探究や、ロバート・サポルスキーによる、社会脳と感情脳の発達が互いに進化しあうことに関する研究によって、青年期は、固定された特性を示す悩ましい時期ととらえられていたものが、正常な発達にとって重要でダイナミックな時期とみなされるようになった。フランシス・E・ジェンセン、サラ=ジェイン・ブレイクモア、アントニオ・ダマシオたちは、リスクに身を投じる、新奇さを求める、仲間の影響を受けるなど、青年期に目立つぞっとするような特徴は、その時期の遺伝的要因と環境要因の相互作用によるものだと結論づけた。発達心理学者リンダ・スピアは、気質にかかわる青年期の脳の生物学的特徴を調べた。進化生物学者ジュディ・スタンプスは、物理的・社会的環境が青年のその後の人生をどのように左右していくかを研究した。心理学者ジェフリー・アーネットは、「emerging adulthood(新成人期)」という言葉を世に広め、青年期の体験を形づくるのが現代文化の力であることを明らかにした。心理学者ローレンス・スタインバーグは、このしばしば不穏になる時期について親や教育者にわかりやすく解説した。さらに、彼による青年期の神経生物学的研究を使って、刑事事件の若い被告を、十分に成熟したおとなと同じように厳しく処罰すべきかどうかが議論されている。
 私たちはこれまでのこうした考え方の流れに沿いながら、とりわけミードの研究に触発され、研究や大学教育の場、そして本書において比較研究法を用いている。もっとも、ヒトどうしの比較からさらに推し進めて、青年期動物に課せられた主要な課題を、種の壁を越えて調べていく。その射程範囲は、地球上でのホモ・サピエンスの二〇万年の歴史ではなく、六億年もの動物の生態の歴史なのだ。

ジュラ紀の思春期

 ところで、「adolescence(青年期)」と「puberty(思春期)」は同じ意味をもつ取り替え可能な語として使われるときがある。ただ、このふたつは関連しあっているものの、ぴったりと重なり合う言葉ではない。思春期は生物学的過程であり、ホルモンの分泌によって始まり、生殖能力が獲得されるまでの時期だ。つまり、厳密に肉体面の発達だけで区切った期間──成長著しく、なかでも卵巣や睾丸が卵子や精子をつくりだすようになるまでの時期だ。ホホジロザメも思春期を経験する。クロコダイルにも思春期がある。パンダ、ナマケモノ、キリンも同様に思春期がある。昆虫にも思春期があるのだ(変態過程の一部である)。ネアンデルタール人も残らず思春期をくぐり抜けておとなになった。三二〇万年前の骨が現在のエチオピアで発見されて「ルーシー」と名づけられた、ヒト科のアウストラロピテクス・アファレンシスの有名な女性にも思春期があった。六七〇〇万年前、現モンタナ州の地にいたティラノサウルス・レックスの若い雌、ジェーンも思春期を迎えていた。その骨格を発掘して名前をつけた古生物学者によれば、彼女は思春期のなかばで死んだという。
 思春期の細かな内容は種ごとに違うが、その基本的な生物学的プロセスは見事に似通っている。ハチドリ、ダチョウ、オオアリクイ、ミニチュアポニーは同じホルモンの働きによって思春期全開となる。カタツムリ、ナメクジ、ロブスター、カキ、アサリ、イガイ、エビなどの思春期を発動するホルモンもほぼ同じものだ。
 五億四〇〇〇万年前のいわゆる「カンブリア爆発」では、生物の種が急激に増え、現在生存するほとんどの生きもののすばらしい多様性の基盤をつくった。ただし、思春期の出現はそれよりまだ古い。原生動物は単細胞生物であり、地球に最も古くからいる生命体のうちに数えられるが、思春期はそのライフサイクルの一部として存在してきたのだ。原生動物は現在も生息する。そのひとつ、プラスモジウム・ファルシパルムは、それを持った蚊から、その蚊に刺されたヒトの血管内へと移る。この生物はまだ成熟しないうちなら、ヒトの体内で血流に乗って漂っていても害をおよぼさない。しかし、いったん原生動物版思春期における体の大転換を遂げると、世界の主要な死因のひとつである疾病を起こす。プラスモジウム・ファルシパルムとは、マラリアを引き起こす寄生虫なのだ。
 思春期は雌雄それぞれに特有の性成熟が進行する時期という意味合いがまずあるのだが、その時期のホルモンの影響は体のあらゆる器官系におよぶ。心臓は成長し、心臓血管系の機能を劇的に向上させる。肺の容量も大きくなり、若いスポーツマンの耐久力が高まる(一方で、喘息患者の発作も増える)。骨格も発育し、ほっそりした手足の未成年の背丈がぐんと驚くほど伸びる。一方、こうした急速な骨の成長は、思春期に骨がんの発症率が高くなる一因でもある。子どもサイズの頭蓋骨は、おとなサイズへと大きくなるが、この変化は、ヒトの子どもだけに見られるのではなく、恐竜でも確認されている。また、思春期の間にあごの形も変わり、口内の歯もおとなのものに生え変わる。実際、ホホジロザメは、思春期を過ぎておとなの歯とあごの形になるまでは、獲物をうまく食いちぎれない。
 というわけで、思春期の体の変化ははるか昔からあるプロセスなのだが、実は、きちんと成熟するには、若い生物は肉体面が成長するだけでなく、第二段階を通過する必要がある。そこでは、体と行動をひとつにまとめ上げていく。つまり、その間に若手に課せられるのは、所属集団の年長メンバーのような、考え方、行動、そして感じ方を学ぶことだ。それはきわめて重要な経験を積んでいく時期であり、よき指導者から情報を吸収し、かつ、自分を仲間、兄弟姉妹、親たちと比較して自己検証するときでもある。
 この局面が青年期であり、成熟した真のおとなになるまでつづく。動物種にとっては、単に肉体的に成長しただけの個体ではなく、成熟したおとなを生み出すために、青年期はきわめて重要だ。経験を通じておとなとしての成長を遂げることは、自然界のあらゆる青年期動物にとっての目標となる。
 さらに、青年期の旅路は驚くべき革新を生み出すことがある。ここ数十年間に発見された有名な化石のひとつは、ティクタアリクという名がつけられた魚のもので、シカゴ大学の古生物学者ニール・シュービンたちが発掘した。この三億七五〇〇万年前の生物には、ヒトの進化の歴史を読み解くヒントがあった。なんと小さな四肢はひれと足の両方の働きをしていたのだ。四つの付属器官は、地球上の生命の最も壮大なストーリーのひとつ──水の世界から陸の世界への移行において、ティクタアリクがパイオニア的役割を果たしたという証拠となる。
 シュービンはティクタアリクの化石からほかにも明らかな事実を導き出した。その化石はさまざまなサイズのものが発掘され、テニスラケットほどの長さのものや、サーフボードより長いものがあった。これが意味しているのは、明白であると同時に大変意味深いことだ。この古代の魚は「成長しておとなになった」のだ。そのプロセスの間、今日の若者たちと同じように、まだ思春期の段階のティクタアリクたちは体の大きさだけでなく、捕食者・ライバル・性衝動・えさ探しについての経験がないため、特に弱い存在だった。脆弱性と未経験から、若い動物は大概、不慣れな環境へと押し出される。私たちはシュービンに手紙を書き、ティクタアリクの未成熟魚が、陸地への突撃の先頭を切った者たちになったというのは可能な推測だろうかと尋ねた。シュービンはこの話に納得し、返事をくれた。「ティクタアリクの成体は大型の肉食魚で、食物連鎖のトップ近くにいました。しかし、彼らもおとなになる前は捕食者に食べられるため、部分的に陸上で生活するのは生き残りに役立ったかもしれません。同様に、陸地でうまく立ちまわるのは、少なくとも初期の段階では、大きい魚よりも小さい魚のほうが楽にできたでしょう」
 たしかにこれは仮説にとどまるが、リスクを取ったり新奇なことを探しまわる青年期の行動について私たちが知っているあらゆる事柄と照らし合わせても矛盾しない。必要に迫られて青年たちは新天地を探し求める。そして生き残るための新しい方法を取り入れる。若者は新たな道を進み、未来を切り拓く。

「ティーンエイジ」の脳

 思春期・青年期の間に急激に変化する体の器官といえば、脳を忘れてはいけない。「ティーンエイジ」の脳はすさまじい驚異の変動期を迎える。その脳は子ども時代の脳とも、将来なるはずのおとなの脳とも全く異なる。
 どの年代の脳も記憶をつくるが、なかでもティーンエイジの脳は膨大な記憶を蓄えていく。そして、それによってアイデンティティが形成され、世界にどうアプローチしていくかが決まるのだ。これは、心理学者が「レミニセンス・バンプ(回想のこぶ)」とよぶ現象であり、そのころに特に忘れがたい強烈な記憶ができる(ヒトではだいたい一五~三〇歳の間)。
 若者の衝動性、何でも試して目新しさばかり求めること、未熟な意思決定といった特徴は、実行機能を担う脳の部位、特に前頭前野が脳のほかの領域と比べて成熟時期が遅い点と関係がある。仲間と常に一緒にいたがったり、さらに親との間に葛藤を引き起こしたりするのも、そもそも、感情や記憶や報酬感にかかわる脳の諸領域に生じる青年期特有の神経生物学的特質のせいだ。したがって、若者は気持ちが成層圏の高みほどハイになるかと思えば、地中深く落ちこむほどに暗くなり、気分の浮き沈みが激しい。薬物・アルコール乱用、自傷行為、神経疾患に陥りやすいのも、発達途上の脳部位に起因する。前頭前野関連領域は二〇代後半、ときとして三〇代初めになるまでは十分に成熟し終えないのだ。
 ところで、ヒトのティーンエイジの脳の不思議さについてはここ数十年の間に広く調べられてきて、こうした研究は、若者特有の行動がどこから来ているのかを理解する手助けとなった。だが、この画期的な科学研究は、まったくといってよいほど、もっと大きな事実から目をそむけている。つまり、青年期の間、ヒト以外の動物の脳と行動もやはり大がかりな変容を遂げるということを。
 若い鳥類の脳には、ヒトの発達途中の前頭前野の状況と似ている領域があり、個体の自己制御をつかさどっている。若いシャチやイルカの脳は、ヒトの脳と同じように、肉体や性的機能の成熟が完了したあとも成長しつづける。小型哺乳類やほかの霊長類の青年期の変化していく脳は、リスク好き、仲間との交際好き、新しもの好きといった傾向を助長する。若い爬虫類でさえ、子どもとおとなの間の時期に神経系の独特の変化があり、それは若い魚も同じだ。
 体を覆うのが、皮膚、うろこ、羽と違っていても、移動する手段が、走る、飛ぶ、泳ぐ、這うの違いがあっても、私たちはそれぞれの成熟した個体をつくり上げる生きものとしてのルーツを共有している。本書は子ども時代とおとな時代の間にはさまった時期──この時期を「ワイルドフッド」とよぶことにする──の普遍性について探っていく。数億年の進化の歴史を通して動物界を見渡せば、青年期のそれぞれの局面について、それがあるひとつの種特有のもの、あるいはヒトの各文化にしかないものであるのか、または、地球上のあらゆる生物に見られるものであるのかが区別できるはずだ。(第2回につづく)

第2回を読む→

『WILDHOOD 野生の青年期』紹介ページ

■著者紹介

バーバラ・N・ホロウィッツ
ハーバード大学人類進化生物学客員教授。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)心臓内科教授。
進化・医学・公衆衛生に関する国際協会(ISEMPH)会長。
バウアーズとの前著に『人間と動物の病気を一緒にみる』がある。

キャスリン・バウアーズ
科学ジャーナリスト。
UCLAとハーバード大学で動物行動学とライティングを教える。ワシントンD.C.にあるシンクタンク「ニューアメリカ」フューチャー・テンス・フェロー。ロサンゼルスのNPO「ソカロ・パブリック・スクエア」編集者や「アトランティック・マンスリー」誌編集員を務めた。

■訳者紹介

土屋晶子
翻訳家。
訳書に『フューチャー・イズ・ワイルド』( ダイヤモンド社) 、『寿命100歳以上の世界』(CCC メディアハウス) 、『人間と動物の病気を一緒にみる――医療を変える汎動物学の発想』( インターシフト) などがある。

■目次

プロローグ

第I部 SAFETY(安全)
第1章 危険な日々
第2章 恐怖の本質
第3章 捕食者を知る
第4章 自信にあふれた魚
第5章 サバイバル・スクール

第II部 STATUS(ステータス)
第6章 評価される時期
第7章 集団のルール
第8章 特権を持つ生きもの
第9章 社会的転落の痛み
第10章 味方のちから

第III部 SEX(セックス)
第11章 動物のロマンス
第12章 欲求と抑制
第13章 初体験
第14章 強制か同意か

第IV部 SELF-RELIANCE(自立)
第15章 旅立ちまで
第16章 生きるために食べる
第17章 ひとりでやり抜く
第18章 自分を見つける

エピローグ

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